対局日誌

ネット囲碁対局サイトでの、私の棋譜を記録していきます。
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片手落ちのいじめ議論

2006-11-24 22:00:13 | 雑談
いじめの話題が世情を騒がせている。

ただいじめそのものは今に始まったことでもないし、いままでも子どもはずっと叫び続けてきたのだ。
今回その「叫び」がまとまって発せられたことで、世の中の目に留まっただけである。
しかしキッカケはどうであれ、注目される問題として取り上げられている今、一過性に留まらず、長期的に効果を発揮するような根本的改革(教育委員会の見直し、教育界全体の構造改革などもその一つだ)が望まれる。

朝日新聞では、毎朝刊で
「いじめ(られ)ているきみへ」
と題し、各界の著名人によるいじめに対するメッセージを送っている。
どの程度の「いじめ(られ)っ子」がこれを読み、言葉を受け取ることが出来るかはわからないが、何もしないよりは良い試みだ。

一方でそれらの中で、「いじめられた」著名人による「立ち直った」の話は聞いたことがあっても、「いじめた」著名人の話は聞いたことがない。
被害者がいるなら、一方に加害者がいるはず。
その立場からの言葉がほとんど聞かれないのは、やはり違和感を感じる。

勿論、著名人が「いじめていた」では憚りがあるし、そうそう大っぴらに出来ないことは100も承知。
「いじめていました」が「大成しました」が「ワンサカ」では、「いじめられっこ」は救われない。
実際にはそのケースは、かなりあると思うけれど。
しかし「いじめていました」が、それをやめることで「大成しました」ぐらいの話はあっても良いのでは?
どちらかというと「いじめられた」人より「いじめた」人の方が多いはず。
それらの大衆が全部が全部、被害者面して「いじめられた」側に立ち、「いじめ」について語るのはちょっと偽善が過ぎるようにも思う。

またここの読者には肝に銘じてほしいことは、往々にして「いじめた」人というのは「いじめたこと」を忘れがちだということ。
これも「いじめた」人というのが表に出てこない一因だと思う。
かくいう私も、我が身を振り返る必要はあると思うが。

よほど善良な人か世捨て人出ない限り、ほとんど全ての人は「いじめられる」側と「いじめる」側、両方に属する場合が多い。
「いじめ」ということをただただ「世間」あるいは「子ども達の世界の話」の問題と捉えず、自分たちの中に内包する「いじめる」心理、「いじめられる」気持ちと向き合わないと、この問題に本当に取り組んだことにはならない。

現状の議論は、やや片手落ちの傾向がみられるように思う。