対局日誌

ネット囲碁対局サイトでの、私の棋譜を記録していきます。
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「必修」は「専門」か?

2006-11-01 01:15:28 | 雑談
先に必修科目の履修漏れの記事を書いたときに、島谷さんに頂いたコメントがどうもズレている気がしてならなかった。
だが、島谷さんのブログの記事を拝見して疑問が氷解。

つまり島谷さんは、今回履修漏れにあった科目を「専門的(?)科目」を「必修科目」にしたのが間違いだったとする立場であるようだ。
それならば、あのコメントも宜なるかな。

しかし本当に履修漏れの科目は、到底履修する必要のない「専門的」な授業だったのだろうか?

履修漏れの主な教科は「世界史」だったと思うが、これは学ぶ必要がない?
日本の歴史さえ知っていれば、世界がどう推移してきたかはどうでもよい?
その感覚には、猛烈な違和感を感じる。

私は理系の人間であるが、本当は歴史はしっかり学べば、あんなに知的興奮と実用性に富んだ学問もないと思う。
過去から何かを学べなければ、現代からも学べないというのはよく言われる言葉。
「日本史」と言えども、世界との密接な関わりなしには本来語れないはずなのだ。

しかし現在の学校で行われている「歴史」の授業に無駄というか、どうでもよさが漂うのは、私も認める。
例えば年号覚えなどはその最たるもので、あれは囲碁でいえば「定石の丸暗記」と一緒。
あるいは「J-13に石が打たれたのは、123手目」というようなことを、必死に覚えようとしている行為に等しいか。
歴史の事件というのは、それまでの事象からの「流れ」というものがあって起きるもので、その流れを学ぶのが歴史の本分だと思う。
しかし今回のように時間が足りないせいか、ただの概要を暗記する科目になっているのが実状だ。

だからそれはそれで問題として議論の余地があるのは否定しない。
他のブログに書かれていたことだが、何をもって必修科目とするかは科目を担当する人達の、コマの激しい奪い合いの末に成り立っている、難しい問題であるらしい。
その仕組みも含めて議論した上でその結果、それを制定する立場の人が「世界史はいらない」と判断したならば、賛成は出来ないがそれはそれでひとつのあり方だ。

しかしそれを私的な体験から早急に「不要な専門的な学問」と位置づけてしまうのも、軽率だと言わざるを得ない。
どこで読んだか忘れたが、若者達が
「日本とアメリカが戦争したことがあるんだってよ」
「まぢ?信じられネェ」
などという会話が罷り通る。
そんな世の中にゾッとしませんか?
この逸話を書いた人は眩暈がしたそうだが…。

それでも島谷さんは「いや世界史はいらない」と、胸を張られるかもしれない。
そこまで言われれば、私もこれ以上は言えない。
でもきっと私は、いつまでもそのスタンスに賛成出来ないだろう。
あるいは「学びの場」というものに、私はまだ希望を失っていないのかも。