爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

「むさしのフロントあさか」を散策

2019-11-10 19:14:41 | 日記

短時間の散策の場所を調べていたら、朝霞市に古民家(旧高橋家住宅)があるとの事で朝霞市に。埼玉県朝霞市というと自衛隊のイメージである。陸上自衛隊朝霞駐屯地のある市で、3年に一度、自衛隊記念日に中央観閲式が行われる。
元々、この駐屯地は、東京ゴルフ倶楽部が朝霞にゴルフ場を開発(1903年・昭和5年)した土地で、1940年(昭和15年)に陸軍省により買収、戦後は米軍が接収(キャンプ・サウス・ドレイク)し1960年(昭和35年)に返還された。
朝霞市の地名は、この東京ゴルフ倶楽部も関係している。町制施行の際、ゴルフ倶楽部の名誉総裁であった皇族・朝香宮鳩彦王にちなんで朝香という宮号を一字変え「朝霞」となった。その朝霞も市制施行50年を平成29年に迎えた。
標題の「むさしのフロントあさか」記念事業で、いつまでも武蔵野の面影を守るためにつけられた。
武蔵野線北朝霞駅で下車し「朝霞市博物館」に行く。
市内を流れる黒目川を渡る、浜崎黒目橋は変わった形の橋である。この黒目川は良く整備され市民の散歩コースとなっており川岸まで下りられ水が綺麗でる。

その市のことを知るには「博物館」が一番である。博物館で「自衛隊の街」の印象が変わった。

☆石器時代には人が住んでいた
 黒目川河岸から遺跡が発見されており、石器を遣って狩猟などをしていたのではと言われている。弥生時代には市内でも大集落が「岡」で発見、住居跡や方形周溝墓と呼ばれる墓から鉄斧や鉄剣が出土。古墳時代では、一夜塚古墳や柊塚古墳などが築かれた。

☆川越街道宿場町と新河岸川舟運
川越街道は、板橋宿から分岐し川越までの街道である。朝霞市においては膝折宿(旧膝折村)が宿場町である、この「膝折」という地名の由来は、賊に追われてこの地に逃れたところで馬が膝を折って死んだことに由来すると伝えられています。宿場町として栄えるとともに新河岸川を利用した舟運も盛んで朝霞市内には5つの河岸場があり年貢米や大根・人参などの野菜、小麦粉などが江戸に送られ、江戸からは糠や下肥などが送られ交易が盛んでした。

☆関東初の伸銅生産
「伸銅」とは聞きなれないが、展示品の中に水車があった、揚水・脱穀・製粉のための水車ではなく金属加工用の水車であった。江戸後期頃には、奥住・徳生・大畑氏によって伸銅業が始められ三家を中心伸銅工業が栄え、朝霞が関東の伸銅工業発祥の地と言われるようになった。
※伸銅とは?
日本伸銅協会によると銅に亜鉛、すず、ニッケルなどを加え、銅合金を溶解、圧延、引抜き、鍛造など熱間・冷間の塑性加工により板、条、管、棒、線などの形状に加工し製品にするが他の金属にはない優れた特性を持ち、多種多様な用途に用いられている。人類が初めて手にした金属は、銅だといわれ、銅は古くから人類の生活や文化の発展に貢献してきました。

博物館を出て、旧高橋家住宅に向かう、途中、東圓寺というお寺があり立ち寄る。
平安時代に創建された古刹です。境内から発見された板石塔婆は鎌倉時代に造られたものが中心となっています。文永5年(1268年)銘の板石塔婆は、市内最大・最古のもので市の指定有形文化財となっています。また、境内には「一夜塚供養塔」がありました。山門を通り境内の右に竹林があり石仏等が道順に置かれています、お寺の本堂は、台地上にあるが下まで降りるようになっており不動の滝があるようです。(残念ながら下まで降りませんでした)

起伏に富んだ東圓寺をあとに旧高橋家住宅に近づくと「湧水代官水」がありました。地域で「代官水」と呼ばれる自然湧水で、古くから灌漑用水に利用されてきました。武蔵野台地の縁辺、標高14~21mの崖線の谷頭から湧き出す湧水で武蔵野の特徴でもあり、貴重な自然環境です。

歩いていると古民家が見えてきました。18世紀前半(江戸時代中期)の建築と推定される農家建築で、土壁に丈夫な格子窓(シシマド)、床を竹で作っている(竹簀子床)が見られ、部屋境には押し板を造るなど中世以来の古風な建築の特徴を残しています。移築ではなく部材の再利用を含め建築当初の姿に復原しています。
名主の古民家を保存されている例は多いが、江戸中期の中流農家とのこと、主屋の間取りを見るとうなずけるが、時代が安定している表れであろう。
建造物(主屋・納屋・倉)を畑・屋敷林・雑木林が取り囲み、武蔵野の農家景観の特徴を伝えていることから、敷地も重要文化財に指定されています。

旧高橋家住宅の見学を終えてJR武蔵野線の北朝霞駅に。帰り道、氷川神社(朝霞第二小隣)、城山公園(岡の城山)に立ち寄る。城山公園は、黒目川に向かって突き出した舌状台地を利用した中世の城館跡です、縄文時代の貝塚があったことがわかり埼玉県選定重要遺跡となっています。

短時間の散歩と思っていましたが、時間と疲労感は予想以上でした。
地形が隣の和光市を訪れた時と同じで荒川低地と武蔵野台地の高低差(約40m)により、道路が入り組んでおり目的地に行くのに遠回りする感覚でした。

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小さいけど大仏は大仏 ~鎌ヶ谷を見守る「鎌ヶ谷大仏」~

2019-11-03 11:22:07 | 日記

短時間の散策のため千葉県鎌ケ谷市へ。武蔵野線新八柱駅(しんやはしら)で新京成線八柱(やばしら)に乗り換える、JRと京成では柱の読み方が違う。この八柱とは八の村(集落)が柱となって造った村のため付けられた。
新京成線の初富駅で下車し鎌ヶ谷市のことを知るため「鎌ヶ谷市郷土資料館」に入る。
鎌ヶ谷市は、人口約10万人で首都圏のベットタウンとして発展してきた。歴史は古く資料館の入り口には貝塚が展示され旧石器時代の遺跡が発見されている。縄文時代中期の住居跡が根郷貝塚で発見され、1軒の竪穴住居跡から埋葬人骨が発見されている。江戸時代には、野生馬の供給地となり、明治時代に入り初富開墾が行われ、「初富」の地名は「一番始めに開墾が行われ、富み栄えてほしい」という願いにより命名された。
この資料館、常設展示・企画展示とコンパクトであるが調査研究され展示されている。開発が進められる中、歴史を感じさせる物が街に見ることが少ないため資料館の役割は大きい。 


 

次に「鎌ヶ谷大仏」に向かう。初富駅のホームで年配の女性にお聞きしたら。その方は、20年前にこちらに引っ越し「大仏」のことを聞いたら良くも悪くもない話・・・何やらトーンダウン、史跡のことも聞いたら建物がどんどん建ち・・・これもトーンダウン。近郊都市の宿命なのだろうか歴史が消えていく。
鎌ヶ谷大仏駅に到着し、聞いた道順どおり進むと手前に「鎌ヶ谷八幡神社」の鳥居があり立ち寄る。大木が少ないため(伐採されていた)境内が何やら殺伐とした感じであるが、参道には庚申塔が並んでいた。案内板には「百庚申」とあった。天保12年(1841)11月から翌年にかけて建てられたもので青面金剛像を彫った刻像塔10基と庚申塔、文字を彫った文字塔90基で構成されている。百庚申は、江戸時代後期に数量によって多くの功徳を願う数量信仰の影響を受けてうまれたもので下総地方を中心に流行した。

八幡神社を出ると道路の反対側に大仏が見えてきた。周りにビルや看板等がなければそれなり目立ったのだろうが・・・。
全国に○○大仏の名がつくものが北は札幌から南は大分まで多く存在する。大仏は、大きな仏像を指し、釈迦の背丈が1丈6尺(約4.85m?)で、その高さ以上造られた仏像(座像は半分の大きさ)を大仏といわれ
たが、その高さより小さくても大仏と言われるものもある。当時は、信仰心の表れが大きさや数だったのでしょう。
「鎌ヶ谷大仏」は、鋳造青銅製の釈迦如来像で高さ1.8m、台座を含めて2.3mである。古くから一帯のシンボル的大仏となっている。建立は、安永5年(1776年)11月に大国屋福田文右衛門が先祖の霊の冥福を祈るため江戸神田の鋳物職人に造らせた。今でも福田家が個人所有、管理し墓地入り口付近に鎮座している。
墓地の奥に史跡「官軍兵士の墓」がありました。江戸城の無血開城に反対する旧幕府軍と新政府軍が市川、船橋周辺で戦をしたが、ここ鎌ヶ谷においても2名の新政府軍の兵士がなくなり、その墓石でした。佐土原藩(宮崎県宮崎市)の弔い料と千葉県の官費により建てられました。

鎌ヶ谷市は、北総鉄道、京成電鉄、新京成電鉄、東武鉄道が走る交通の要衝でもあり、都市化の波で私が興味のある街並みや史跡等が少なかったのは残念である。

【その他のPhoto】

 


 

 

 

 

 

 

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