爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

市制施行60周年の蕨市を散策する

2019-04-21 09:44:13 | 日記

蕨市は、現職中は何度も所用で訪れたが、意外と何も知らなかった・・・もっと足を延ばして観て回ればよかったと反省した。 私たちが地理の授業で多くの特徴のある市町村名を覚えてきたが、ここ蕨市も記憶に残る都市名の一つである。それは人口密度が日本一、面積が最小などの記憶がある。

蕨市は、埼玉県南東部に位置し川口市、戸田市、さいたま市に接するやく74万人の都市である。土地は埼玉県南部の特徴である平坦な地形であり蕨市は大きな河川もない。産業分類では、第一次産業0.2%、第2次産業19.7%、第3次産業81.0%と給与所得者が多く必然的に蕨市の土地利用は住宅地となっている。

 

「蕨市」の市名の由来は、根拠となるものが残っていないが二つの説があり、植物からと言う説と在原業平が藁の火で体を暖めたことから「藁火(わらび)」と名付けられたという説があるが、文献上は「藁火」と記されたものは残っていない。

京浜東北線蕨駅で下車し西口に出ると階段下に「蕨駅開設記念碑」がある。開業は、明治26年(1893)で、当時の列車発着本数は上下11本で鉄道の開通で往来が盛んとなった。現在は、一日の乗車人員は60,856人/日で県内のJRの駅では利用者6位となっている。

蕨は中山道69次のうち板橋に続く2番目の宿場町である。中山道は、西口から1Kmほど西に歩いたところにある。離れているのは、駅開業に際し蕨宿の人たちが反対であったからである。これが宿場街として面影が残せたことにつながったのだろう。 途中、長泉院というお寺があった。山門入口の案内には蕨市指定文化財「梵鐘(おしゃみの鐘)」とあった。このお寺、檀家をもたない祈願時で、梵鐘は1758年に作られたもので蕨宿の「時の鐘」であった。水戸の弘道館の鐘と並んで江戸時代の名鐘の一つにかぞえらており、戦時中は鐘の供出が免除されている。境内に入っても梵鐘が見あたらない、何処かで保管しているのかとコンクリートの本堂の上を眺めると本堂上に梵鐘の屋根があった。

中山道に着き、蕨歴史民族資料館分館を訪れる。蕨市第4代市長金子氏の旧宅で貴重な遺産として市に買い上げられ別館として公開しています。資料館というよりも、明治時代に織物の買継商をしていた家をそのまま利用した商家である。敷地は、516坪(1705㎡)、床面積95坪(313㎡)木造平屋建て寄棟造りで中山道に面している、住居内には内蔵や天井の明かり取りなどもある商家兼住居の貴重な建築物であり、池のある庭園は、庭と住居の配置などのバランスがよく考えられている。建物は、明治20年、戦前、戦後に増改築された部分があるようだが、店の部分は一番古い明治期の建築である。 商いである買継商の織物は、蕨では江戸時代後期から塚越村を中心に綿織物業が盛んとなり「織物ののまち」として発展した「双子織」に代表される綿製品は、良質てで値段も安価なため評判となった。

分館から300mぐらいの所にある、本館である「蕨市立歴史民俗資料館」に向かう。隣が本陣跡になっており館内は蕨宿の模型や宿場に関わる資料展示、織物器などが展示してある。中山道には所々に旧家がある。ビルも少なく街道を楽しめる。

中山道ふれあい広場から右に曲がり、古刹である三学院に入る。天正19年(1591)に徳川家康から寺領20石を寄進されたお寺である。正式名称は、金亀山極楽寺三学院と言う。お寺で三学院という名称は珍しい印象を受けるが、推測であるが仏道を修行する者が必ず修めるべき基本的な修行項目である、戒学・定学・慧学か、秘密3部経、三学録からと思われる。 大きなお寺という印象が強いが本堂などの建物は新しいく古い物はないが、仏像、石仏などに関しては多くの文化財が残されている。

続いて「和楽備神社」 に、何とも当て字的な神社ではあるが、隣の蕨城の守り神として室町時代に創建された。明治44年(1911)に蕨にあった18の鎮守社を合祀して出来た神社。万葉仮名の表記を用いて「和楽備神社」と名付けた、それ以前は、八幡社として渋川氏の蕨城の守護神であった。

 神社の隣が「蕨城跡」である。観応3年(1352)文献(賀上家文書)のなかに初めて「蕨」の地名があらわれる。中世の蕨は、足利氏の一族であった渋川氏が館を(蕨城)を構え、市(いち)も開かれた。大永4年(1524)頃に北条氏綱に攻められ落城となり、その後、渋川氏が合戦で戦死し廃されたと伝わる。 現在は、城址公園として整備されている。 この公園でTVでも紹介される有名な記念像がある。「成年式発祥の記念像」である。成人式は、今日、国民の祝日として、多くの自治体が成人式のお祝いの行事をおこなっているが、ここ蕨町(現在の蕨市)で戦後初めて成年式をおこなったが、名称は「青年祭」といった。第1回青年祭は、昭和21年11月22日~23日の3日間であった。蕨での戦後復興に対する青年の役割や新生日本の原動力を期待する一つの行事だったのだろう。

 

蕨市は、小さい市であるが古い歴史を大切にし、蕨市市制60年後のさらなる躍進を、期待せずにはいられない街である。

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