爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

オンライン講座12 「出羽三山、江戸隆盛の秘密」を聞いて

2024-08-08 11:47:59 | 日記

副題として、~家康の威光と物語が広めた憧れの霊山~とある。学校では出羽三山について教えられた記憶はないが、月山や羽黒山は山の名前で地理で知っていたが。月山、羽黒山、湯殿山のいわゆる出羽三山については小さい頃の記憶にあるが具体的には聖地であることのみで、今回の講座はいい機会であった。
講師は、山形大学名誉教授の岩鼻通明氏である。

ここでは、岩鼻氏の講座の際のプレゼンテーション資料を中心に紹介します。

はじめに
江戸時代、東北・関東一円の信仰を集めた出羽三山。なぜ、中央から遠く離れた霊山へと人々は参詣したのか。隆盛の鍵となる人物を軸に、三山が再興されていった時代に光を当て、その名を広めた幕府の威光やさまざまな物語に迫る。                                                                         山形県⇓     

♢パート1♢  ー羽黒山中興の祖・天宥と江戸時代の出羽三山ー
江戸時代の初め、羽黒山第50代別当となった天宥(てんゆう)。彼が羽黒山中興の祖といわれるのは、徳川家康の宗教政策がもたらした出羽三山の危機を回避した業績に由来する。
家康の寺社法度は修験者の統括を目的とし、全国の修験道場は天台宗系の本山派と、真言宗系の当山派のどちらかに属さなければならないとされた。地方の修験の山々はそれまで独立性があり、峰入りという修行で独自に修験者の資格を与えていた。
これに対し天宥は、家康の側近・天海と結んでとある奇策を講じ、出羽三山の従来の地位と機能を守った。しかし、それは三山を天台宗派と真言宗派に二分する論争を生む。さらに、自身の失脚を招くばかりか、後の世にも軋轢を残すことになる。出羽三山は、そもそもどのような霊山なのか。古代からの変遷と天宥の策略を見ていく。
出羽三山中興の祖・天宥、芭蕉、お竹という三人の出羽三山の関りについて話したい。
*月山がありますが、標高1984mの火山ですが山頂に本宮が祀られています、麓に*湯殿山・羽黒山があります。
*月山は>「西の伊勢参り、東の奥参り」という言葉もあり一生に一度は参拝するべき場所として有名、出羽三山の主峰である。月を象徴する神として死後の世界から蘇りを司る霊山である。火山活動は30万年前が最後でその際に山頂部が形成された。山麓は湧水群があり、「水源の森百選」にも選定されている。氷河の地形も見られ夏季(旧暦)にも関わらず残雪が見られて、月山を訪れた松尾芭蕉は、奥の細道で「雲霧山気の中に氷雪を踏んで登ること八里、更に日月行道の雲関に人かとあやしまれ、息絶身こごえて、頂上にいたれば日没して月顕わる」と記している。
*湯殿山・羽黒山>修験道の霊場でもある。

月山、羽黒山、湯殿山で現在・過去・未来を表しています。
湯殿山が出てくるのは江戸時代以降です。江戸時代始めに葉山に変わって湯殿山が出てきます。
江戸時代の出羽三山の登り口は、「八方七口」と呼ばれる七ヶ所の登り口がありました。それぞれ*別当寺というお寺があります。七口の登りが天台と真言に分かれる形になります。羽黒口、肘折口、岩根沢口が天台宗、七五三掛口、大網口、本道口、大井沢口が真言宗が登り口になります。特に湯殿山の祭事をめぐって天台と真言が対立する事が江戸時代には何度も繰り返されました。
*別当寺>神仏習合の江戸時代以前に神社を管理するために置かれた寺のこと。


「三山一枚絵図」は、参詣のお土産に持ち帰り用に作られました。この絵図は、実際の地形配置とは違い宗教観に基づいて書かれた物になります。


♢パート2♢ ー出羽三山の名声を広めた芭蕉の旅と参詣ルートー

1689年(元禄2年)3(新暦5)月、松尾芭蕉は東北を巡る旅に出る。天宥の失脚から20年ほどを経たころである。芭蕉はこの旅で出羽三山に詣でて、1702年(元禄15年)に紀行文『おくのほそ道』に3句を載せた。

元禄は、庶民の間に「旅」という娯楽が広まり始めた時代。『おくのほそ道』は図らずも、出羽三山の名声を高めることに貢献した。門人をはじめとする芭蕉を慕う人々が紀行を読んで三山に詣で、それが庶民にも波及していったのである。
だが、芭蕉の出羽三山詣でには奇妙なところがある。登拝ルートが当時の慣例と異なるのだ。しかも、かなりの強行軍であり、羽黒山での滞在期間も異例に長い。そこには、何か秘められた意図や背景があったのか。同行した弟子の曾良が残した詳細な旅日記から二人の参詣ルートをたどり、天宥後の出羽三山の姿を探る。

出羽三山の名声を広めた芭蕉については、出羽三山の句を読まれています。

一般的には湯殿山論争絵図と言われる物ですが祭事の権利を巡って天台と真言が争った*「両造法論」という裁判に作られた絵図。
羽黒山(天台)、月山(天台)、湯殿山(真言)が裁定の山となり、両者の境界が存在し、高札場・装束場が境界であったと言われている。


*両造法論>登拝とは信徒が山頂登拝する信仰活動であり、檀那場(だんなば)との直接的な関係を持っていた。檀那場とは特定宗派の信仰圏・経済圏のことであり、今風に言えば“縄張り”である。他は霞(かすみ)と呼んでいた。
登拝口は各宗派の法流に従うことで、里山伏の稼ぎはかなり収益があり、八方七口のそれぞれの寺社の経済原になっていた。
それが、寛永、寛文年間に登拝口の法流(仏法の流派)に関して、激しい論争になった。
もちろん、経済的な主張だけではなく、宗教的な論争であった。具体的には真言宗と天台宗の争いであり、これを歴史的に“両造法論”と呼んでいる。

♢パート3♢ ー庶民に親しまれた お竹大日如来と湯殿山の誕生ー
羽黒山の門前町、手向(とうげ)の荒澤寺正善院に於竹大日堂(おたけだいにちどう)がある。江戸後期、「大日如来の化身」と庶民に信仰された女性、お竹さんが祀られている。
お竹さんは、羽黒山の麓に生まれたとも伝えられる女性。江戸の武家へ奉公に出されたが、働き者で信仰心が篤く、慈悲深い行いが評判になり、没後に奉公先の主人が大日堂に祀ったと伝わる。この物語は、歌舞伎や錦絵などの題材にもなり、江戸市中に広まった。
お竹さんが大日如来の化身とされたのは、両親が湯殿山に願掛けをして授かった子であり、湯殿山の本地仏が大日如来であったからだ。しかしこの物語は、出羽三山によって意図的に流布されていた気配がある。
東北や関東など東日本で広く信仰されていた出羽三山。その中にあって、なぜお竹物語は江戸市中で広められたのか。三山における湯殿山の異質な側面とともに、お竹さんの謎に迫る。

お竹大日如来は、錦絵や歌舞伎にもなり江戸庶民に浸透していった。


おわりに
出羽三山は、近代以降に使われるようになった用語である。かつては「羽州三山」、「奥三山」、「羽黒三山(天台宗系)」と呼ばれていた。出羽三山は、蜂子皇子(はちこのおうじ)によって開山されたが、江戸時代以前は真言宗であった。中興の祖と言われる天宥は、「真言宗」の僧侶(名・宥誉)であったが、徳川将軍家の庇護を受けるため天台宗の天海に接近し天台宗に改宗した。僧侶名も天宥とした。三山執行となると橋・手水舎・鳥居・滝の造営を整備した。出羽三山を支配下に置こうとするが抵抗にあい流罪となった。その後、松尾芭蕉の流布やお竹さんという女性の善行から周囲から大日如来の化身とされ崇拝をあつめ、参詣者を集め、知れ渡った。出羽三山が流布したのはフォッサマグナ(中央構造線・新潟県~静岡県)で分かれるようである。

【参考資料】

 ・大人の休日倶楽部 講座
 ・ウイキペディア
 ・「出羽三山歴史の分岐」美術家 村岡信明
 ・出羽三山神社
 ・鶴岡市羽黒町観光協会

 

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