爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

「日本橋をわたった江戸時代の旅人たち」講座 参加記

2018-12-06 16:48:09 | 日記

大人の休日倶楽部「趣味の会」特別講座が上記のテーマで秋葉原でおこなわれました。
副題として「五街道の起点・日本橋 江戸時代の人々の旅を知る」となっている。講師は、歴史研究家、多摩大学客員教授の 河合 敦 氏 であった。
「①五街道起点の日本橋②お伊勢参りと庶民の旅③日本橋を渡った外国人」の三つの点で講演された。

日本橋は、単なる橋ではなく地名でもあった。(日本橋~江戸橋の地域名)
摂津国からの漁民が定着し魚河岸、三井高利による「越後屋(三越)」出店、金座があり両替商が盛んになり金融・商業の中心となった。日本橋は江戸城の大手門の正面、江戸の中央に位置し、参勤交代の制度のための街道の整備と問屋場・本陣・脇本陣・旅籠など交通システムがつくられた。参勤交代は、加賀前田家では190回で1回2000人~4000人、金沢~江戸120里(480km)で5億~7億かかった。幕府は華美にならないように御触れをだしたが、大名の半数以上が派手さを好んだ。映画「超高速!参勤交代」のように「口入れ屋」からアルバイトを雇ったようです。学校では習わなかった・・・

19世紀には庶民の旅する時代になったが、楽しむためでなく信仰、治療などの理由が必要だった。伊勢神宮は、最大の観光地で、伊勢参りを目的に組織・積立をした「伊勢講」。「御師」と呼ばれる参拝や宿泊の世話をするツアーコンダクターもあらわれた。また、「御蔭参り」(60年に一度)の無銭旅行(ヒシャクを持って行く)もあった。このような背景は、風景画の流行、名所図会、教育水準の向上(寺子屋)があった。日本橋には出版社も多く、貸本屋が盛んで、家庭の医学・占い・旅行用心集が出版された。また、徳川綱吉の時代には、旅の安全を祈願した江戸六地蔵を造った。綱吉ほど評価の分かれる将軍はなく、「生類憐れみの令」から悪政の将軍とされたが、近年の教科書では、子どもを捨ててははならない、お年寄りを大事にという法令を次々に出した「名君」と評価が変わった。

長崎出島のオランダ人は、年1回外出を許され、江戸に来ていた。東日本橋の長崎屋に商館長らは泊まり、交流もしていた。3泊4日で京都東山を観光し「祇園豆腐」に立ち寄った記録が残っている。また、琉球からの慶賀使、朝鮮通信使も来ており日光東照宮に行っていた。
輸入もあり、第一位は生糸で動物も輸入。吉宗の時代には像を二頭、その他、ペルシャ馬、ラクダなどがあった。当時、輸入雑貨屋も唐物屋としてワイングラスなど売っていた、ミイラも50体程輸入の記録もあった。(ミイラは薬のため輸入)
アメリカ船員からコレラなどパンデミックの流行もあった。
交流のなかで外国人の日本人に対する見方は、中国人は自惚れるが、一方、日本人は好奇心旺盛で学んでいる。中国は、古い習慣が外国品の防壁となっているが、日本は下層階級でも花が好き、よく肥えて身なりがよい。女性は積極的な事もあるなど発信している。

河合氏は、高校の教員の経験もあり分かりやすく楽しく歴史の話が聞けた。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小石川の紅葉を楽しむ散歩 | トップ | この暖かさでカルガモも河川敷に »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事