5月の「退職者の会」の「日帰り散歩」は春日部である。人口232,372人で埼玉県第7位、東武スカイツリーラインの沿線では越谷、草加市に続くが東部地区では埼玉県の地方庁舎があるなど中心となる春日部市である。国勢調査では2010年から人口減少もみられる。市名は、粕壁から昭和に入り春日部に表記変更された。
春日部駅集合で雨が心配されたが、自他ともに「晴れ女」のNさんの参加で「大丈夫だ!」と9名で駅前の道を進む。
歩いてすぐの所に小さな神社があった。粕壁神明社(1781)で元々は、個人持ちの社であったが、宿場の守り神として多くの人々の信仰を集めるようになった。
さらに駅通りを進んだ所に春日部の観光案内所「 ぷらっとかすかべ」があり立ち寄って観光パンフレットを頂くが案内所には春日部市の名産品なども紹介していた。
春日部駅集合で雨が心配されたが、自他ともに「晴れ女」のNさんの参加で「大丈夫だ!」と9名で駅前の道を進む。
歩いてすぐの所に小さな神社があった。粕壁神明社(1781)で元々は、個人持ちの社であったが、宿場の守り神として多くの人々の信仰を集めるようになった。
さらに駅通りを進んだ所に春日部の観光案内所「 ぷらっとかすかべ」があり立ち寄って観光パンフレットを頂くが案内所には春日部市の名産品なども紹介していた。
「ぷらっとかすかべ」を出て、春日部市郷土資料館に向かう途中「加藤楸邨旧居跡」の案内板があった。俳人・国文学者の加藤楸邨は、結婚後に現在の県立春日部高校の教員となり、そこで水原秋桜子と知り合い師事、「馬酔木」に参加し頭角をあらわした。
春日部市郷土資料館が入っている「春日部市教育センター」には、一度、研修で来館したことがあったが、資料館については気が付かなかった。春日部市の古代から近代まで展示されている、特に「粕壁宿」のジオラマはよくできていた。
春日部市郷土資料館が入っている「春日部市教育センター」には、一度、研修で来館したことがあったが、資料館については気が付かなかった。春日部市の古代から近代まで展示されている、特に「粕壁宿」のジオラマはよくできていた。
資料館から旧日光街道に出て東陽寺に入る、このあたりが脇本陣になるらしい。東陽寺は、「奥の細道」の旅で最初に粕壁に宿泊した寺で、境内には松尾芭蕉の記念碑があり、弟子の曽良の随行日記の一節「二月廿七日夜カスカヘニ泊ル江戸ヨリ九里余」刻まれている。春日部市は、日本橋より35Kmぐらいで一同昔の人の健脚ぶりに関心。
交差点近くの八坂神社と東八幡神社と回る、八坂神社は粕壁宿の市神で祭礼は「春日部夏祭り」の起源となってます。東八幡神社は境内には御神木で樹齢約600年の「東八幡大けやき」また「三ノ宮卯之助の力石」なる石がありました。江戸時代に力持ち日本一になった卯之助(越谷市在)が八幡神社の興行の際に持ち上げた記念の石との事。100貫目(375Kg)を持ち上げたのだろうか?。
昼食の時間となり、Sさんの今日の占いでビビンバが良い?との一言で韓国料理店のビビンバ定食を食べる。昼食後は、碇神社へ向かう、碇は船の碇との話で県指定の天然記念物である「イヌグス」(学名:タブノキ)の木があり、大落古利根川を航行する目印になった木でした。樹木名「イヌグス」は初めて聞く名であるが、南方系の樹木でこの辺が北限らしい。碇神社は、名主の敷地内にある屋敷稲荷ですが、面影がないほど変わってました。
旧日光街道に戻り、「道しるべ」「問屋場跡」「商家の蔵」を見ながら、古刹「最勝院」に入る。
春日部重行が南北朝時代に武勲により地頭に任命され、遺骨が長男によって最勝院に埋葬された、春日部の祖とされる。
この辺は寺町と言われ真言宗智山派のお寺が多く、隣の成就院、玉蔵院と回る。成就院には、粕壁宿の名主で古利根川の洪水を防ぐ堤防を築いたり、災害にあった人々に救くった見川喜蔵の墓があります。
踏切を渡り春日部駅西口に、駅前には秋葉神社の「夫婦松」がありました。この「夫婦」は、よく見ると松の木とイチョウの木の夫婦で、地上1mぐらいの所から分岐していました。もともと秋葉神社は、ここにあったが駅前開発で神社が移転し御神木だけが駅前に残されました。
これにて散策を終了、時折、小雨が降ったりやんだりでしたが、スッキリした街並みに「いいネ」、無電柱化を推進しているからなのか、広く感じました。
旧日光街道の粕壁宿ということで古い蔵等が見られたが、名主の家、商家など中まで見学出来るところが少ない感じがした。首都圏で保存・維持は難しいかもしれない。
旧日光街道の粕壁宿ということで古い蔵等が見られたが、名主の家、商家など中まで見学出来るところが少ない感じがした。首都圏で保存・維持は難しいかもしれない。
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