爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

小さいけど大仏は大仏 ~鎌ヶ谷を見守る「鎌ヶ谷大仏」~

2019-11-03 11:22:07 | 日記

短時間の散策のため千葉県鎌ケ谷市へ。武蔵野線新八柱駅(しんやはしら)で新京成線八柱(やばしら)に乗り換える、JRと京成では柱の読み方が違う。この八柱とは八の村(集落)が柱となって造った村のため付けられた。
新京成線の初富駅で下車し鎌ヶ谷市のことを知るため「鎌ヶ谷市郷土資料館」に入る。
鎌ヶ谷市は、人口約10万人で首都圏のベットタウンとして発展してきた。歴史は古く資料館の入り口には貝塚が展示され旧石器時代の遺跡が発見されている。縄文時代中期の住居跡が根郷貝塚で発見され、1軒の竪穴住居跡から埋葬人骨が発見されている。江戸時代には、野生馬の供給地となり、明治時代に入り初富開墾が行われ、「初富」の地名は「一番始めに開墾が行われ、富み栄えてほしい」という願いにより命名された。
この資料館、常設展示・企画展示とコンパクトであるが調査研究され展示されている。開発が進められる中、歴史を感じさせる物が街に見ることが少ないため資料館の役割は大きい。 


 

次に「鎌ヶ谷大仏」に向かう。初富駅のホームで年配の女性にお聞きしたら。その方は、20年前にこちらに引っ越し「大仏」のことを聞いたら良くも悪くもない話・・・何やらトーンダウン、史跡のことも聞いたら建物がどんどん建ち・・・これもトーンダウン。近郊都市の宿命なのだろうか歴史が消えていく。
鎌ヶ谷大仏駅に到着し、聞いた道順どおり進むと手前に「鎌ヶ谷八幡神社」の鳥居があり立ち寄る。大木が少ないため(伐採されていた)境内が何やら殺伐とした感じであるが、参道には庚申塔が並んでいた。案内板には「百庚申」とあった。天保12年(1841)11月から翌年にかけて建てられたもので青面金剛像を彫った刻像塔10基と庚申塔、文字を彫った文字塔90基で構成されている。百庚申は、江戸時代後期に数量によって多くの功徳を願う数量信仰の影響を受けてうまれたもので下総地方を中心に流行した。

八幡神社を出ると道路の反対側に大仏が見えてきた。周りにビルや看板等がなければそれなり目立ったのだろうが・・・。
全国に○○大仏の名がつくものが北は札幌から南は大分まで多く存在する。大仏は、大きな仏像を指し、釈迦の背丈が1丈6尺(約4.85m?)で、その高さ以上造られた仏像(座像は半分の大きさ)を大仏といわれ
たが、その高さより小さくても大仏と言われるものもある。当時は、信仰心の表れが大きさや数だったのでしょう。
「鎌ヶ谷大仏」は、鋳造青銅製の釈迦如来像で高さ1.8m、台座を含めて2.3mである。古くから一帯のシンボル的大仏となっている。建立は、安永5年(1776年)11月に大国屋福田文右衛門が先祖の霊の冥福を祈るため江戸神田の鋳物職人に造らせた。今でも福田家が個人所有、管理し墓地入り口付近に鎮座している。
墓地の奥に史跡「官軍兵士の墓」がありました。江戸城の無血開城に反対する旧幕府軍と新政府軍が市川、船橋周辺で戦をしたが、ここ鎌ヶ谷においても2名の新政府軍の兵士がなくなり、その墓石でした。佐土原藩(宮崎県宮崎市)の弔い料と千葉県の官費により建てられました。

鎌ヶ谷市は、北総鉄道、京成電鉄、新京成電鉄、東武鉄道が走る交通の要衝でもあり、都市化の波で私が興味のある街並みや史跡等が少なかったのは残念である。

【その他のPhoto】

 


 

 

 

 

 

 

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