神田明神祭務所地下参集所にて「神田祭と神田明神の歴史を学ぶ講座」が行われた。講演が神田神社権宜岸川氏ということで、一般の研究者と違った切り口のお話で勉強になりました。ここで少し紹介を・・・。(講演内容全てを紹介できればいいのですが)
♦神田明神の歴史
創建は、奈良時代の天平2年(730)に豊島郡柴崎村(現・千代田区大手町にある将門塚周辺)に真神田臣が祖神・大己貴命を祀り鎮座、創建。
※創建は今の場所ではなく、神田明神の名は、真神田命からとったと言われている。
延慶2年(1309)には平将門公を合祀。
※大手町にある将門の首塚は、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受けてきた、この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあると言われ、大手町の一等地にもかかわらず現在は囲いをし祀られている。
神田明神が現在の地に遷座されたのは、元和2年(1616)の江戸拡張により現在の外神田・表鬼門守護の地に遷座、幕府により社殿や神輿などが寄附され、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」となった。
※慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いにおいて神田明神で戦勝祈祷をして9月15日・神田祭の日に家康軍勝利した。このように徳川家康とは様々な縁があり、江戸時代以降に盛大に行われた。
明治時代に入ると、神田明神から神田神社に改称。 ※多くの神社が、明治政府の命により江戸時代の名前から変更された。
♦江戸三大祭の一つ 神田祭
江戸時代には、「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と言われ、江戸時代から現代まで続く神社の大きな年中行事であり、娯楽の少ない江戸庶民にとっては大きな楽しみであった。特に神田祭と山王祭(日枝神社)は、天下祭と呼ばれ盛大な祭りとして知られていました。神田祭は、京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに日本三大祭りの一つとも言われています。
お祭りの期日は、江戸時代は旧暦9月15日でしたが現在は、5月となっています。天和元年(1681)頃まで毎年行われていたようですが、町々の祭礼費の負担が多く山王祭と交互に隔年斎行されています。
天下祭と呼ばれた所以は、江戸城・内曲輪内へ祭礼行列が入れた、徳川将軍や御台所の上覧、幕府による神輿行列の費用負担と祭礼奉仕などから他の神社とは優遇が異なった。
現在は、神幸祭を中心に1週間ほどの行事である。巡行は神田、日本橋、大手町、丸の内、秋葉原108町会を巡行する、この巡行は回ることによりお祓い、清めるそうである。神田祭も今は神輿が中心となっているが、かつては山車であった、それが通行への影響や地震災害で焼失などで神輿が主流となっている。神輿の担ぎ手は、氏子ではなく江戸時代では日雇い労働者であり、氏子は町で待っているそうで、現在も同じようです。
江戸時代は、宮神輿が中心であったが、現在は町神輿に移っており、神幸祭行列と巡行することはほとんどないとのこと。
♦江戸祭礼で人気があったのは?
祭礼で人気のあったのは神輿や山車ではなく、山車の後に付く「附祭」(つけまつり)が最も人気があった行列であった。様々な出し物から構成、各氏子町が競うあうかのように毎回違うテーマを考え、担ぎ万度、練物、造物、踊台、底抜屋台、地走踊などの行列となった、今で言うハロイン、AKB、阿波踊りなどが行列したのだろう。
♦神田明神と銭形平次
神田明神の境内に「銭形平次の碑」がある、「銭形平次捕物控」はロングドラマでギネス認定された、野村胡堂の名作で、舞台設定が神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と長屋に住み明神界隈を舞台に活躍したことから作家クラブが境内に建立した。時代設定は、将軍徳川家光の時代、描かれた風景は文化文政期(1804~29)、平次の特徴である「投げ銭」は、中国の「水滸伝」の石投げからのヒントとのこと、また、銭形という名も建設中のビルの「施工 錢高組」からヒントを得たとのこと。野村胡堂が銭形平次を書くにあたり留意したことは、①容易に罪人をつくらないこと②町人と土民に愛着をもつこと③サムライや遊人を徹底的にやっつけること④全体として明るく健康的な読み物にすること(縄田一男「捕物帳の系譜」より)留意点が面白くしているようです。主役をした大川橋蔵が目に浮かびます。
神田祭も行事の中に、献茶式、明神能・幽玄の花(金剛流薪能)などを加えて神事を行い、伝統の創造もしているそうです。
神田神社境内に交流館も完成し、時代時代に沿う神事を模索しているようです。
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