爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

オンライン講座10 考現学の祖・今和次郎が描いた東北

2022-11-10 12:37:37 | 日記

副題として~大地に根ざした暮らしへのまなざし~となっています。講師は、今和次郎の研究、継承している青山学院大学総合文化政策学部客員教授・黒石いずみ氏です。

この講座は、東京ステーションギャラリーでおこなわれた展覧会・「東北へのまなざし1930-1945」~タウト、柳宗悦、ベリアン、今和次郎らは何を見ようとしたのか~の今和次郎氏の研究、業績等を掘り下げた講座となっています。展覧会の概要については、、2022.9.24のブログも併せてご覧ください。
講座を理解するため内容を記述し今和次郎氏が残した足跡をたどりたい。

Part1 今和次郎の民家調査と考現学
♢今和次郎の生涯♢

 *当時の図按科は、グラフィック、ファッション、建築とあらゆるものを含み、金細工、伝統工芸も       教えていた。
 *1959年定年退職(勤続47年)
 *東京オリンピックのユニホームを決める仕事をしました。
図按家・デザイナーとして見ると、人を引き込む表現力があり、彼は、人を引き付けるとはどういう事か考えながらデザインの勉強していた。


描写力、観察力を見込まれて、民俗学の創始者と言われる柳田國男に誘われ、新渡戸稲造という日本の国際化のパイオニアと言われる方と郷土会や白菜会の活動を1918年頃から始めます。柳田は、農政の官僚だから最初は、農業の問題意識を持ってなかったと思います。

1922年出版の「日本の民家」にいたるまで多くの所を廻っていて地図にプロットされているが、北の方は少ない、東北に重点を置かれていない時期だった。しかし、柳田や地理学者などさまざまな方と廻って目を養っていく。どんな視点が増えたかというと、左側の絵は囲炉裏の鉤の周りにはどんなものを置いてあるかの絵で、真中は山小屋にどんなものをおいてあるかの絵、右は漁村の住宅は家の周りにどういうふうに物を置いて漁から帰ってきた後の生活のマネージをしているかの絵。

柳田や今は、一つ一つの物を大事にして人々が暮らしにあわせて置いているたたずまいを美しいと、人間として豊かだな思って描いたスケッチだと思います。詩情というか人の生き方、自然との関係に豊かさを読み取る私的なポリティカルな視点が表れているのがこのスケッチ、1920年に書かれた「津軽の農家」(林檎のなる土地の家)でリンゴの木がリンゴの絵で書かれている、ここで彼の表現力を使って詩情を使い始めていた。このような人のたたずまいの中に詩情を読み解く視点を彼が育てながらいた。34歳の時で、これから変貌しいく。


1923年に関東大震災が起きます。いまでは架設とか避難所を用意してもらっている、これが普通になっているが、当時は、身の回りの物を集めて瓦礫を自分で片づけてそこに小屋を建てる。ムシロとか木の棒とかトタンとかいろんな物を使って小さい小屋を造る、そこに雨漏りしないようにコールタールで模様を書く、それは、たくまずして生まれるかわいらしい模様で彼はこういうのをたくさんスケッチして廻る、被災の中で人々がどういう面白い物を作り出しているか、お上から用意されている小屋のようなものでも変えている。いまでは公共のものを手を出せないものがあるが、昔はそんな事がなくどんどん変える、それが面白いと調査をします。スケッチの経験をいかし彼は建築家としての活動もおこないます。


考現学というのは?、考現学というロゴは、左側の図で考現学のロゴ周りに矢印がありますが、これは時計なんですね、時間ごとに都市の中で起きていると彼は観察します。この観察は仲間をたくさん動員して行われたもの、最初は右上に書いている「社会学の補助として・・・復興の過程を記録・・・消費社会の進展を観察し科学的に分析する」をしようとしていました。


彼は数字だけでなく人を見ている、その最たるものが、東京銀座街風俗記録でINPEXとかいてあるので統計ですが人のファッションの各部分部分の統計調査をして、全体として集めた時に男性がどのくらい洋服に変わっていて女性はどうなのか調べた、そうすると部分部分で変化の仕方が違う早く洋風化する部分と、しない部分、組み合わせ方も人によって違う、それを細かく調べた、結果は男性は67%が洋風に変わっているのに女性は1%でしかない新聞や雑誌は皆が洋服になっているが違っている実態はメディア、政府の意見とは違うという事を明らかにしている。一つ一つの統計も面白い、長く統計は取れないので、注目する部分が明確であれば面白い統計が取れる。


そこにその人の人生がどのように表れているか読み取るのが調査の目的。彼の空間や人や物を丁寧に物語を読んでいく、民家を見てその様子を見る事から一人一人のくらしのたたずまい、風俗そしていろんな場面で人々を見る絵が深まっていくのがわかります。

♢今和次郎は大正時代の末期、仲間とともに東京・銀座や深川の風俗を数多くのスケッチで記録した。行きかう人々の服装にその素材、カフェーに出入りする人の行動や従業員の制服など、その描写と書き込みは実に微細にわたる。調査研究手法に「考現学」という名を与えた。

彼の東北への思いがにじむ。街の華やかさの裏にある出稼ぎ者の貧しい暮らしぶり。その子細な描写に、近代化を進める都市と取り残される地方の落差が言葉にするより雄弁に描き出されているのである。♢

※考現学ー今和次郎が提唱した学問、現代の社会現象を場所・時間を定めて組織的に調査・研究し、世相や風俗を分析・解説しようとする学問。考古学をもじってつくられた造語。(ウィキペディアより)

【その他のPhoto】

パート2 東北ルネッサンス 農村研究から積雪地方農村経済調査所の活動へ
日本の近代化のプロセスを動かした大事な人の中に東北出身の人が多かった。(写)渋沢栄一、原敬、後藤新平、新渡戸稲造、渋沢さんは違いますが、原・後藤・新渡戸さんは岩手です、渋沢も東北に深く関わっていきます。

年表でお見せします。左が近代化でどんな事が起きたか、右が今和次郎がどう絡んだかのリストです。新渡戸稲造の祖父は実業家で開発・開墾を行い近代化を進めた。新渡戸さんの事業を引き継ぎ持続させたのが渋沢さんです。日本の近代化で東北が重要である事を最初に意識した人です。そうした人間関係の中に今和次郎も入っていた。


1923年関東大震災では後藤新平が東京市長として復興に取り組み今和次郎がバラック調査、生活改善事業、考現学もあった。
考現学は、華やかな都市化の中で消費生活のメッカとなっていくことに危機というか、ついていけるのか他の部分の生活と繋がって行けるだろうか、そうした危惧があっての調査だったのかわかる。
日本の近代化は世界の中で見る時に中国・韓国との関係が重要であり、今和次郎は民家調査の延長として朝鮮総督府の調査の手伝いをする。
朝鮮でも家の中の道具の写真を撮る、細かい日々の道具に対するまなざしが徹底しておりまして、大工道具やお祭りの道具や農業の道具などあらゆる道具を写真に撮っております。今和次郎が日本での民家調査の手法が生かされ違う風土、違う風習の生活をどうやって描こうか工夫を重ねている。建物の素材、気候も冬は厳しい人々はオンドルを使ってどうやって換気をおこなって床を暖房し、そして洋服を部屋の中に掛けて乾かしているのか、庭に置かれている道具も物も日本と異なるのがわかります。
韓国の住まいのあり方を生かした改造・新築がどんなに優れているか今和次郎は説明した人々の住み方、暮らし方の実態を見ないで改善はかえって人々を不幸にしてしまうという考えを彼は持っている。


竹内芳太郎と今和次郎1934~1941年の間で多く東北を巡っています。地域地域の特徴ある住まいを見て、その暮らしも見て回っている。目的というのが東北の生活の改善のため様々な事が行われていて積雪地方の経済調査所の活動が重要であった。
調査所は三つの目標があり2番目の副業の中で民芸が重要なテーマになってくる。地方に行くと工芸品があるが民芸品との違い?民芸は柳の価値観で価値を見出しPickupしたもの、地域の工芸すべてを民芸と認めたわけではない。選んでその中のいくつかの物を洗練させて完成させ製品として民芸として売るわけです。

 

大量生産は工芸品、その中で手作りの特別の味わいを持っているのを民芸品、手作りと機械生産以前の段階で工芸と民芸は接触している事がわかります。工芸から民芸、芸術作品あるいはデザインへと曖昧なさまざまな次元の概念の橋渡しをした。もう一人の人がシャルロット・ペリアンです。シャルロット・ペリアンという人は、当時、仙台で地域工芸の産業化を進めていた人、工芸指導所が呼んだ人です、山形県新圧で指導にあたった。

新圧は、文化的交差点として文化的交流がおこなわれる場所でもあった。
地元の元々の文化と外からの文化の中で今和次郎は何をやったのか、地元の人々のため共同施設・恩賜郷倉の設計で東北六県に再建を意図する基準設計案を開発(現在も各地に残る)。

それとともに「農村家屋改善調査」も行っています。つねに囲炉裏の建物の問題、台所の問題を指摘していく。そこで造られたのが「試験農家家屋」、彼は東北の人達の暮らしを観察し建築家として、作品として実現したのが「試験農家家屋」である。1階に厩があり風呂があり、2階に台所など生活空間があり、3階に子どもたちが遊ぶような所が造られている。

♢大正後期から昭和初期にかけての東北は、度重なる冷害と飢饉、三陸地震津波などの被害にさらされた。農村部は著しく疲弊し、さらに金融恐慌が拍車を掛けた。そのような背景下で1933年(昭8年)、農林水産省により山形県新庄市に「積雪地方農村経済調査所(雪調/せっちょう)が設置された。その役割は東北復興にあり、農村・農家の生活を改善し、経済的な自立に導くことを目的としていた。

雪調は、農家に副業を奨励し、工芸品の開発には柳宗悦らの民芸運動を取り入れた。今和次郎は、民家研究の専門家としてこの活動に加わり、農村調査に基づき住宅改善計画を提案する。それを具現化する試験農家家屋の設計建築も手掛けた。♢

この生活によって時間的余裕が出来て雪降しも楽だし暮らしがどんどん楽になるかと思っていたら、逆に建築家が試験をしたり実験をしたりして造るのはいいんですが、住まい手はどうなんでしょうか、最初はいいんですが段々それについていけなくなる。実験をする側と、される側の状況に対する適応とか期待するものが違うんだという事を彼は気がついたと思う。しかし、まなざしは人々の今までどうやって暮らしていたのか、いまどんな事をやっているのかを、どうやって国の方策の中に還元していくのか努力に貫かれています。
都会のテーブル・イスの生活ではなく、実際の農家はお母さんが働いているのを見ているこれこそが大事、ダイニングキッチン、この原型はこういうものでは。今和次郎が草案したのではなく、すでに農家の方々が少しづつやっている工夫というのを彼は位置ずけた。住まいの大事な場所は団欒である、皆が生き生きと女性も生き生きと生きる団欒にあることを彼は東北・新圧の周りで発見し提案し図面化していく、そしてその運動が当時の羽仁もと子(自由学園創始・婦人の友)という女性運動家の東北セットルメント運動に協力していく。
女性達が集まって字を習い、家計を計算する事を習いそして裁縫を習いチョットでもお小遣いを稼いだのを子ども達の洋服に使ったり自分の雑誌を買うのに使ったり女性が自立し経済的な知識を得るだけでなく自信を持ち知識を得るように非常に身近な教育の場を運営する場にも協力して行くことになる。

※セトルメントー正確には「ソーシャル・セツルメント」で、隣保館などと訳され、社会教化事業を行う地域の拠点のこと。

パート3 現在に生きる東北考現学
今和次郎さんが行った事を、後の世代がどう展開して行ったか。


人々がどうやって生きていったら幸福なのかを考えていた。戦争が終わった時一気にアメリカの影響を受け入れ近代化を加速します。今和次郎が戦後に取り組んだ事は農村の改善に取り組んでいたが、女性の地位の向上の活動、生活研究という領域を開拓したり服飾学を一生懸命やります。西洋と日本の着物の対立ではなくファッションという文化を作ってきたと彼は解く。彼の知識が生かされて東京オリンピックにおけるユニホームが世界に対して訴えていく美しさを持つ事が可能になった。人は一人一人の暮らし方があって細かい所に理屈があってそれを読み込まなければ科学は意味を持たないと解いて分析していきます。
家政とか生活科学は、全体を合理的に整えていく必要な知識ではあるがそれだけではない広がり、文化的蓄積、無意識なものを尊重していきましょうと言うのはいまだに必要な事だと思います。生活を人々の個人の心の歓びから見る、戦後、彼はやって行きます。このアプローチを考現学から見ていきます。彼の民家調査というのは建物を細かく見るだけでなく中を見たり自然や地形との関係を見てるわけですが、それを直接生かした調査が1960年代に多くの研究者によって研究されてきた、地方の部落や都市の街並みから住まい、その住まいの各地に置かれている物の関係を細かく調査し地図に起こし断面図を書きたくさんのデザインサーベイというかたちに残しています。
考現学の応用と展開では1970年代のトマソン活動で街の中を調査していくオリンピックで表面だけがピカピカになった東京への問題意識からタバコの吸殻が捨てられている様子とか皆が忘れた置き去りの物とか、途中から使われなくなった物など無用のものを拾って歩く、そして表面だけピカピカにする都市のありようは人間的におかしい、汚い所面白い忘れられた所が大事ではないかと提案していく。

※トマソン活動:不動産に付属する無用の長物を指す芸術上の概念

現代も東京スリバチ学会の地形をグーグルアースで面白い所を探して見に行って実際はどうなっているか、行ってみないと分からない楽しさがある、散歩の中で出会う人々やチョットした発見は考現学の中での発見、チョットした興味からそこに埋もれている大事なものを再認識する、いまだに私達にとって大事な方法である。


東日本大震災ではガレキ掃除を行いましたが、被災者にとってはガレキではない、日々の物なんです、片づけていると、カセットテープがあり、辞書があり、化粧品があり考現学で今和次郎が農村の住まいを見たときどう思ったのだろう、これはゴミだ雑物とは見なかったのでは、これは自分と同じ人間が暮らしている証である、その人々がこんなに苦労しているんだと感じたのではないか。仮設の住宅、復興公営住宅がどんなに綺麗な住宅でも休まらない辛いと、住まいの変化は被災者はずうっと引き続いてそれが苦しい、だから今和次郎が東北で行った調査は非常に重要だった。

♢現在、考現学は独立した学問分野としては存在しえなくなっているしかし、その視点や手法は、さまざまな分野のフィールドワークにいかされている。今和次郎が考現学において大切にしたのは、その土地に住む人の生活の構造を把握し、何を重んじるべきかを考察することである。そのために、住む人の一人ひとりに目を向け、暮らしの細部から人々の心理までも読み解こうとした。♢

今和次郎達の調査の後追い調査、その調査で気付いた事、遠くの方の風景が意外と面白い事がある、メインの道路から離れた道路、昔の街道に昔の家が結構残っている、地域地域の気候・地形を反映した面白い造り方が残っている。窓先に何かつるしているとか雪囲いに何をやっているか、家と家の間は雪を落とす適切に距離を保っている、蚕を作る建物の維持など新幹線から地域の様子を眺めるのは地域を探す一歩である。これで分かった事は、大量生産の住宅の中、人々は古い家を少しづつ直しながら、その時その時の用途に合わせて使っている方がいっぱいいる、それが美しいかったりする。民家は、生き続けている時代時代の暮らし方、地域の産業や地域のあり方を反映しながら残るべきものは残っていく。そういうものを丁寧に見ていく事が大事だと思います。

今和次郎の民家調査というのは、柳田國男が日本文化の古層を探ると言っていろんな人々の暮らしを探るというのが重要な研究の一部として行われていたが、実際の場所の回りで人々がどう自分で作っているかを見るというのは柳田とは違う意味で重要な事だと思います。言葉で残るものと物の形や場所で残るものそれぞれ文化の構成物であり、それが芸術なのか文化なのかというのかその時代には分からなくても後になって大事だなと思う事がたくさんあるんだということです。

【その他のPhoto】

考現学について初めて知った。一建築家が設計だけではなく人々の生活面、心理面まで踏み込んで調査・研究されていることに驚きである。

今和次郎氏を研究されている、黒石教授の講演の内容を、忠実に記述と思っていましたが、なかなか・・・

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 千葉・印西市で食事会🍜 | トップ | オンライン講座11  「山の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事