今年の天気は、ジグザクで暖かい日が続いたと思うと、寒い日が来る。今日、朝起きると屋根が薄ら雪で白くなったいが、風がないぶん助かる。「退職者の会 日帰り散歩の会」の案内ハガキには、文学碑巡り中心でガイドブックにないコースとの事、小生、文学にはまったくうとく、テスト向けの勉強で、文学の真髄までふれられないままである。
錦糸町の駅に到着。城東地区の中心的な街で錦糸町の由来は錦糸堀から来ていると言われ、この辺はゼロメートル地帯で水路が多く、現在では、公園として整備されている。昔から「楽天地」を中心に駅周辺が歓楽街として栄えた、錦糸町に対してあまり良いイメージがないが、東京スカイツリーの営業とともに人気の街となっている。
駅前ロータリーの反対側に行き、Mさんがここに「伊藤左千夫」の住居跡の碑と説明。
参加者、こんな場所で・・・駅前の一等地である。伊藤左千夫は、明治22年に26歳で居を構え、搾乳業を営んだ。錦糸町駅は明治27年(1894)に本所駅として営業しており、当時、この一帯は空き地であった。歌人・小説家が搾乳業とはと思ったが、当時、明治政府の経済政策(外国農法導入・士族授産)で勃興し、小資本で営業出来るため、当たり業の一つと言われ、現在のような難しい起業ではなかった。
伊藤左千夫は、農家の四男として生まれ、基本的な知識は持っていたようである。この地に26年間住み酪農家と文学活動を進めた。
碑には、
「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも」
と刻されていた、子どもの日常の様子が伝わてくる。
錦糸町の由来と言われる錦糸堀公園を目指す、ビルの間から「ラジオ体操広場」のポールが見えてきた、錦糸堀公園である、公園の一角に「カッパ像」があり、置いてけぼり伝説の場所である。
= 噺 =
町人たちが錦糸町あたりで釣りをして、夕暮れ釣れた魚を籠に入れて
帰ろうとすると、堀の中から「置いていけ」と恐ろしい声がし、逃げ
帰って家で魚を入れた籠を見ると釣った魚が一匹も入ってなかった。
この噺は、本所七不思議と呼ばれ奇談・怪談の一つで人気のあるエピソードとして伝えられている。
錦糸堀公園から「四ツ目通り」の反対側に「江東観世音」がある、さほど古くはなく、群馬県で有名な水沢観音を迎えて開基した神社である。
さらに西に歩いて行くと都立両国高校の校舎が見える、正門に回ると入口左に「芥川龍之介」の碑がある。芥川龍之介は、両国高校の前身である旧府立三中を卒業した、青春時代をこの地で過ごした。
= 碑文 ー大川の水ー =
自分に「東京」のにほひを問う人があるならば、自分は大川の水のにほひと
答えるのに何の躊躇もしないであろう。独にほひのみではない。大川の水の色、
大川の水のひゞきは、我愛する「東京」の色であり、声でなければならない。
自分は大川あるが故に、「東京」を愛し、「東京」あるが故に、生活を愛する
のである
また、この両国高校の敷地一帯が、我が国最初の国産マッチを製造した場所で、黄燐マッチ(安全マッチとも呼ぶ)の名で発売した。
両国高校から「大横川親水公園」にでる。この公園、数年前に観光案内で知っていたが、これほど長い公園とは思わなかった。幅30~40m、長さ1.85Kmの公園である、この一帯は、付近に工場が多く地下水の汲み上げから地盤沈下が激しく、浸水の危険があるため、埋め立て公園として整備した。こう長い公園だと河川沿いの人たちにとっては、多くの方の憩いの場となっているのだろう。
しばし大横川親水公園を歩き錦糸町駅の反対側の道路にでて、津軽稲荷神社を参詣する、名のとおり津軽藩下屋敷の屋敷神を地域の守護神としている。
早めの昼食を済ませて、法恩寺を参詣する。太田道灌のゆかりの寺で、道灌が江戸城築城にあたり城内鎮護の祈願所として建立した。墓地には太田道灌の供養墓、境内には「七重八重 花は咲けれども 山吹の・・・」道灌公の記念碑が建立されている。このお寺の住所、墨田区太平は、太田道灌の太と、山号の平河山の平をとって太平町と付けられた由緒あるお寺である。
法恩寺の側には支院として陽運院(「めぼし霊場」として有名)、千栄院(「たんぼとけ霊場」として有名)がある。
さらに北に100m進むと霊山寺がある。江戸時代には大寺院であったとの事、境内には「八木家」との表示の「五輪塔」等があったが、「八木家」がどういう方なのかわからない、立派な墓石で境内に建立されているので、お寺にとってそれなりの方なのだろう。
大横川親水公園に戻り、紅葉橋を渡り「能勢妙見山別院」に入る。元々は、大阪であり能勢氏が下屋敷に妙見大菩薩を分体をお祀りしたのが始まりで、勝海舟が9歳のとき、犬にかまれ大怪我をしたとき、父が妙見様に日々参じて水垢離し、看病したことで治癒した事から父と勝海舟の熱烈な信仰を得たとし有名になった。また、NHK大河ドラマで坂本龍馬と佐那(さな子)が参拝に訪れたと紹介され人気の寺院となっている。
別院を出て、本法寺に向かう。本法寺は、江戸時代には6つの子院を持つ大きなお寺であった、墓地には狩野元信と伊藤宗院の墓石がある。元信は、足利将軍の御用絵師として活躍し狩野派の祖とも言える。伊藤宗院の墓は将棋の駒の形をし、お参りした方が将棋駒を置いていた、明治期には将棋再興に努め11世名人となり坂田三吉と対局した「関根金次郎」を育てた。
本法寺を出て、幹事のMさんがお城に行きましょうと、あれ・・・散歩コースに「城」は無かったが?いつものとおりMさんにお任せで14人ぞろぞろついていく。何かしら違和感のある建物が、上を見て、あ~これが お城か!!和菓子の「お城 森八 本舗」である。昭和8年創業の老舗である、よくTVに取り上げられる。
それぞれ買い物をして、天祖神社経由で「鶴屋南北」のお墓のある春慶寺に向かう。この春慶寺は室内墓のようで境内が見あたらない、浅草通りの方に回ると鶴屋南北の墓石がショーウインドウのようなガラス張りの所にあった、「東海道四谷怪談」の作者もこんな場所に納まるとは?まさに怪談である。古い墓石は大破しているが手前に再建された墓石があります。
ここでコーヒータイム、道路の反対側の喫茶店で一服。元気を取り戻して北十間川沿いに東京スカイツリーへ、平日なのスカイツリー効果で混み合っていました。
今日の散歩コースである「錦糸町から業平周辺の散策」どこからでも東京スカイツリーが見えました、華やかなイメージの少ないこの地域が新たな息吹を感じさせられます。
ここで解散・・・お疲れ様でした
【その他のPhoto】
錦糸町の駅に到着。城東地区の中心的な街で錦糸町の由来は錦糸堀から来ていると言われ、この辺はゼロメートル地帯で水路が多く、現在では、公園として整備されている。昔から「楽天地」を中心に駅周辺が歓楽街として栄えた、錦糸町に対してあまり良いイメージがないが、東京スカイツリーの営業とともに人気の街となっている。
駅前ロータリーの反対側に行き、Mさんがここに「伊藤左千夫」の住居跡の碑と説明。
参加者、こんな場所で・・・駅前の一等地である。伊藤左千夫は、明治22年に26歳で居を構え、搾乳業を営んだ。錦糸町駅は明治27年(1894)に本所駅として営業しており、当時、この一帯は空き地であった。歌人・小説家が搾乳業とはと思ったが、当時、明治政府の経済政策(外国農法導入・士族授産)で勃興し、小資本で営業出来るため、当たり業の一つと言われ、現在のような難しい起業ではなかった。
伊藤左千夫は、農家の四男として生まれ、基本的な知識は持っていたようである。この地に26年間住み酪農家と文学活動を進めた。
碑には、
「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも」
と刻されていた、子どもの日常の様子が伝わてくる。
錦糸町の由来と言われる錦糸堀公園を目指す、ビルの間から「ラジオ体操広場」のポールが見えてきた、錦糸堀公園である、公園の一角に「カッパ像」があり、置いてけぼり伝説の場所である。
= 噺 =
町人たちが錦糸町あたりで釣りをして、夕暮れ釣れた魚を籠に入れて
帰ろうとすると、堀の中から「置いていけ」と恐ろしい声がし、逃げ
帰って家で魚を入れた籠を見ると釣った魚が一匹も入ってなかった。
この噺は、本所七不思議と呼ばれ奇談・怪談の一つで人気のあるエピソードとして伝えられている。
錦糸堀公園から「四ツ目通り」の反対側に「江東観世音」がある、さほど古くはなく、群馬県で有名な水沢観音を迎えて開基した神社である。
さらに西に歩いて行くと都立両国高校の校舎が見える、正門に回ると入口左に「芥川龍之介」の碑がある。芥川龍之介は、両国高校の前身である旧府立三中を卒業した、青春時代をこの地で過ごした。
= 碑文 ー大川の水ー =
自分に「東京」のにほひを問う人があるならば、自分は大川の水のにほひと
答えるのに何の躊躇もしないであろう。独にほひのみではない。大川の水の色、
大川の水のひゞきは、我愛する「東京」の色であり、声でなければならない。
自分は大川あるが故に、「東京」を愛し、「東京」あるが故に、生活を愛する
のである
また、この両国高校の敷地一帯が、我が国最初の国産マッチを製造した場所で、黄燐マッチ(安全マッチとも呼ぶ)の名で発売した。
両国高校から「大横川親水公園」にでる。この公園、数年前に観光案内で知っていたが、これほど長い公園とは思わなかった。幅30~40m、長さ1.85Kmの公園である、この一帯は、付近に工場が多く地下水の汲み上げから地盤沈下が激しく、浸水の危険があるため、埋め立て公園として整備した。こう長い公園だと河川沿いの人たちにとっては、多くの方の憩いの場となっているのだろう。
しばし大横川親水公園を歩き錦糸町駅の反対側の道路にでて、津軽稲荷神社を参詣する、名のとおり津軽藩下屋敷の屋敷神を地域の守護神としている。
早めの昼食を済ませて、法恩寺を参詣する。太田道灌のゆかりの寺で、道灌が江戸城築城にあたり城内鎮護の祈願所として建立した。墓地には太田道灌の供養墓、境内には「七重八重 花は咲けれども 山吹の・・・」道灌公の記念碑が建立されている。このお寺の住所、墨田区太平は、太田道灌の太と、山号の平河山の平をとって太平町と付けられた由緒あるお寺である。
法恩寺の側には支院として陽運院(「めぼし霊場」として有名)、千栄院(「たんぼとけ霊場」として有名)がある。
さらに北に100m進むと霊山寺がある。江戸時代には大寺院であったとの事、境内には「八木家」との表示の「五輪塔」等があったが、「八木家」がどういう方なのかわからない、立派な墓石で境内に建立されているので、お寺にとってそれなりの方なのだろう。
大横川親水公園に戻り、紅葉橋を渡り「能勢妙見山別院」に入る。元々は、大阪であり能勢氏が下屋敷に妙見大菩薩を分体をお祀りしたのが始まりで、勝海舟が9歳のとき、犬にかまれ大怪我をしたとき、父が妙見様に日々参じて水垢離し、看病したことで治癒した事から父と勝海舟の熱烈な信仰を得たとし有名になった。また、NHK大河ドラマで坂本龍馬と佐那(さな子)が参拝に訪れたと紹介され人気の寺院となっている。
別院を出て、本法寺に向かう。本法寺は、江戸時代には6つの子院を持つ大きなお寺であった、墓地には狩野元信と伊藤宗院の墓石がある。元信は、足利将軍の御用絵師として活躍し狩野派の祖とも言える。伊藤宗院の墓は将棋の駒の形をし、お参りした方が将棋駒を置いていた、明治期には将棋再興に努め11世名人となり坂田三吉と対局した「関根金次郎」を育てた。
本法寺を出て、幹事のMさんがお城に行きましょうと、あれ・・・散歩コースに「城」は無かったが?いつものとおりMさんにお任せで14人ぞろぞろついていく。何かしら違和感のある建物が、上を見て、あ~これが お城か!!和菓子の「お城 森八 本舗」である。昭和8年創業の老舗である、よくTVに取り上げられる。
それぞれ買い物をして、天祖神社経由で「鶴屋南北」のお墓のある春慶寺に向かう。この春慶寺は室内墓のようで境内が見あたらない、浅草通りの方に回ると鶴屋南北の墓石がショーウインドウのようなガラス張りの所にあった、「東海道四谷怪談」の作者もこんな場所に納まるとは?まさに怪談である。古い墓石は大破しているが手前に再建された墓石があります。
ここでコーヒータイム、道路の反対側の喫茶店で一服。元気を取り戻して北十間川沿いに東京スカイツリーへ、平日なのスカイツリー効果で混み合っていました。
今日の散歩コースである「錦糸町から業平周辺の散策」どこからでも東京スカイツリーが見えました、華やかなイメージの少ないこの地域が新たな息吹を感じさせられます。
ここで解散・・・お疲れ様でした
【その他のPhoto】