爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

みりん・小林一茶・近藤勇の街 流山市

2015-06-08 15:41:05 | 日記
図書館で借りた本の中に流山市の散歩コースが掲載されていたので、近い事もあり行くことにした。しかしJR南流山駅は「つくばエックスプレス」で乗り継ぐ時以外下車した事がない。地図を片手に流鉄「鰭ヶ崎」駅付近の東福寺へ、弘法大師が814年に開山といわれ、由緒あるお寺である。この地の地名である「鰭ヶ崎」は弘法大師が仏像を彫っていると海龍があらわれ「背鰭」の先を残した事から「鰭ヶ崎」と名付けられました。通りから東福寺に入ると左手に庚申塚、正面には階段があり、上がった所に仁王門、両側に金剛力士おり、本堂の方に進むと左に鐘楼、右手に小さい門がありますが門の上に彫り物があり、これが左甚五郎の「目つぶしの鴨」と言うそうです。近所の田圃が度々荒らされ、彫った鴨の足に泥がついているのを見つけ目に釘を打った所、荒らさなくなったという話ですが、確かに彫った鴨の目がちょっと変でした。次の赤城神社には徒歩でなく電車で行くことにしました。

赤城神社は次の平和台駅の住宅街の林の中にあり、山門には大きいしめ縄が飾られていました。小さい山門に「大しめ縄」がぶら下がっている光景は違和感がありますが、流山市の無形民族文化財に指定されています。赤城神社の由来は、群馬県の赤城山の土が大洪水ここまで流れてきたため赤城神社と命名。また、この地は山が流れ着いた地のため流山と言ったそうです・・・どうなんでしょうか?
隣のお寺の光明院は、赤城神社の別当寺で、小林一茶に関わる句碑が多くありました。小林一茶は、度々、俳人仲間の秋元双樹を訪ね親交を深めていました、一茶は家庭的には不遇で一人一茶と言われており、双樹との親交の時が充実した人生でだったと思われます。

一茶と双樹に関わる記念館が光明院の先にありました。秋元家の子孫が住んでいた家を流山市が買い取り、「一茶双樹記念館」としました。施設は、本家(展示・みせ)/一茶庵/双樹亭からなり、一茶庵と双樹亭は一般に貸し出しされている、前の庭が素晴らしいので今では味わえない雰囲気を味わえます。


秋元双樹の名前は俳号で本名は秋元三左衛門と言い、味醂醸造(天晴味醂)を始めた人で、のちの味醂の2大ブランドの一つだ。秋元家の味醂の醸造は平成19年で閉鎖したが、もう一つの堀切紋次郎の「万上みりん」はキッコーマンと経営が変遷した。「みりん」は、現在は各家庭の調味料としてありますが、昔は飲用されていたそうです。
流山市の「小林一茶」、「みりん」ときて最後の史跡が近藤勇陣屋跡である。陣屋そのものが残っているわけでなく、あくまでも陣屋「跡」である。官軍に追われて敗走し、立て直すために流山に移動、光明院などに分宿していたが官軍の先鋒隊に捕まり、近藤勇は連行された板橋で処刑された。流山が近藤勇と土方歳三の最後の別れの地とともに、新撰組の解体の地でもある。

最後、博物館に行きがてら商家が多く残っていたので見て回った、商家の点在する地域は江戸川により近い、旧流山街道ぞいに点在していた、流山が舟運で繁栄した街で、交通の要衝でもあった。

流山市立博物館は、図書館と併設である。2階の一角が博物館で旧石器時代から現代、新撰組、みりん等が展示され歴史的にも古い流山市である事がわかる。

自宅から近い割には遠回りなどしてしまった事もあり2万歩を超えてました。疲れた!!

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