組合退職者の会で南千住を散策した、南千住は足立区(北千住が足立区)と思っていたが荒川区との事、気がつきませんでした。 暑い中での散策のため近場を企画したの話で、今年の暑さを考えると正解でした。
○延命寺~回向院
メトロ南千住駅を下車し最初に行った所が「延命寺」
、いわゆる小塚原刑場跡である。ここは、鈴ヶ森刑場と並び江戸時代の有名な処刑場のあった場所で、日比谷線に乗っていると見えるお寺である。
明治時代初期まではりつけ・斬首などが執行されていた、現在は、「首切地蔵」が当時の霊を祀っている。先の「東日本大震災」で地蔵がズレて修復された。関東大震災では大丈夫だったとの事で、いかに今回の震災が大きい物かわかる。ここのお寺も独特な文字の墓碑字体であった、千葉県の本土寺でも見たが、隣の先輩が「ひげ文字」で日蓮宗の特徴であると話していた。次に行ったの隣のお寺で「回向院」という所、吉田松陰・橋本左内らの幕末の志士、鼠小僧次郎吉・片岡直次郎(*1)・高橋お伝(*2)らの墓がある。また、この寺は、杉田玄白・前野良沢らがここで刑死者の解剖見学をきっかけに「解体新書」を翻訳したことから、近代医学発祥の地として有名なお寺である。
*1江戸時代の小悪党・無頼漢で講談、歌舞伎の題材とされ「天保六花撰」に描かれる人物。
*2強盗殺人の罪で斬首刑に処せられた女性、「明治の毒婦」と呼ばれた。
○素盞雄神社~旧千住製絨所煉瓦塀~東京スタジアム跡地~円通寺
何とも読みにくい名である「すさのおじんじゃ」と言う、荒川区内で最も広い地域の鎮守で、松尾芭蕉の詠んだ「行春や鳥啼魚の目は泪」の句碑が建てられている。
千住は「奥の細道」の出発の地である。境内には一般の方々の俳句も飾られている。円通寺まで行く間に旧千住製絨所跡地がある、明治時代の殖産振興で建てられた日本初の官営毛織物工場で煉瓦塀の一部だけが残っており、面影は全くない。
近くには初代所長である「井上省三」銅像がり、日本羊毛の発祥の地となっている。
この跡地は戦後、大和毛織株式会社に払い下げられが後に閉鎖され、大映株式会社による東京球場が誕生、大毎オリオンズの野球場を作ったが映画の不況で区立のスポーツセンターに変遷している。一部は、今も南千住野球場として残っている。
ぐるっと回ってやっと「円通寺」へ、上野戦争後、戦死した障義隊を祀った事で有名で隊士の墓が多くある、住職が障義隊を祀った縁で、上野寛永寺の黒門が移設された。黒門には弾痕が多くあり、当時の戦争の激しさを伝えています。また、天野八郎や榎本武陽ら旧幕臣の墓碑がある。
○昼食~浄閑寺~永久寺~金太郎飴本店~背面地蔵尊
昼食は、南千住のジョイフル三ノ輪商店街へ、こういう商店街があるのは、東京下町である、いろんなのが揃う、スーパーマーケットの方が便利であるが、こういう物があっても良い各店舗いろんな工夫されていて良い、画一的でないところがおもしろい。その中にある、蕎麦やの「砂場」へ。
ここの「砂場」は、マスコミにも度々取り上げられる江戸時代から続く有名なお店である、文化財指定を受けているようで、普通の蕎麦やより古めかしい、有名人が訪れるらしく写真やら書物が店内にあった。店構え・店内など昔からの蕎麦やのイメージ。参加者11人が酒飲み派と食事派にテーブルが分かれて食事、帰り際トイレに行った者がレトロさにビックリしたようである。味の方は、私は田舎の蕎麦が好きなため評価はできない。食後は、三ノ輪駅付近の浄閑寺へ、安政2年の大地震で犠牲となった、吉原の遊女達の遺体がが投げ込まれたと事から別名「投込寺」と言われている。
境内には、「新吉原総霊塔」が建てられ、塔には、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と刻まれていた、遊女の哀れさを感じざるをえない。このような悲しい遊女達に思いを馳せた永井荷風が度々訪れたため詩碑がある。浄閑寺から近い所に目黄不動(永久寺)がある、江戸五色不動(目白・目赤・目黒・目青・目黄の各不動*3)の一つである目黄不動が安置されている。
最後の見学場所が「背面地蔵」、暑い中の歩きはだらけてしまう、そのためか?通りすぎて「金太郎飴本店」まで行ってしまう。
本店という事でお店の見学、買うでもないのゾロゾロ中に、お店のおばさんが試食品をみんなに配るばかりか、暑さに倒れないようにと塩飴まで頂いてしまった、大サービスである。お店の方に「背面地蔵」の場所を聞く。わかりにくい場所にあった、当時は奥州街道の傍に道路仏として西向きに立てられたが、後年、道筋が寺の東側に改まり、地蔵尊の向きを直したところ、不思議なことに一夜にして元の向きになったと言い伝えがある。
ここで解散となったが、コンパクトで良いコースであった。
*3 将軍徳川家光が大僧正・天海の健言により江戸府内から5カ所の不動尊を選び、天下太平を祈願した事に由来したと言われている。目の色ではなく五方角(東西南北中央)を色で示したと言われる。
○延命寺~回向院
メトロ南千住駅を下車し最初に行った所が「延命寺」
、いわゆる小塚原刑場跡である。ここは、鈴ヶ森刑場と並び江戸時代の有名な処刑場のあった場所で、日比谷線に乗っていると見えるお寺である。
明治時代初期まではりつけ・斬首などが執行されていた、現在は、「首切地蔵」が当時の霊を祀っている。先の「東日本大震災」で地蔵がズレて修復された。関東大震災では大丈夫だったとの事で、いかに今回の震災が大きい物かわかる。ここのお寺も独特な文字の墓碑字体であった、千葉県の本土寺でも見たが、隣の先輩が「ひげ文字」で日蓮宗の特徴であると話していた。次に行ったの隣のお寺で「回向院」という所、吉田松陰・橋本左内らの幕末の志士、鼠小僧次郎吉・片岡直次郎(*1)・高橋お伝(*2)らの墓がある。また、この寺は、杉田玄白・前野良沢らがここで刑死者の解剖見学をきっかけに「解体新書」を翻訳したことから、近代医学発祥の地として有名なお寺である。
*1江戸時代の小悪党・無頼漢で講談、歌舞伎の題材とされ「天保六花撰」に描かれる人物。
*2強盗殺人の罪で斬首刑に処せられた女性、「明治の毒婦」と呼ばれた。
○素盞雄神社~旧千住製絨所煉瓦塀~東京スタジアム跡地~円通寺
何とも読みにくい名である「すさのおじんじゃ」と言う、荒川区内で最も広い地域の鎮守で、松尾芭蕉の詠んだ「行春や鳥啼魚の目は泪」の句碑が建てられている。
千住は「奥の細道」の出発の地である。境内には一般の方々の俳句も飾られている。円通寺まで行く間に旧千住製絨所跡地がある、明治時代の殖産振興で建てられた日本初の官営毛織物工場で煉瓦塀の一部だけが残っており、面影は全くない。
近くには初代所長である「井上省三」銅像がり、日本羊毛の発祥の地となっている。
この跡地は戦後、大和毛織株式会社に払い下げられが後に閉鎖され、大映株式会社による東京球場が誕生、大毎オリオンズの野球場を作ったが映画の不況で区立のスポーツセンターに変遷している。一部は、今も南千住野球場として残っている。
ぐるっと回ってやっと「円通寺」へ、上野戦争後、戦死した障義隊を祀った事で有名で隊士の墓が多くある、住職が障義隊を祀った縁で、上野寛永寺の黒門が移設された。黒門には弾痕が多くあり、当時の戦争の激しさを伝えています。また、天野八郎や榎本武陽ら旧幕臣の墓碑がある。
○昼食~浄閑寺~永久寺~金太郎飴本店~背面地蔵尊
昼食は、南千住のジョイフル三ノ輪商店街へ、こういう商店街があるのは、東京下町である、いろんなのが揃う、スーパーマーケットの方が便利であるが、こういう物があっても良い各店舗いろんな工夫されていて良い、画一的でないところがおもしろい。その中にある、蕎麦やの「砂場」へ。
ここの「砂場」は、マスコミにも度々取り上げられる江戸時代から続く有名なお店である、文化財指定を受けているようで、普通の蕎麦やより古めかしい、有名人が訪れるらしく写真やら書物が店内にあった。店構え・店内など昔からの蕎麦やのイメージ。参加者11人が酒飲み派と食事派にテーブルが分かれて食事、帰り際トイレに行った者がレトロさにビックリしたようである。味の方は、私は田舎の蕎麦が好きなため評価はできない。食後は、三ノ輪駅付近の浄閑寺へ、安政2年の大地震で犠牲となった、吉原の遊女達の遺体がが投げ込まれたと事から別名「投込寺」と言われている。
境内には、「新吉原総霊塔」が建てられ、塔には、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と刻まれていた、遊女の哀れさを感じざるをえない。このような悲しい遊女達に思いを馳せた永井荷風が度々訪れたため詩碑がある。浄閑寺から近い所に目黄不動(永久寺)がある、江戸五色不動(目白・目赤・目黒・目青・目黄の各不動*3)の一つである目黄不動が安置されている。
最後の見学場所が「背面地蔵」、暑い中の歩きはだらけてしまう、そのためか?通りすぎて「金太郎飴本店」まで行ってしまう。
本店という事でお店の見学、買うでもないのゾロゾロ中に、お店のおばさんが試食品をみんなに配るばかりか、暑さに倒れないようにと塩飴まで頂いてしまった、大サービスである。お店の方に「背面地蔵」の場所を聞く。わかりにくい場所にあった、当時は奥州街道の傍に道路仏として西向きに立てられたが、後年、道筋が寺の東側に改まり、地蔵尊の向きを直したところ、不思議なことに一夜にして元の向きになったと言い伝えがある。
ここで解散となったが、コンパクトで良いコースであった。
*3 将軍徳川家光が大僧正・天海の健言により江戸府内から5カ所の不動尊を選び、天下太平を祈願した事に由来したと言われている。目の色ではなく五方角(東西南北中央)を色で示したと言われる。