さいたま市岩槻区 元岩槻市
岩槻城址、たまたま仕事で通った、時間があるので少し立ち寄った
岩槻城城門
池の方へ、本丸は池の端にあったようだ・・
城の築城は諸説あるが・・
古河城にいた古河公方・足利成氏に対抗するため、1457年(長禄元年)、扇谷上杉持朝とその家臣太田道真・太田道灌父子により、
江戸城・河越城とともに築かれたとされていた。
戦国時代は
扇谷上杉氏と山内上杉氏の対立から関東も戦乱期に突入する。、太田資頼が岩槻城を奪取し、以後、岩槻太田氏の居城となる。
伊豆、相模を手中に収めていた北条氏が武蔵に侵攻して岩槻城攻略に乗り出すと、1546年(天文15年)の河越夜戦で北条氏の武蔵支配が決定的になる中、
岩槻城はそれに抵抗する太田資正(三楽斎)の居城として機能した[2]。1564年(永禄7年)、資正の留守中に嫡子・太田氏資が北条氏康に内応し資正の追放を断行、
岩槻城は後北条氏方となった。
豊臣秀吉による小田原征伐の際には、氏房が小田原城に詰めたため、氏房付の宿老である伊達房実の指揮の下、2000の兵が岩槻城に籠城するが、
浅野長吉等に率る約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して数日後に降伏落城した。
江戸時代は
徳川家の譜代家臣の高力清長が2万石で岩槻城に入った。以後、青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・藤井松平氏・小笠原氏・永井氏ら譜代大名の居城となった。
江戸中期に徳川家重の側用人大岡忠光(大岡忠相の遠縁)が入り、藩主が固定。廃藩置県まで大岡氏の居城となった。
池は広い
蓮が咲いているがまだ見ごろではないようだ・・
結構な広さの城だったようだ・・
城の見取り図を見ていて、水攻めを思い立つ
元荒川の土手を切って沼に水を流し水攻めの兵糧攻めをするか・・とか
備中高松城を攻め立てた秀吉を思い浮かぶ、清水宗治無念!
戦国時代の関東のことはあまり知られていない。
小説にもあまりない、司馬遼太郎の箱根の坂の伊瀬新九郎こと北条早雲ぐらいか・・
自分も正直なところあまりわかってない。
あまりにも戦国時代が織田、武田、上杉、朝倉 浅井 毛利にクローズアップされて関東が影が薄い・・