神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

右岸の用水2

2017-07-19 06:44:46 | 善福寺川6

 山下の堰で右岸に分岐していた、堀之内村字広町の田圃を灌漑する用水の続きです。水路跡は済美小学校のキャンパスで途切れますが、その南西角にある正門前で復活します。もっとも、「昭和38年空中写真」には、済美小学校のキャンパスの西縁に沿う水路が写っており、その痕跡はキャンパス内に現存しているかもしれません。なお、同校は昭和28年(1953年)に、田圃を宅地造成して開校しましたが、それ以前の一時期、清明が池と呼ばれる池だったところです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和38年国土地理院撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 済美小学校の西縁に向かいます。右写真は左岸方向のショットで、内側を流れる用水との間に連絡水路がありました。

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    2. 熊野橋付近で分岐していた用水跡の道路です。こちらは済美小学校の東縁に沿っていました。

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    3. 南西角にある正門前です。復活した車止め付きの水路跡はすぐに右カーブで南に向きを転じています。

 <清明が池>  大宮中学校、済美小学校、対岸の済美教育センターなどがある一角は、明治40年(1907年)に開校した全寮制の小中一貫校、日本済美学校の敷地でした。その中央にあたる現済美小学校のある区画は、元々水田だったところにボート池が作られ、清明が池と名づけられました。山下の堰で分岐した右岸流は、この池の西岸を迂回して流れ、また、池に流れ込むものや東岸に沿って流れるものもありました。上掲地図と同一場所、同一縮尺の→ 「昭和4年測図」の中央に描かれているものですが、前々回UPの→ 「昭和22年空中写真」の下端を見ると池はなく、戦後の食糧確保の要請からでしょう、埋め立てられ水田に戻されたようです。