「新編武蔵風土記稿」は堀之内村の堰三ヶ所のうち、村の南を流れ和田村に達するもの以外の二ヶ所について、「又一ヶ所は中道にあり、又一ヶ所は小名本村にあり、この二流は村内にて本流に落合」と書いています。これは→ 「堀之内村絵図」で、二ヶ所で分岐したのち合流、村内で本流に戻っている左岸流の様子と一致しており、本村橋から環七通りまでの左岸には、「絵図」と同様の流路の痕跡が現在でも残されています。ただ、最初の分岐からしばらくは、済美教育センターの敷地にあって失われていますが、昭和62年(1987年)の発掘で、古墳時代後期の住居跡や江戸時代後期のゴミ捨て場などとともに、灌漑用水路の存在も確認されています。
- ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)
- ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年修正) / 中野」 上掲地図と同一場所、同一縮尺です。
- 1. 本村橋手前で左カーブに差し掛かります。左岸への最初の分岐があったのはこのあたりと思われます。
- 2. 本村橋から左岸方向です。熊野神社前への道が右カーブするあたりを、左岸流は横切っていました。
- 3. 右カーブの先でもう一つの左岸流と合流していましたが、次回に続きます。
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