神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

堀之内の支流4

2017-07-12 07:23:58 | 善福寺川5

 台上の妙法寺から「つ」の字の谷筋に戻ります。すぐに車止めの付いた水路単独の狭い路地となり、最後の左カーブで「つ」の字の底を抜け、ほぼ直線で西に向い荒玉水道道路を越えます。→ 「堀之内村絵図」で、妙法寺前から西に向かう通りがありますが、現行の地図でも健在で、これからしばらくはこの通りの南側を並行することになります。なお、村絵図で妙法寺西隣りに「字清水」とありますが、これは別の水路にかかわる谷頭で、今回のはその左下にある「字谷戸」にかかわるものです。

 

Horino4

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0330b0330a

    1. 水路単独と思われる狭い路地になり、右写真の左カーブで「つ」の字の底を抜けます。

0330d0330c

    2. 荒玉水道道路を越えます。右写真は左手(右岸)からのショットです。

0330e

    3. すぐに上掲右写真の左手に写る通りを越えます。ここも車止めでガードされています。

0330g0330f

    4. 車止めが連続し、いかにも水路跡の様相ですが、これから先も同じような路地が続きます。

 <荒玉水道道路>  関東大震災後の急激な都市化に対応するため、東京市に隣接する豊多摩郡、北豊島郡の13町村が連合し、荒玉水道町村組合を結成、砧で取水した多摩川の水を野方、大谷口の給水場を経由して配水しました。途中杉並区梅里(妙法寺脇)までの9.4kmは、幅員5mの専用道路に直径1.1mの水道管を敷設、これが荒玉水道道路と呼ばれる直線道路です。当初は車両の通行は禁止されていましたが、昭和37年(1962年)以降、4トンを越えないなど、一定の制限付で認められています。給水の一部開始は昭和3年(1928年)、同6年に一応の完成をみ、翌昭和7年、大東京市の成立に伴い、東京市の水道施設となりました。

 


妙法寺

2017-07-11 06:54:17 | 善福寺川5

 江戸庶民から「厄除おそっさま」と親しまれた堀之内妙法寺ですが、元は真言宗の尼寺でした。元和年間(1615~23年)に日蓮宗に改宗、目黒碑文谷にある法華寺の末寺となって、日円山妙法寺を名乗ります。元禄年間(1688~1703年)、禁制の不受不施派の中心であった法華寺は、谷中観応寺とともに天台宗に改宗となり、同寺にあった日蓮上人の坐像が妙法寺に遷りました。当地が江戸庶民の一大信仰、行楽スポットとなったのはそのあとのことです。

 

Myoshozue1

    ・ 「江戸名所図会 / 堀の内妙法寺」  「当寺に安置の日蓮大士の感応ハ常に唐捐ならず。故に風雨寒暑をいとはず都鄙の貴賎日毎にここに詣して、百度参等片時絶ることなし。・・・・」

0329

    ・ 山門(仁王門)  天明7年(1787年)に建立され都の重要文化財に指定されています。山門は「絵図」に描かれている楼門と同一ですが、山門内の金剛力士像は、明治元年(1868年)に日枝神社から遷されたものです。 

0329b

    ・ 祖師堂  文化8年(1811年)建立の都重要文化財です。「新編武蔵風土記稿」のデータでは「十一間に十八間瓦葺、向拝五間に三間銅瓦葺」となっており、平成10年に大改修が行われました。 

0329c

    ・ 鉄門  明治11年(1878年)に建てられた和洋折衷様式の建造物として、国の重要文化財に指定されています。工部省の制作で、当時同省顧問だったコンドル博士の設計ともいわれています。

堀之内の支流3

2017-07-10 06:13:09 | 善福寺川5

 武蔵野橋で本流に合流する水路をさかのぼる三回目です。→ 「堀之内村絵図」で字山谷、中井と三谷を分ける通りを越えたところで、善福寺川本流の流域を離れます。 → 「段彩陰影図」に見られる「つ」の字の谷筋に入り、左カーブで向きを北から西へと変えます。なお、この通りは「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)には、「中通り 現在も使用している。江戸時代のはじめはここが堀之内村の中心だった」とあり、「新編武蔵風土記稿」に「中程にあり」とある小名中道も、この通りが由来と思われます。

 

Horino3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0328a

    1. 中通りを越えます。左折すると東京立正中・高前に出ることから、立正通りとも呼ばれます。

0328c0328b

    2. 狭い路地になり、右カーブ、次いで左カーブで「つ」の字の谷筋に入ります。

0328e0328d

    3. 右写真は右手(左岸)からのショットで、谷筋にあるのが分かります。

0328f

    4. 「つ」の字の底にあたる所です。この前後急な右カーブが連続します。

0328h0328g


堀之内の支流2

2017-07-08 06:38:11 | 善福寺川5

 武蔵野橋の左岸で合流する支流を追っての二回目です。左岸流の合流地点を過ぎたところで、左手からもう一本、水路跡とおぼしき路地の合流があります。100mに満たないものですが、このあたりの水田の北縁に沿っており、あるいは田用水の名残かもしれません。ただ、水路と明記した地図類は未見なので、いつもの青点線は書き込んでいません。

 

Horino2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0327a

    1. 左岸流の合流地点の先です。右カーブで孤を描きながら北に向かいます。

0327c0327b

    2. 左手から水路跡らしい路地が合流しています。

0327e0327d

    3. 荒玉水道道路を越え、狭くなりながらもなお続きます。

0327f

    4. 突き当たって終了です。その先は和田堀公園の北縁にあたり、最も外側にあった左岸流の延長上にありますが。

0327h0327g

    5. 再び北上します。通りを越えた先には狭い路地が見えています。

堀之内の支流

2017-07-07 07:21:49 | 善福寺川5

 左岸流とともに本流に合流する水路をさかのぼります。合流地点の武蔵野橋付近は堀之内村に属し、谷中と呼ばれていました。「杉並近世絵図」中の→ 「堀之内村絵図」に字谷中とあり、明治22年(1889年)以降は和田堀内村大字堀之内の小字として採用されています。同絵図に今回の水路は描かれていませんが、流域の字名が下流から谷中、三谷、谷戸となっていて、 → 「段彩陰影図」で左岸に「つ」の字を描く谷筋にかかわるものと思われます。(三谷の地名由来に関する一般論としては、三つの家が元だとか山野と書いて入会地を現わすとか、谷とはかかわらない説もあり得ます。)

 

Horino1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

Horinos22

    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

0326a0326b

    1. 武蔵野橋からさかのぼります。車止めが付いていますが、対岸は済美公園になっていて、車両の乗り入れはできません。

0326c

    2. 左カーブです。右手に向かう道も元は農道で、この次の区画まで水田でした。

0326d0326e

    3. 左手に車止め付きの路地が見えます。前回の左岸流跡です。

0326f0326g

    4. 左岸流との合流地点を離れ、北に向かいます。左手にワンブロック離れて谷中公園があります。 

和田、堀之内村境3

2017-07-06 06:23:16 | 善福寺川5

 現二枚橋の付近から左岸に分岐する用水を追います。一つ外側の左岸流と合流、荒玉水道道路を越え、武蔵野橋で本流に戻りますが、和田、堀之内の村境と重なるのはこの水路で、明治22年(1889年)に成立した和田堀内村に引継がれ、昭和7年(1932年)発足の杉並区の場合も、大宮町と堀之内1丁目の境となっていました。おそらく、左岸に広がる田圃の帰属が意味を持っていたのでしょうが、その田圃が失われた現行の住居表示では、大宮1丁目と堀ノ内3丁目を分けるのは、二枚橋と済美橋間の善福寺川本流となっています。

 

Sakai2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0325b0325a

    1. 外側の左岸流と合流、共に東に向かいます。

0325c

    2. 左手は和田堀公園、右手は善福寺川ですが、目下改修工事のためフェンスで囲まれています。

0325e0325d

    3. 荒玉水道道路を越えます。右手奥には済美橋、その背景の茂みは済美山です。

0325f

    4. このあたりで村境は左岸流を離れ、本流に向かっていました。

0325h0325g

    5. ここで左手からの水路と合流、右折して武蔵野橋に向かっていましたが、次回は武蔵野橋からさかのぼります。

和田、堀之内村境2

2017-07-05 07:21:10 | 善福寺川5

 昨日UPの→ 「和田村絵図2」に描かれているように、和田村の西半分(字松ノ木)と堀之内村の境は、一部左岸の用水と重なっていました。この事情は、明治に入り和田堀内村が成立した以降も、大字和田と大字堀之内の境として引き継がれます。ただ、現在確認できる左岸流は「村絵図」のように一本ではなく、三本が絡み合っていますが、それが境を形成していたことには変わりありません。

 

Sakai1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

Sakais22

    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

0324a0324b

    1. 村境まで追った左岸流と本流の間にある水路跡です。分岐したのはさらに上流ですが、道路と重なるのはここからです。

0324c

    2. 左手に和田堀公園を見ながら東に進みます。

0324d0324e

    3. 右折してすぐ、右手からのもう一本の用水と合流します。

0324f0324g

    4. その三本目の用水の分岐点で、工事中のため左写真は数年前のものです。 

和田、堀之内村境

2017-07-04 07:18:36 | 善福寺川5

 和田村は間に入り込んだ堀之内村によって二分され、これまで扱ってきた二つの小名、大宮と松ノ木は村の西半分を構成していました。そして、その西半分と堀之内村との境が善福寺川とクロスするのは、現在二枚橋が架かっている付近です。といっても、単純にクロスしていたわけではありません。済美橋に至る左岸の流域は和田村に属し、これは明治22年(1889年)成立の和田堀内村(のち和田堀町)や、昭和7年(1932年)に発足した杉並区にも引き継がれました。ただ、現行の住居表示では単純化され、左岸は二枚橋で、右岸は済美橋で各々二分されています。

 

Wadaezu2

    ・ 「和田村絵図2」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された数葉の「和田村絵図」のうち、堀之内村との境が分かるものの該当個所をイラスト化、田用水と村境を強調しました。(書き込みは元図のものではありません。) 

1001a

    ・ 善福寺川  → 二枚橋下流からのショットで、正面に架かるのが済美橋、右手の茂みが済美山自然林です。二枚橋はけやきの大木を二つに割り、並べて橋としたことが由来だとか。(「杉並の通称地名」 平成4年 杉並区教育委員会)  

1001b

    ・  済美橋  昭和3年(1928年)に完成した荒玉水道道路に架かる橋なので、創架もそのころのことと思われます。もっとも、当時の水道道路は車馬の通行は出来ませんでした。(済美橋下のかわせみの→ 写真はこちら。) 

 <済美山>  済美山は江戸時代、堀之内村小名小屋ノ台に属していました。「小屋ノ台 西の方和田村の境にあり、伝へ云文治五年七月十九日鎌倉右大将家陣立ありし時、先陣畠山次郎重忠此所に宿陣せりと、ゆへに此の唱ありと云、昔は和田村に属し、今当村に入る」(「新編武蔵風土記稿」) 「杉並風土記(下)」(平成元年 森泰樹)によると、現在和田堀公園の一角にあって、バードサンクチュアリとなっている済美山自然林は、かっては堀之内妙法寺の持ち山で、なら、くぬぎの雑木林から薪炭を採っていたのだそうです。和田村から堀之内村に編入されるについては、こうした事情が関係しているのかもしれません。 

 


右岸の用水3

2017-07-03 06:57:41 | 善福寺川5

 前回の最初の→ 写真の二流に分かれていたところに戻り、段丘をえぐるように孤を描いていたほうを追います。ただ、前半の南に向かう部分に重なる道路はなく、左カーブで孤を描いているところから始めます。なお、この区画については「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区郷土博物館)にも記述があり、「大松橋の南台地(済美山)の池は、湧水から出来ていた。北向きの崖下は、冷たい水が豊富にあったので、水芭蕉が咲いていたと伝えられる。この池は、後に釣り堀になったそうである。土地の人の話によると、ここは近くにあった嵯峨侯爵邸(現郷土博物館)の池であったとの事である」と書かれています。釣り堀は「空中写真」の左端に写っていて、西隣の道路との間に今回の水路がありました。

 

Ugan3

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

Ugans22

    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

0322a0322b

    1. 左カーブで孤を描く段丘際の道路から始めます。

0322c0322d

    2. 左カーブの先で道路の幅が急に狭くなり、車止めが見えています。

0322e0322f

    3. 明かに水路跡だと分かる区間で、車止めの先で右折、次いで左折します。

0322g

    4. 前回の水路と合流します。右折して本流に戻っていましたが、最後の区画は雑木林になっていてたどれません。 

右岸の用水2

2017-07-01 06:54:39 | 善福寺川5

 宮木橋横で分岐した水路跡の道路を追って、大松橋の南まで来ました。ここで足跡状の台地の最初の先端、いわば親指部分を回り込みます。その先は二流に分かれ、えぐれた段丘に沿って弧を描くものと、ショートカットするものがありましたが、どちらもその後半部分が車止め付きの路地となって残っています。ただ、最後の本流に戻るところは、本流自体の付替えや和田堀公園の整備もあって、よくわからなくなっています。

 

Ugan2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0321b0321a

    1. 左折して、まづショートカットのほうを追います。二本の間に釣堀がありましたが、次回詳細します。

0321d0321c

0321e

    3. テニスコートの先の左手に、車止め付きの路地が顔をのぞかせています。

0321g0321f

    4. 路地はコートの南側に沿って、蛇行しながら7、80m続きます。

0321h

    5. 和田堀公園内の済美山自然林にぶつかって終了です。本来は直進して本流に戻っていました。