神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

左岸の用水

2017-07-29 07:19:53 | 善福寺川6

 「新編武蔵風土記稿」は堀之内村の堰三ヶ所のうち、村の南を流れ和田村に達するもの以外の二ヶ所について、「又一ヶ所は中道にあり、又一ヶ所は小名本村にあり、この二流は村内にて本流に落合」と書いています。これは→ 「堀之内村絵図」で、二ヶ所で分岐したのち合流、村内で本流に戻っている左岸流の様子と一致しており、本村橋から環七通りまでの左岸には、「絵図」と同様の流路の痕跡が現在でも残されています。ただ、最初の分岐からしばらくは、済美教育センターの敷地にあって失われていますが、昭和62年(1987年)の発掘で、古墳時代後期の住居跡や江戸時代後期のゴミ捨て場などとともに、灌漑用水路の存在も確認されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年修正) / 中野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 本村橋手前で左カーブに差し掛かります。左岸への最初の分岐があったのはこのあたりと思われます。

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    2. 本村橋から左岸方向です。熊野神社前への道が右カーブするあたりを、左岸流は横切っていました。 

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    3. 右カーブの先でもう一つの左岸流と合流していましたが、次回に続きます。 

 <渋谷の水車>  昨日引用した「嘉陵紀行」の中に、「水車聞ゆる所を、右に見て田間を行」の一文がありました。やはり昨日UPした→ 「迅速測図」には、熊野神社前から本村橋に差し掛かる右手に水車を確認できます。これは、その後の地形図でも、「大正10年第二回修正」まで見ることができ、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、渋谷家所有の水車があったため、昭和10年ころまで「水車」と通称されていたようです。同書には「今井さん堰」の項もあり、「済美学校創設者今井恒郎の所有地内にあって水車の水を引くためであった」と書いています。