神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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和田、堀之内村境

2017-07-04 07:18:36 | 善福寺川5

 和田村は間に入り込んだ堀之内村によって二分され、これまで扱ってきた二つの小名、大宮と松ノ木は村の西半分を構成していました。そして、その西半分と堀之内村との境が善福寺川とクロスするのは、現在二枚橋が架かっている付近です。といっても、単純にクロスしていたわけではありません。済美橋に至る左岸の流域は和田村に属し、これは明治22年(1889年)成立の和田堀内村(のち和田堀町)や、昭和7年(1932年)に発足した杉並区にも引き継がれました。ただ、現行の住居表示では単純化され、左岸は二枚橋で、右岸は済美橋で各々二分されています。

 

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    ・ 「和田村絵図2」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された数葉の「和田村絵図」のうち、堀之内村との境が分かるものの該当個所をイラスト化、田用水と村境を強調しました。(書き込みは元図のものではありません。) 

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    ・ 善福寺川  → 二枚橋下流からのショットで、正面に架かるのが済美橋、右手の茂みが済美山自然林です。二枚橋はけやきの大木を二つに割り、並べて橋としたことが由来だとか。(「杉並の通称地名」 平成4年 杉並区教育委員会)  

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    ・  済美橋  昭和3年(1928年)に完成した荒玉水道道路に架かる橋なので、創架もそのころのことと思われます。もっとも、当時の水道道路は車馬の通行は出来ませんでした。(済美橋下のかわせみの→ 写真はこちら。) 

 <済美山>  済美山は江戸時代、堀之内村小名小屋ノ台に属していました。「小屋ノ台 西の方和田村の境にあり、伝へ云文治五年七月十九日鎌倉右大将家陣立ありし時、先陣畠山次郎重忠此所に宿陣せりと、ゆへに此の唱ありと云、昔は和田村に属し、今当村に入る」(「新編武蔵風土記稿」) 「杉並風土記(下)」(平成元年 森泰樹)によると、現在和田堀公園の一角にあって、バードサンクチュアリとなっている済美山自然林は、かっては堀之内妙法寺の持ち山で、なら、くぬぎの雑木林から薪炭を採っていたのだそうです。和田村から堀之内村に編入されるについては、こうした事情が関係しているのかもしれません。