神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

忍川橋

2017-03-01 06:23:13 | 善福寺川2

 「板橋 下荻窪村ニアリ長二間幅一間」「東京府志料」に収録された下荻窪村の唯一の橋で、→ 「東京近傍図」にも下荻窪村内で唯一描かれている、現環八通りやや下流に架かるものと思われます。「豊多摩郡誌」(大正5年)では「忍川橋 下荻窪字忍ヶ谷戸にあり高井戸道善福寺池流に架す」とあり、高井戸道に関しては「青梅街道大字荻窪地内荻窪停留場の東方より起り、忍川橋を渡り、南進して高井戸村に入り、甲州街道に合す、延長壹里餘」としています。なお、「おぎくぼ いまむかし」(昭和53年 桃井第二小・桃友会広報部)には、「車馬の通れる橋は二つだけで、今の忍川橋(昔は梶橋といった)と中央線ガード下の橋(橋場といった)が板張りであって」との記述がみられます。

 

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    ・ 善福寺川  荻窪橋から下流方向で、左手が桃井第二小学校、正面が忍川上橋です。南口仲通りという商店街にある橋ですが、区画整理以前にはその位置に忍川橋が架かっていました。 

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    ・ 忍川橋  現在の忍川橋は荻窪駅の東から環八通りに直線で向かう、区画整理事業によって整備されたバス通りに架かっています。なお、架橋当初は川南橋と呼ばれました。 

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    ・ 善福寺川  忍川橋から下流方向のショットで、奥に架かるのが忍川下橋です。善福寺川に架かる橋のなかで、このように上下を従えているのは忍川橋だけです。

 <忍ヶ谷戸>  「新編武蔵風土記」の収録する下荻窪村の小名は二つで、本村と「南の方にあり」と書かれた忍ヶ谷戸(しのびがやと)でした。「杉並風土記(上巻)」(昭和52年 森泰樹)によると、伊賀者の棟梁、服部半蔵の領地で、善福寺川の谷あいにあったので、当初は忍び者の谷戸、それが忍ヶ谷戸(しのびがいど)となり、大正時代から現行の様に呼ばれるようになったそうです。その忍ヶ谷戸にある橋なので、元々は「しのびかわばし」と呼ばれていましたが、区画整理時に移り住んだ新住民が、「おしかわばし」と読むようになって定着したと、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)は書いています。