田中水車の田中は所有者名で、また所在地の字から観音山水車とも呼ばれました。明治末に設立され、昭和15年(1940年)頃にはモーターを併用、その頃訪れた武蔵高校生徒たちは、「水車で製粉を行つている相当規模の工場」と表現しています。同水車は練馬区内では最も遅く、昭和44年(1969年)まで操業していました。最盛期には43本の杵を有しフル稼働すると、一日1.2トンの製粉能力があったそうです。
- ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」 筋違橋の下流から分岐する取水路が見えます。練馬区教育委員会「練馬の水系」(昭和51年 1976年)によると、取水口と排水口の間は200m、排水路は一部トンネルを使用したようです。
平地に設置された水車の場合、どうしても長い水路を必要とします。取水口と排水口の落差が水車の出力を決めるので、傾斜が緩やかなであればあるだけ、長い水路を必要とするわけです。後でも触れる「千川上水路図」の描き方を見ると、八ヶ所ある水車のうち上流に設置された水車ほどそうなっていて、最上流の平井水車は400mの水路を持っていました。なお、平井水車は元治元年(1864年)の→ 「取調絵図」にも、唯一長い回し堀と共に描かれ、「名主伊左衛門 水車一ヶ所」と書き込まれています。
- ・ 上石千川児童公園 この付近から水車用水を取水していました。中央の砂場に設けられた鉄製の遊具は、水車をイメージしているのでしょう。
<千川上水の水車> 千川上水に設置された水車が文献上最初に登場するのは、「上水記」(寛政3年 1791年)の記述で、上井草村の伊左衛門が「当村田用水落口」に設置した水車をめぐり、トラブルになった旨書かれています。この事例にとどまらず、水車設置をめぐるトラブルは多かったようで、文化6年(1809年)、新たな水車設置を禁じる取り決めが、用水組合で結ばれています。結果、江戸時代の水車設置はそれほど多くなかったようで、上記「取調絵図」では保谷新田の平井水車と滝野川村の小屋の描かれたところ、二ヶ所のみとなっています。それが明治に入り、需要が増したのと規制が緩和されたためでしょう、明治10年代後半と目される「千川上水路図」には、最上流の平井水車、同じく平井家所有で上保谷村坂上にあり、→ 「東京近傍図」の左端に描かれているものなど、合計八ヶ所が描かれ、その後も上記の田中水車などさらに増加しました。
- ・ 「千川上水の水車」 上石千川児童公園の一角の解説プレートには、田中水車の写真や「最盛期には、この流域だけで10基以上の水車があったといわれていますが・・・・」の文言が見えます。
「この流域」の範囲は不明ですが、練馬区内で確認されているのは、田中水車を含め4基だそうです。それが、大正から昭和にかけて下降線となり、昭和15年(1940年)、武蔵高等学校の生徒による調査記録では、千川上水を利用した水車は、昭和の初めに6基、調査時には田中水車、坂上の平井水車、そして数回後に訪れる八成橋たもとの斎藤水車と、3基のみになっています。