立野交差点の先120mほどのところに、筋違(すじかい)橋がありました。「土橋 上石神井村ニアリ筋違橋長二間幅一間二尺」(「東京府志料」) 伊勢橋のところで触れた千川家の管理する七橋の一つでもあり、おそらく上水開設の当初から架かっていたのでしょう。「東京近傍図」でもわかるように、千川上水がクランクで通りの北沿いに移動しており、筋違の名前の由来は一目瞭然です。なお、武蔵高校の「千川上水」に、昭和7年(1932年)に架け替えられた筋違橋の写真が掲載されています。
- ・ 「東京近傍図 / 田無町」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は練馬区と杉並区の区境ですが、江戸時代は上下石神井村と上井草村の境でした。
- ・ 筋違橋跡 ここまで右側にあった幅広の歩道が左側にシフトしています。それに応じて中央分離帯も左側にズレ、「筋違」しているのが分かります。
- ・ 筋違橋跡 左手の幅広歩道の先に茂みが見えますが、区立の上石千川児童遊園のもので、その付近にあった田中水車は次回のテーマです。
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