「下井草村は、郡の北寄りにあり、当所も今川丹後守が知行所なり、村のさま及び地形土地等は、前の村に同じければこゝに略す、民家百七軒、東西十五町余、南北十三町、東は上下鷺ノ宮村に接し、西は上ノ村にて、南は上荻窪天沼の二村となり、北は豊島郡田中谷原及び下石神井等の村々に犬牙す、青梅村への街道村の西南の方に少しかゝれり、上井草村より入天沼村に達す、又東北の界に所沢への道あり、豊島郡下石神井村より当郡中野村へ達す、村にかゝること十五町許」(「新編武蔵風土記稿」) 前回触れた通り、元は上下合せて一村で、上井草村の別名、遅野井村に対し、単に井草村とも呼ばれました。なお、本来の上下井草村の境はその西側にありましたが、現行の住居表示では環八通りを基準にしています。
- ・ 「東京近傍図 / 田無町」(参謀本部測量局 明治13年測量)と「同 / 板橋駅」(明治14年測量)を合成し、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。
- ・ 妙正寺池 「妙正寺より二町許北の方にあり、広さ二段許、中に三間四方許の島あり、弁天の祠九尺四方なるを立つ南向」(「新編武蔵風土記稿」) 中之島に祀られていた弁財天は、今は→ 妙正寺にあります。
<宝珠山観泉寺> 上下井草村の領主今川家の菩提寺で、上下の境近くの上井草側に位置しています。今川家は駿河の領主今川義元の末裔で、朝廷、寺社関係の儀礼を司る高家の役職にあり、一千石の旗本でした。(忠臣蔵の敵役、吉良家で有名な)高家は、禄高は旗本、格式は大名以上の扱いとされ、足利将軍家と縁続きで、家康幼少時代の主筋とも言える血統あってのことでしょう。その高家今川家がこの地を知行したのは正保2年(1645年)、中野の成願寺の末寺だった観音寺を改名、菩提寺としましたが、「新編武蔵風土記稿」では「観音寺」のままになっています。年貢の取立てや裁判など、知行地支配の役所も兼ねていたようです。
- ・ 観泉寺 本堂は宝暦13年(1763年)焼失し、翌明和元年に再建されたものです。春の枝垂桜や牡丹、秋の紅葉と、四季折々の見どころのある境内で、本堂前の牡丹の写真は、→ こちらです。