青梅街道手前の竹下新田は、七ヶ村分水(明治に入り中村が抜け六ヶ村分水)の分水口のあるところで、ここからしばらくは、この千川用水最大の分水がテーマです。「寛政六年 千川養水路之件書類」にある→ 分水リストのうち、七ヶ村分水の支分水はまず、第一グループの「谷頭口 5×6.5」「沓掛田養水口 5×6」「清水田養水口 4×4.5」(数字は樋口の縦×横、単位は寸)です。これらは上下井草、上鷺宮、中村の四村にかかわる分水で、いずれも妙正寺川に落ちていました。なお、四村の上に「私領」とありますが、駿河の領主今川義元の末裔で、朝廷、寺社関係の儀礼を司る、高家今川家の領地だったところです。次いで第三グループの「下荻久保村八寸廻り竹筒」「天沼村阿佐ヶ谷村堀割流落し」、この三村は山王社(現日枝神社)の領地です。下荻窪村の分水は善福寺川に落ち、天沼、阿佐ヶ谷二村のは、「堀割流落し」とあるようにそのまま桃園川に連続、その最大の水源となっていました。
- ・ 「嘉永二年 水車設置にかかわる絵図」 「武蔵野市史 続資料編八井口家文書五」に掲載された絵図を元に、その一部をイラスト化したものです。
嘉永2年(1849年)に関前新田の名主井口家が、「下井草村字銀杏稲荷新設水車」を引取る事情を記した書類に添付されていたもので、水車にかかわる「千川堀孫分水上井草村新町口・下井草村柄杓屋口」および「下井草村妙正寺池」が、特に詳しく描かれています。なお、この絵図では清水口の位置が現在知られているものより西にあり、ほぼ向き合っていた下荻窪村用水口との位置関係がズレています。水車にかかわらない部分のためのザックリした書き方なのか、実際に場所の移転があったのかはよく分からないところです。
ついで、「星野家文書-千川用水関係資料-」中、明治10年(1877年)の「千川用水組合樋口伏替願」の記載する、各支分水の名称、樋口の寸法、関係村名をリストアップします。中村が脱落し六ヶ村になっています。また、字四面道口が二つありますが、区別する際は下荻窪村のものを南四面道口、天沼、阿佐ヶ谷村のものを北四面道口とするのが一般です。
分水口名 | 縦×横(単位寸) | 関係村名 |
字新町口 | 6.746×6.747 | 上・下井草 |
字杓屋口 | 5.98×5.98 | 下井草・上鷺宮 |
字清水口 | 3.927×3.927 | 下井草・上鷺宮 |
字四面道口 | 1.56×1.554 | 下荻窪 |
字四面道口 | 5.138×5.138 | 天沼・阿佐ヶ谷 |
字杉並口 | 2.737×2.737 | 阿佐ヶ谷 |