神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

七ヶ村分水2

2015-04-08 06:46:25 | 千川用水2

 竹田新田で分水した七ヶ村(明治に入り六ヶ村)分水の二回目です。七ヶ村分水は青梅街道沿いに東に向かい、現天沼陸橋先までのおよ4.5kmの間に、少なくとも6か所の支分水口を有していました。この区間の青梅街道が南の善福寺川、北の妙正寺川、桃園川の分水界にあった関係で、街道近くにあったこれら河川の支谷筋に田用水を落とし、灌漑後の余水はそれぞれの川が引き受けていたわけです。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 七ヶ村分水」(1/36000)  各分水口の名称、位置は、嘉永2年(1849年)の井口家文書の付図、及び明治10年(1877年)の星野家文書の記載を元にしています。「☓」印は文献上の記載はないが、分水路と思われる痕跡があるものです。

 七ヶ村分水の田用水としての機能は、大正末から昭和の初めまで維持されますが、関東大震災後の急激な宅地化によって、昭和の初めには生活排水溝と化してしまいます。こうなった都市近郊の水路の運命はどこも似たようなもので、コンクリート蓋で覆われ下水道に転用され、最後には、拡張された道路の一部となって地上から消えるか、あるいはコンクリート蓋のまま名残をとどめるか、あと井草川や桃園川のような幹線水路は、遊歩道となって「〇〇緑道」といった名前をつけられたりもします。七ヶ村分水関係の水路の場合、コンクリート蓋のままだったり、遊歩道になっている場合が多く、分水口を特定することが容易なのはそのためです。

 

  

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    ・ 北四面道口  桃園川の最大の水源でもある七ヶ村村北四面道口は、今は遊歩道として整備されています。下に引用した「荻窪風土記」の「平野屋酒店」は、この分水口に隣接していました。

 最後に70年近くを荻窪で過ごした作家、井伏鱒二の「荻窪風土記」から、昭和の初め、生活排水溝へと変貌する七ヶ村分水の様子です。「私は我家がここに建つまで(昭和二年五月から十月まで)八丁通りの平野屋酒店の二階に下宿した。その頃、平野屋の前を流れていた千川用水は、幾ら贔屓目に見ても気持ちのいい流れとは言えなかった。店の前だけは頑丈な溝板で塞がれていたが、店の跡切れたところでは、草の茂る土手と汚れた溜り水が通行人に対して剥出しになっていた。大雨の降るときには流れていたかもしれないが、不断は果して流れていたかどうかわからない。・・・・その翌々年あたり、昭和四、五年頃になると、・・・・千川用水は残念ながら黒い泥の溜り場になっていた。」 この前後には「大震災前にはこの辺の用水で幾らでもウナギが捕れたという。そのクリークが今はコンクリートの道路で塞がれて、そこから川下はセメント板で覆われ・・・・青梅街道の八丁通りに沿うて暗渠で通じている。」 「今、八丁通りと平行に地下に潜っているクリークは、大震災前にはきれいな水が流れていた。」ともあり、田用水の面影を残す大震災前、生活排水溝化した昭和の初め、そして暗渠となった今(「荻窪風土記」は昭和57年刊行)の「千川用水」が活写されています。