美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

誰にも書けない文章

2010年02月05日 | 瓶詰の古本

   漱石にしろ朔太郎にしろ、自覚的に誰にも書けない文章を書こうとしていた。漱石以前に二葉亭四迷がおり、さらに遡れば吉田兼好がいるわけで、彼等を含め文章によって表白の地平を拓こうとした誰もが、意識として前人未到の文章を志したことは今さら言挙げするまでもない。
  この人達の苦闘は、孤軍奮闘であったかも知れないが、同時に、原野に道を切り拓く誇りと喜びそのものであったに違いない。日本の表白の地平を自らの手でもって拡げ得たことを確信したであろう文章を読んで、心躍らないわけがないではないか。文章によって未到の表白を拓こうとする、その気魄に心打たれないわけにはいかない。読む度に新しい息吹を与えてくれる、そのような文章があることに心打たれないわけにはいかない。

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結婚詐欺の根拠

2010年02月04日 | 瓶詰の古本
   色と金はあなどることができない。この世では決定的に。人は、それを満たすためなら何事でもしでかすと知れる。真空を忌むとは万物、万象に共通する理なのだろうか。いったん心に真空を見出してしまった人は、なにをもってそれを埋めようとするのか。刹那の喜びの絶え間ない受用こそが最高の埋め草と思うのも、経験的にはうなずけなくもない。
   ただ、喜びを得るためには邪悪な手段を取ることを覚悟しなければならないのに、その道を選ぶになんの躊躇もしなかったとしたら、一体、色と金の与えてくれる喜びこそが至上のものと考えるべきなのか、それとも心の真空というものが余程に深遠なものと言うべきなのか。
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魂の逆落とし

2010年02月03日 | 瓶詰の古本

「ヴァテック」(ベックフオード 矢野目源一訳 昭和七年)

 アラビアンナイトのエッセンスを更に濃厚に煮詰めて、一の小冊子の中にその旨味をぶち込もうとしたのか、いや、むしろ、流布本と怪魔幻妖を競おうと試みたのか、いずれにしろ文華の集合意識を懼れぬ企ては、幻想文学の世界に聳り立つ高塔として見事に後世に遺ったものと思われる。
 アラビアンナイトに触れた者で、その驚倒の面白さに魅せられない者はなかろうが、物語の雰囲気に包まれたとき、幻想世界には現世を捨てさせる力があるということ、理知の限界を超えた訳の分らない感応力が人間には生来植え込まれているということが立ち所に露見してしまい、挙句の果てに、ベックフォード自身の魂の内幕はここに展開されて新しい夜話を奔出したのかも知れない。
 この薄べったい掌大の文庫本を一旦繙くならば、頁を捲る妖風に導かれて、涯のない天空から底なしの地獄までの逆落としを心行くまで味わうことが出来る。

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人類学エピソード(西村眞次)

2010年02月02日 | 瓶詰の古本

     (一)人魚
   昔から我国には、人魚の肉を食ふと若返るといふ言伝へがあつた。私達のまだ幼かつた頃には、香具師がガラス箱へ人魚を入れたものを見世物にして人を集め、さて人が集ると、真黒焦げのいかさまな塊を、さも人魚の肉でヾもあるやうに見せかけ、これを一片食べれば若返る、顔の皺はなくなり肩のこりはとれ、白髪も黒くなるといひ触らして売るのがあつた。
   私は子供心に珍しく思つて硝子板に孔があくほど中を見入つて、此世に人魚などあらう筈がないが、それならば此人魚に人面と魚身との接ぎ目がなければならぬと、一生懸命に接ぎ目を探したものだ。けれど人魚の境が不明で、私はやつぱりこんな不思議なものがあるのか知らと、ぼんやり彳んで、しばらくそれに見入つたことがあつた。それ以来、私は人魚の絵が好きになり、書名は忘れたが、絵草紙などでそれの描かれてゐるものを見つけて娯んでゐた。
   大きくなつてからも、人魚の来歴を探つて見ようといふ心持が続いた。泰西の『リツル・マーメイド』といふ名画の三色版を初めて見た時などは、東西思想の一致してゐることに驚かされた。つい此間、ロージャー・フライの『支那美術中の動物』を繰つてゐる中、漢代の赤色陶器に人面魚身のものがあるのを発見して、人魚の観念の古くから存在してゐることを知つた。
   人魚といへば、アッシリヤの魚神ダガンなども其中に入るべきものであらう。ジャストロウの研究に従ふと、ダガンは北部から南部に輸入せられたもので、紀元前二、三〇〇年頃のイシンの王にイシン・ダガンといふ名があるから、此神がバビロニヤで尊敬せられてゐた事が分るが、紀元前十九世紀のアッシリヤ王にもダガンの名を負うてゐるものがあるから、それらの日にもダガン信仰の続いてゐたことは知られる。ダガンのテラ・コッタは人面人体の背面から頭上にかけて、大きい長い魚がおほひかぶさつてゐるもので、人魚とは少し趣を異にしてゐるが、同じ起源のものであらう。
   エウフラト河下流に伝はつてゐる神話によると、オアンネスといふ人間の理性を有つた怪物は、エリトレア海から生れ、全身は魚であるが、別に人間の頭と足とが、其頭と尾とから生えて居り、声は人のものとよく似てゐる。彼れはどんな食物も取らずに日を送るが、夜になると海に帰つて終夜浪の下にゐるといふ。
   人魚はつまり、魚形から人態に進化する過渡期の神形で、いはヾ半魚半人の段階にあるものである。多分、魚類を常食とする或人種の間で発生した信仰であらう。

(「随筆多角鏡」 西村眞次)

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