美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

誰もが『憂い顔の騎士』になれるわけではない(セルバンテス)

2019年06月24日 | 瓶詰の古本

 サンチョーは、主人の口の中をのぞいてみて、
「前歯は一本もござりませんわい。奥歯は、下には二本と半分残つておりますが、上は一本もなく、まるでつるつるでございます。」
と、いいました。
「それは大へんじや。今の魔法つかいに、歯という歯を、みな、盗られてしまつたか。」
 ドン・キホーテがひどく沈んだ様子をしたので、サンチョーは、鞍袋の中から、何かとりだして食べさせでもしようと、馬の尻をさぐりましたが、その袋は、けさ、宿屋の亭主におさえられているので、影も形もありませんでした。
「なに、あの鞍袋が紛失したのか?それでは、もう食べ物が何一つなくなつたわけだな。」
「はい。そういうことになりますな。」
「わしは、何という不運な騎士だろうな。」
 ドン・キホーテは、ひどくふさぎこんでしまいましたが、サンチョーは、それをなぐさめて、
「早く、どこか宿屋でもさがしだして、一服することにしましよう。ねえ、『憂い顔の騎士』さま。」
と、いいました。ドン・キホーテは、それをききとがめて、
「『憂い顔の騎士』とは、たれのことだ?」
と、たずねました。
「旦那さまのことでござりますがな。さつきの御様子をみると、つい、そう呼びたくなりましたので。」
 すると、ドン・キホーテは、たちまち機嫌を直しました。
「『憂い顔の騎士』とは、よくつけた。総体、騎士たるものは、みな、きわだつた名前をもつているものだ。『剣の騎士』とか、『キリンの騎士』とか、『鳳凰の騎士』とか、『ハゲ鷹の騎士』とか、『死の騎士』とかな。そういう名前で後世に知られているのだが、『憂い顔の騎士』とは、わしにうつてつけの名で、大いに気に入つた。さつそく、わしの楯には、非常に浮かぬ様子をした顔を描かせることといたそう。」

(「ドン・キホーテ」 セルバンテス原作 仁科春彦編)

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