美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

困っている他所様へちょっと手を貸すに何心なく軽やかなのは、床しいこと限りない(柴田宵曲)

2023年02月15日 | 瓶詰の古本

 忙しい時に人手を借りるのは普通の話で、昔の人は猫の手も借りたいなどとよく云ったものだが、さういふ一般的な意味でなしに、実際に手を借りる話が二つある。
「耳袋」に見えてゐるのは、小日向辺に住む水野家の祐筆を勤める者が、或日門前に出てゐると、通りかゝった一人の出家が、今日はよんどころない事で書の会に出なければならぬ、あなたの手をお貸し下さい、と云った。祐筆は更に合点が往かず、手を貸すといふのは如何様の事かと尋ねたが、別に何事もない、たゞ両三日貸すといふことを、御承知下されば宜しいのぢゃ、といふ。怪しみながら承知の旨を答へた後、主人の用事で筆を執るのに、一の字を引くことも出来なくなってゐた。両三日すると、前の出家がやって来て礼を述べ、何も御礼の品もないからと云って、懐中から紙に書いたものを取出し、もし近隣に火災があった節は、この品を床の間に掛けて置けば、必ず火災を免れます、と告げて去った。祐筆の手は元の通りになり、貰った紙は主人が表具して持って居たが、その後度々の火災に水野家はいつも無事であった。或時蔵へしまひ込んで、床の間へ掛ける暇が無かったら、住居は全部焼失し、怪しげな蔵だけが一つ残った。
「三養雑記」にある祥貞和尚の話は、室町時代の事だから大分古い。順序はほゞ同じで、或時天狗が来て和尚の手を暫く借りたいといふ。手を貸すのはお易い御用だが、引抜いて行かれたりしては困ると答へると、そんなことではない、貸すとさへ云へばそれでいゝのだ、といふ挨拶である。それなら貸さうと云った日から、和尚の手は縮んで伸びなくなった。あたりの人々は、和尚の事を手短かの祥貞と呼ぶに至ったが、卅日ばかりしたら、天狗がまた来て、拝借の手はお返し申すと云ひ、火防(ひぶせ)の銅印を一つくれた。和尚の手は忽ち旧に復し、火防の銅印を得たせゐか、和尚の書もまた火防の役に立つと評判された。
「耳袋」の出家の正体は何とも書いてないが、「三養雑記」の方は明かに天狗になってゐる。手を借りられた者が字が書けなくなり、礼にくれるものが火防の役に立つあたり、二つの話は同類項に属すと見てよからう。人間なら代筆を頼めば済むところを、実際に能書の人の手を借りて行くのは、人間より自在なるべき天狗の方が、この点却って融通が利かぬらしい。

(「妖異博物館」 柴田宵曲)

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