美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

数多ある怪異不可思議話が文学作品になり得ることを発見し、神秘的詩謡にも親しい異国語へ定着し直した人(小酒井不木)

2024年06月29日 | 瓶詰の古本

 徳川時代の怪異小説は、前にも述べたごくとママそれ自身さほどの文芸価値を持たないのに、一たびラフカヂオ・ハーン(小泉八雲)の手に翻訳されて、英米に紹介されると、世界的の名声を博することが出来た。それはいふまでもなくハーンの天才によつて、翻訳とはいふものの一種独特の詩味を持たされ、到底原作からは得られぬやうな夢幻的な美感を与へられるからである。私は英米の怪奇小説を愛好さるゝ読者に、是非、ハーンの作物を御勧めしたいと思ふので、特にこゝに紹介して置くのである。
 怪異小説を取入れたハーンの物語集にはKwaidan.Kotto,A Japanese Misellanyママ, Shadowing,In Ghostly Japan などがあるが、この中 Kwaidan が最もポピユラーになつて居る。この中には臥遊奇談から取つた『耳なし保一の話』夜窓鬼談から取つた『お貞の話』『鏡と鐘』怪物輿論から取つた『ろくろ首』百物語から取つた『貉』新撰百物語から取つた『極秘』玉すだれから取つた『青柳の話』の外に、ハーンが直接、地方の農夫などから聞いた話が収められて居る。中にも『貉』は極めて短いけれども、珠玉のやうな作品である。
 京橋の某商人が、ある夜遅く紀伊國坂をとほりかゝると御堀のそばに一人の女が、頻りに泣いて居た。彼はそれを哀れに思つて、近づいてよく見ると、立派な服装をした良家の若い娘であつた。
『お女中、どうしたのですか』と、彼は声をかけたが、彼女は袖に顔を埋めて、泣き続けた。
『お女中、どうしましたか。お話なさい』
 彼女は立ち上つたけれども、相も変らず彼に背を向け、袖に顔を埋めて泣いた。やがて彼は彼女の肩に手をかけて『お女中、お女中』と頻りに呼ぶと、彼女ははじめて振り向いて袖をおとし、手をもつてその顔をつるりと撫でた。見ると眼も鼻も口もないのつぺら棒の顔であつた。
『ヒヤツ!』と言つて彼は夢中になつて駈け出した。紀伊國坂にはそのとき人一人とほつて居なかつたが、彼は驀地に走り走つた。と、前方に提燈の灯が見えたので、はつと思つてかけつけて見ると、それは蕎麦売りの灯であつた。
『あゝ、あゝ、あゝ』と彼は叫んだ。
『これ、もし、どうしたんです?』と蕎麦売りの男はたづねた。
『あゝ、あゝ』
『強盗にでも逢つたのですか』
『いや、いや、お堀のそばで、若い女に、あゝ、その顔が……』
『えゝ? ではその顔は、こんなでしたか?』
 かういつたかと思ふと、蕎麦売りの男は、その手で顔をつるりと撫でた。見ると、眼も鼻も口もない、のつぺら棒。
 はつと思ふと提燈の灯が消えた。
 これはもとより逐字訳ではないが、全篇がみな、かうした塩梅に引きしめて書かれてある上に、ハーン独特の詩的な而もわかり易い文章を以て物されてるから、思はず釣りこまれて読んでしまふのである。

(『ラフカヂオ・ハーンの翻譯』 小酒井不木)

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