家事を放擲して顧みなかつた形跡よりも、却つて妻子の為めに情熱をこめた事実の方が著しい。彼は家庭の人でもあり、又た一人娘であつたせいもあるか、可なり子煩悩であるとさへ思はれる。其の書翰の中に、妻子に関するものが頻々とある。殊に、娘に関するものが最も多い。几董に宛てた書翰には「むすめ甚口こたへ致し異見最中にて使の見る前面目なき程の事に候、骨肉の愛情、扠々持まじきものは子とや申事尤に候」などある。娘を愛する余りのくり言である。娘を嫁入らせた時の事であらうが、琴の師匠を始め、祇園の舞妓など、三十五六人もの盛大な宴会を徹夜で催した事すらある。一旦嫁入らせた娘を、僅か半年の間に離縁した事実も判明してゐる。其他、芝居好きであつた彼は、大抵家人を伴うて南北戯場を出入した。宇治田原への茸狩には、家庭を引具して出掛けてゐる。芸術に高踏的であつた彼は、家庭では、子女の我儘と対抗する慈父であり、それらと苦楽を分つ家長であつた。
さほどの大酒ではなかつたやうだが、酒席は好きのやうであつた。多少名を成した後はもう遊蕩に日を送るほどの年輩でもなかつた。当時の俳人の、多くしだらない生活ぶりに比べて、地味でもあり、謹厳でもあつた。が、百池の手紙には「例の蕪翁にそゝのかされて」小樓で豪快な遊びをした消息などが洩らされてゐる。暁臺の名古屋に報知した書中にも、月居、道立も共に、日々宴飲した大饗ぶりが伝へられてゐる。のみならず、應擧と会飲し、三本木の雪亭といふのを宿坊としてゐた様子もある。一度び詩の門を出れば、彼もたゞ道を行くの人、時の道づれの何人でもあるかに関らず、相携へ、相歓楽するを辞せなかつた。暁臺、士朗と共に飲んだ時の戯画には、「尾張名古屋はシロで持つ」など即席の地口をさへ筆にしてゐる。宮津に遺る「三俳僧圖」は其の文句を焼き潰さねばならないやうな皮肉を敢てしてゐる。彼には、さういふ人の悪さも、酒席をとりもつ頓智もあつた。固陋一偏の老人でなくて、環境と同化する融通方便の人でもあつた。
(『詩人蕪村』 河東碧梧桐)