紫雲山・くろ谷 金戒光明寺は、法然上人がはじめて草庵を営まれた地であり、十五歳で比叡山に登られた上人が承安 5年(1175年)四十三歳の時
比叡山の黒谷を下り、お念仏の教えを広めるために、紫雲山の山頂の石の上でお念仏をされた時、紫雲全山に光明があたりを照らしたことからこの地
に草庵をむすばれました。これが浄土宗最初の寺院となりました。
新選組発祥の地 会津藩と黒谷と新選組 幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、手のつけようのない状態になつていたところ、文久二年(1862)に
徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになりました。これが京都守護職であります。 京都守護職本陣金戒光明寺は徳
川初期に同じ浄土宗の知恩院とともに城郭構造に改められており、会津藩主松平容保公が幕末の文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都守護職
に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替いたしました。
会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き治安の維持に当たらせていたという歴史的なつなが
りがあります。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)、この年の10月に行われた大政奉還後の王政復古の大号令によって薩摩藩・長州藩 が京都市中
の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもって廃止されました。 そういった繋がりから、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を
ここくろ谷の地で弔っております。
山門を入ったところの紅葉です。
方丈東側の紫雲の庭
昨年までは、池の手前までしか行けませんでしたが、今年池の北側を回る散策路が整備されました。
この4枚の写真は、昨年26日に伺った時のものです。
池に映り込む紅葉が、圧巻でした。
庭園内に二つある茶室の一つです。
二つの茶室は並んで建っており、東側の茶室になります。
御影堂(大殿) 内陣正面に、宗祖法然上人75歳の御影(坐像)が奉安されております。 大方丈と紫雲の庭には御影 堂から靴を持って上がって回
るようになっております。
手前の松は、熊谷直実(法力房蓮生法師)鎧掛けの松と呼ばれ、熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)(1141~1208)は、1193年ここ黒谷の法然上
人を尋ね、方丈裏の池(鎧池)にて鎧を洗いこの松の木に鎧を掛け出家したと伝えられているものです。
御影堂の西側の道を北に進みますと、塔頭の栄摂院があります。昨年までは中門までしか入れませんでしたが、今年は庭園を解放なされております。
昨年は、この中門の所までしか入れませんでした。
時期が良かったのか、落ち葉が庭を彩っており大変きれいでした。
本堂東側の紅葉と竹林です。
栄摂院を北に上がりますと、すぐに真如堂が見えてまいります。