地蔵院は、苔寺や鈴虫寺の南側に位置する竹林の美しさで知られる臨済宗の寺院です。幼少のころ近くに生家があった一休禅師(1394~1481)が修
養の場としていた寺としても知られます。 地蔵院の地はもともとは、衣笠内大臣といわれた歌人の藤原家良(いえよし)(1192~1264)が山荘を営んで
いた場所ですが、貞治6年(1367年)もしくは応安元年(1368年)に室町幕府の管領であった南北朝時代の武将・細川頼之(よりゆき)(1329~1392)が
尼僧妙性(みょうしょう)から土地を買取り、寄進したことに始まります。
開山は碧潭周皎(へきたんしゅうこう)すなわち宗鏡(そうきょう)禅師ですが、その師匠であり、西芳寺(苔寺)や天龍寺の作庭などで有名な夢窓疎石
(むそうそせき)を勧請して第1世とし、碧潭周皎自身は第2世となっています。 夢窓疎石(夢窓国師)氏とは、鎌倉時代から室町時代にかけての著名
な禅僧で、各地を巡遊、寺を開基し、自らも作庭を行いました。京都市内では西芳寺(苔寺)、天龍寺の庭園などを手がけております。
碧潭周皎が亡くなり、「宗鏡」の諡(おくりな)を得てこの地蔵院に葬られた後、細川頼之もまた遺志により死後地蔵院に葬られ、2人の墓石と伝えられ
る石が境内に並んで安置されています。細川氏に由来する寺院であるためか、当時の朝廷の信仰も厚く、室町時代には京都五山に匹敵する特権を
与えられるとともに、多くの寺領が寄進され、隆盛を極めました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477年)によりすべての堂舎は焼失し、さらに復興後に天正の大地震(天正13年・1585年)で大きな打撃を受けます
が、細川家の援助もあり江戸時代中頃には復興いたしました。庭園は宗鏡禅師作と伝えられますが、貞享3年(1686年)に建てられた方丈の南側にあ
るため、方丈と同時期に整えられたものと考えられています。
山門で拝観受付を済ませ竹林に囲まれた参道を進みますと、正面に本堂が見えてまいります。
臨済宗は、中国でおこった禅宗の一派で、日本では臨済宗・黄檗宗・曹洞宗の三宗があり共に達磨大師を初祖と仰いでおります。その精神は、教外
別伝・直指人心を旗印とし、ひたすらに座禅を修して、人間本来に備わっている仏性を徹見し、またそれと一体不二となって、淡々とした境地に安住す
ることが釈尊の説いた仏法正しく受け継ぐことであると説くところにあります。 臨済宗の教義は、「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」で表され、
不立文字とは、仏の道は言葉や文字ではないと云われ、教外別伝は、心から心に伝えられるものであり、直指人心とは、衆生の心と仏心とはもとは一
つであるから、仏を外に求めるのではなく、自分自身の中に求めなければならないとあり、見性成仏は、悟りとは、ただ自己のありさまを徹底して見、識
ることのほかにないと説明されております。
本堂手前の右側に細川頼之公の御事績が詳しく書かれた石碑が建っております。細川 頼之(ほそかわ よりゆき)は、南北朝時代から室町時代初期
にかけての武将で、政治家で、室町幕府管領を務めた人物です。 足利氏の一門である細川氏の武将として、阿波、讃岐、伊予など四国地方におけ
る南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属し、管領への就任で幕政を指導し、幼少の足利義満を補佐して半済令の施行や南朝との和睦などを行
いました。天授5年/康暦元年(1379年)の康暦の政変で失脚いたしますが、その後は赦免されて幕政に復帰いたします。
文化的活動としては和歌や詩文、連歌など公家文化にも親しみ、頼之が詠んだ和歌が勅撰集に入撰しており、また、軍事作法について記した書状も
存在している文武にたけた人物として名をのこしております。 幼少時に禅僧である夢窓疎石から影響を受けたとされ、禅宗を信仰して京都に景徳寺、
地蔵院、阿波の光勝寺などの建立を行いました。細川家の子孫には、龍安寺開基の勝元氏や幽斎、忠興親子や元首相の護煕氏まで脈々と続いてお
ります。
本堂に祀られている御本尊は、伝教大師の作という地蔵菩薩(通称谷の地蔵)で、菩薩の左右には、夢想国師・宗鏡禅師・細川頼之の木像が安置され
ております。
本堂の左手奥(南側)には、自然石で造られた二つの墓が佇みます。
二つの墓石の内、左手が宗鏡(そうきょう)禅師のもので、右側が細川頼之(よりゆき)の墓になります。細川頼之は三河国(愛知県)の生まれで、将軍
足利義満を補佐していた管領職をしておりました。 天然の石だけを墓石の代わりにしているものは、この時代では大変珍しい事だそうです。
一休禅師と地蔵院 当院は一休禅師が幼少の頃修養された寺であり、禅師は、後小松天皇の皇子として、1394年当院の近くの民家でお生まれにな
ったといわれており、後、当院で成長され、6歳の時安国寺に移って本格的な修行にはいられました。 禅師は京都、堺などで大衆を教化し、大徳寺に
も住されましたが、晩年は山城薪(現在の京田辺市)の一休寺で親しまれている妙勝寺を復興して酬恩庵とし、そこで文明13年(1481)八十八歳でお
亡くなりになるまで過ごされました。
本堂正面から山門方面
本堂北側
本堂の北側には、開福稲荷大明神を祀る祠が建っております。
開福稲荷大明神前のお地蔵さんの列
中門
本堂前から北に伸びる参道の向こうには、方丈と庫裡の入口の中門が建ちます。
中門正面の庫裡の玄関
方丈は、江戸時代の貞享3年(1686)に再建されたもので、方丈前庭園は「十六羅漢の庭」と呼ばれる平庭式枯山水庭園となっております。
方丈庭園の中には30個ほどの石が各所に据えられており、とくに築山や池などを築かない、平庭形式の枯山水庭園となります。据えられている石の
形は様々ですが、比較的均等に配置され、羅漢(悟りを開いた修行者)の修行をする姿を表現するという石の配置がなされているため、「十六羅漢(ら
かん)の庭」と呼ばれています。地面にはコケが一面に生え、落ち着いた感じをかもしだしています。 中央に見える樹は、胡蝶侘助椿とあります。
中門の内側に建つ祠は、開運弁財天と左側に巳歳守護と書かれております。
日当たりが悪いのか、山門のモミジは紅葉の途中です。
こちらの地蔵院への道は大変狭く大型バスなどが入って来れないので、人混みも無くこの時期でも大変静かにゆっくりと回れる寺院です。 なお、駐車
場は山門前の道を北に50m程行ったところに3台程度停められるスペースがあります。
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