嵯峨野の清凉寺から二尊院に向かう道中に位置する厭離庵は、 臨済宗天龍寺派の尼寺で、藤原定家の小倉山荘跡とされ、定家が百人一首を
撰したところという説がある寺院の一つです。藤原定家が小倉百人一首を編んだ山荘「時雨亭」の場所には諸説ありますが、常寂光寺、二尊院に
も時雨亭跡があり厭離庵もその一つに挙げられております。通常は非公開になっておりますが、紅葉の時期には、特別公開されます。
藤原定家が小倉百人一首を編んだと云われる当寺院もその後、久しく荒廃しておりましたが冷泉家が修復し、霊元法皇より、「厭離庵 えんりあ
ん」の寺号を賜り、安永(1772)より、臨済宗天龍寺派の寺院となりました。
開山は白隠禅師の高弟霊源禅師となっており、男僧が四代続きましたが明治維新後、再び荒廃しておりましたが明治四十三年、貴族院議員の白
木屋社長大村彦太郎が仏堂と庫裡を建立し、山岡鉄舟の娘素心尼が住職に就き、それ以後尼寺となっておりましたが、平成十八年九月、男僧、
玄果が入山しております。
藤原 定家(ふじわら の さだいえ)とは、鎌倉時代初期の公家・歌人で、「ていか」と音読みされることが多いと説明されており、藤原北家御子左流
で藤原俊成の二男、最終官位は正二位権中納言とあります。別名、京極殿または京極中納言とも呼ばれておりました。法名は明静(みょうじょう)
と云い歌人の寂蓮は従兄、太政大臣の西園寺公経は義弟にあたります。 平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、御子左家の歌道
の家としての地位を不動にした人物でもあり、代表的な新古今調の歌人であり、その歌は後世に名高いと説明されております。
山門を潜りますとすぐに茶席に通じる茅葺の待合が建ちます。
客殿、右手に茶席「時雨亭」が建ちます。
茶席「時雨亭」 時雨亭は、六世常覚尼が茶道を志し、定家卿の御歌に因んで、定家卿の山荘「時雨亭」の再興の意をふまえて、大正十二年
当時裏千家出入りの数寄屋大工岡田永斉の手によって建てられました。
四帖向切、床は枡床、塗りがまち、書院窓に文机があり、桂離宮より模され、天井はよしの化粧天井で、広縁は苔寺の湘南亭を模し、屋根裏は傘
を想わせ、情緒ゆたかに仕上げられております。
傘状の屋根には、明り取りの窓が切られております。
庭園入口
庭園に佇む織部燈籠
庭園を流れる小川には、楠の化石の橋が架かります。
本堂 御本尊は、上宮太子御作の如意輪観音を祀り、開山霊源禅師、西行法師、家隆卿、貫之卿の木像と定家卿、為家卿、為相卿の位牌を安置
いたしております。 昭和25年のジェーン台風で倒壊した本堂は、「時雨亭」に於いて茶会を催し、その浄財にて昭和28年に、これも岡田永斉の手
によって再建されました。天井には、東京芸術大学名誉教授の西村公朝氏(愛宕念仏寺元住職)の筆による「飛天」が描かれております。
客殿の左手の楓の脇に井戸がありますが、こちらは「柳の井」ではありません。 定家が筆を洗う水を汲んでいたと云われる井戸「柳の井」は、時雨
亭の脇に有るそうです。
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