京都府亀岡市にある『穴太寺(あなおうじ)』は山号を菩提山と称し、天台宗に属し、古くには、「穴穂寺」「穴生寺」などともよばれており、西国三十三所
巡礼の第二十一番札所となっています。
穴太寺の創建は705年、文武天皇の勅願によって、大伴旅人の甥・大伴古麿が薬師如来をご本尊に安置し建立されたとつたわります。仁王門は17世
紀中期の建立と思われますが、柱には改造痕跡が多くみられ、狩野永納が1676年に描いた「穴太寺観音縁起絵巻」にある楼門の古材を利用しての改
築ではないかとの指摘があります。
大伴古麻呂(こまろ:胡麻呂、胡麿とも)とは、その名は、古代史の専門家か古代史に興味を持つ者以外にはあまり知られていないといわれており、麻呂
は、第十回遣唐使の副使として唐に渡り、長安での朝賀の席では新羅との席次を争い、大使が唐の官憲を恐れ下船させた唐僧・鑑真和上とその弟子を
隠密裏に自らの船に乗せ渡来させた事で知られております。
その後、平安時代になりますと、当地曽我部郷の郡司、宇治宮成によって聖観音菩薩を当寺に奉迎することになり、これには仏師の身
代わりになり、弓矢を受け、その命を救った「身代わり観音」の霊験譚「穴太寺観音縁起」が伝えられております。
穴太寺の聖観音像は「身代わり観音」の伝説で知られ、この伝説が『今昔物語集』に取り上げられていることから、平安時代末期には観音霊場として
当寺が知られていたことがわかります。『今昔物語集』所収の説話によりますと、昔、丹波国桑田郡の郡司をしていた男は、都の仏師に依頼して聖観
音像を造り、仏師には褒美として自分の大切にしていた名馬を与えました。しかし、与えた名馬が惜しくなった男は、家来に命じて仏師を弓矢で射て殺
してしまいます。ところが、後で確認すると仏師は健在で、観音像の胸に矢が刺さっており、命が助かりました。この話を耳にした男は改心し仏道を信じ
るようになったという話が伝わっております。同様の説話は『扶桑略記』にもあり、ここでは男の名が「宇治宮成」、仏師の名が「感世」とされております。
仁王門を潜りすぐ右手に鐘楼がありその前には、手水場が建ちます。
南北朝時代以降は、比叡山西塔院末で、室町幕府から所領や執行職を任されており、戦国時代になりますと、戦火や明智光秀による亀山城築城の
用材として、当寺の堂宇を壊し流用したとも伝えられ荒廃いたしておりましたが、江戸時代に入り再興の勧進が実り、諸堂を復興し今日に至っており
ます。
羽衣モミジと本堂
穴太寺の「本堂」は、火災で焼失してしまったものを1735年に再建したものです。
山門の左手に建つ多宝塔 手前の小さな鳥居と小社殿は、穴太寺の鎮守社で菅原道真公を祭神とする天満宮であり、寺紋は道真公に因み梅鉢紋
になっております。社殿は小さいながらも本格的な一間社流造りで18世紀初期のものと思われております。
1804年再建された多宝塔は、柱がすべて円柱になり切石積の基壇上に東を正面に建ちます。 内部は四天柱が
立ち来迎壁を設けて禅宗様の須弥壇に釈迦如来と多宝如来の二仏が安置されております。
亀岡市内では、唯一の木造塔として貴重な存在になっております。
本堂(観音堂)は、1728年に焼失した後、七年後の1735年に再建され、多くの巡礼者が訪れる霊場の本堂の常として広い向拝下の土間と吹き放ちの
外陣が特徴です。
内部は、格天井に花鳥図を描き内々陣には禅宗様の須弥壇を設け華麗な彫刻と色彩を施した宮殿を据えて、本尊の薬師如来と聖観世音菩薩の三尊
を安置しております。左右の脇壇には左脇に不動明王立像、右脇には平安期の阿弥陀如来像と釈迦如来大涅槃像が安置されております。
本堂前には、寺院では珍しい草花の生け込が飾られておりました。 お寺のご住職の奥様か、女性職員の方の心配りだと思われます。 寺紋の梅鉢
紋をあしらった本堂のガラス戸
本堂前、右手には賓頭盧さんが鎮座されております。賓頭盧さんは、十六羅漢の第一とされておりましたが、神通力をもてあそんで釈迦に呵責(かしゃ
く)され、涅槃(ねはん)を許されず、釈迦の入滅後も衆生(しゅじょう)の救済にあたったと云われております。白髪と長眉(ちようび)の姿で示され、日本で
は堂の前に置き、これを撫でると除病の功徳があるという俗信が広まりました。
本堂から見た山門方向です。
本堂と西側の方丈及び庫裡を結ぶ回廊です。 庫裡で方丈庭園と本堂の拝観受付を済ませて、この回廊で本堂に渡ります。
庫裡及び方丈への入口の表門 表門は、1705年建立の薬医門です。
書院玄関と雲龍図の屏風
庫裡の南側の方丈は、方丈建築として丹波地方では屈指の質の高さと古さを持つと云われております。
方丈南側に位置する方丈庭園
多宝塔は、方丈庭園の南側に位置し、庭園の借景とした役割もはたしております。
方丈及び庫裡の事を、円応院と呼び、南面に名勝の庭園と西面に護摩堂に続く露地の庭を併せ持つ書院造りの建物となっており、棟札によりますと
中興初代行廣が、1677年に造営し本堂とは渡り廊下でつなげております。
西側庭園
西側庭園の右手(北側)に護摩堂がつづきます。
本堂への渡り廊下
御本尊を祀る須弥壇の右手には釈迦如来大涅槃像が横たわります。 お釈迦様が、インド・クシナガラの地で生涯を閉じられ、涅槃に入られるお姿です。
日本では2月15日にその遺徳を追慕し涅槃像を供養しますが、大体が画像で、このような等身大の彫刻は全国的にみても大変珍しく、蓮華座を枕にして
横たわるお姿はまことに円満で、悟りの境地に入られた表情をよく表しております。この尊像は明治29年(1896)に本堂屋根裏よりお出ましになり、当時
の住職と孫娘の病気平癒のため、日々参詣をしていた信者の霊夢によってこの尊像を探し当て、堂内に祀ると孫娘の病が快癒したと伝わっております。
それ以来、諸病悉除の釈迦大涅槃像として自分の病の個所と同じ尊像の部分を撫で、自分の体をさすり返すとお釈迦様のご利益に授かれると、癒しを求
める参拝者に全身を撫でられ光沢をはなっております。
こちらの涅槃仏は、上に布団が掛けられており、お寺の関係者の方が、「布団をめくって、体の悪いところを撫でてくださいと」とおっしゃってくださいましたの
で、気が付くと全身をくまなく撫でている自分がおりました。 涅槃仏に掛けられている布団は、信者の方が病気平癒のお礼に納められたものだそうです。
多宝塔の北側には、三十三所観音堂と納札所が建っております。
本堂の柱には、いたるところに千社札が貼られておりましたが、お寺の方に頼んで貼ってもらうのでしょうね。
三十三所観音堂と手前の札所 三十三所観音堂には西国札所のお砂が納められており、このお堂をお参りすることで、すべての西国観音霊場をお
参りしたことと同じだけの功徳があるといわれております。
納札所には多くの参拝者の納札が打ち付けられております。
仁王門の脇に建つ鐘楼は、1759年の建立です。
西国三十三所観音霊場だけあって、観光バスの乗り入れも多く十分な駐車場が完備されております。仁王門の南側、徒歩二分の距離にあります。
このブログを見ていただいているお客様も多数お越しいただき、大変ありがたく思っております。時間の許す限り随時更新を続けていきたいと思っております。
私もまだまだ行ったことのない寺院が沢山ありますので、リクエストがございましたら、是非伺いますので遠慮なく仰ってくださいませ。
祇園 割烹 ふじ原 ホームページ http://kappou-fujiwara.com/
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます