京の四季 名勝散策 写真集

京都の観光、散策の参考にしていただければ幸いに思います。

大本山 廬山寺 桔梗の庭 7/14/2011

2011年07月21日 | 洛中 

      

      廬山寺は、御所の東側の寺町通りに面した位置にあり、天台宗圓浄宗の大本山で、正しくは廬山天台講寺と号します。938年比叡山第18世座主・元

      三大師良源によって天慶年中(938年~947年)に船岡山の南麓に開かれた興願金剛院にはじまります。  寛元元年(1243年)に法然上人に帰依し

      た住心房覚瑜上人が出雲路に廬山寺を開き、南北朝時代にこの二ヵ寺を兼務した明導照源上人によっって廬山寺が興願金剛院に統合され、この時

      以来寺名を廬山寺から廬山天台講寺と改め、円、密、戒、浄の四宗兼学道場といたしました。

 

 

 

 

 

      

      その後、室町時代に応仁の乱で焼失した後、1571年には、織田信長の比叡山焼き討ちは正親町天皇の女房奉書により免れましたが、豊臣秀吉の寺

      町建設によって1573年~1593年に現在地の紫式部邸宅址に移転いたしました。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      現在の本堂は、度々の火災のため焼失後、1794年に光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院、閑院宮家の御下賜でもって改装されたものです。

 

 

 

 

 

      

      明治維新までは御黒戸四箇院と云って、宮中の仏事を司る寺院が四ケ寺ありその中の一つでありましたが、廃仏毀釈により宮中より天台宗にお預け

      になり昭和二十三年圓浄宗として元の四宗兼学の道場となり今日に至っております。

 

 

 

 

      

      山門の正面に位置する元三大師堂は、天明大火後の天保六年(1835)の再建で、奥に元三大師を祀る扉付仏壇をおき、毎月三日に護摩を行っており、

      どなたでもご自由に参加できる様になっております。

 

      

      元三大師象・鎌倉時代

 

 

 

 

 

      

      元三大師堂の北側に鎮座する賓頭盧(びんずる)尊天像。賓頭盧さんは、十六羅漢の第一とされておりましたが、神通力をもてあそんで釈迦に呵責さ

      れ、涅槃(ねはん)を許されず、釈迦の入滅後も衆生(しゅじょう)の救済にあたったと云われております。白髪と長眉(ちょうび)の姿で示され、日本では堂

      の前に置き、これを撫でると除病の功徳があるという俗信が広まりました。

 

 

 

 

      

      

       京都七福神 三番毘沙門天 境内西の大師堂は元三大師像を本尊として、左右に不動明王、金山毘沙門天、薬師如来像を安置しております。 この

      毘沙門さんは聖徳太子作と伝えられており、聖徳太子は父・用明天皇なきあと皇位継承問題で排仏派の物部守屋らと戦いましたが、そのとき戦勝祈

      願したのが毘沙門天でした。戦いに勝った太子は仏教をひろめるため四つの天王寺を築きます。

 

 

 

 

 

      

      四天王寺の中でも、大阪四天王寺はあまりにも有名ですが、京都北山に建立したのが金山天王寺で、本尊を如意輪観音とし、脇侍に毘沙門天像を安

      置したと伝えられており、その後、金山天王寺がどういう軌跡をたどり廃寺となったかはわかりませんが、廬山寺は天慶元年(938)北山に創建され、洛

      北の地を転々として天正13年(1585)現地へ移ったと伝えます。金山毘沙門天像を廬山寺で祀るようになったのは明治元年からといわれております。

      当初の本尊如意輪観音並びに伽藍等は数度の火難に遭遇し、久しく廃絶に帰しましたが、承願元年(1207)に烏丸一条北に再建され、承久年中(12

      19)に上立売室町東に移転するその間、本尊もその当時の大阪・四天王寺の本尊[飛鳥時代]を模倣造立し、旧観に復しました。天正13年(1585)廬山

      寺二十二世超空上人が今出川通り七本松に移され、明治7年(1874)二月官許によって廬山寺に合併され現在に至り、現存の本尊如意輪観音は鎌倉

      時代の作でありますが、飛鳥仏の姿貌を残す霊験の顕著なること炳として日星の如く、諸願よく成就し、これをもって古来より来たり、詣でるもの雲の如

      く集まり、常に香華耐えることはなしと云われております。現在はお前立ちのみ、元三大師堂内に安置されており、本体は京都国立博物館の常設展示

      会場にて展示されております。      

                           

      如意輪観音半伽像                       黒戸 宮中で云う仏間のことで、仁孝天皇が宮中で祭られていた光格天皇

                                         と新清和院皇后の御尊碑が安置されております。                  

 

 

 

 

 

      

      元三大師堂を護る獅子像 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

      本堂・庭園の拝観受付には、元三大師堂の南側を回り向かいます。

 

 

 

 

       

      

      境内の南側に建つ鐘楼 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       鐘楼の東側に佇む筆塚 日本画家、池田遙邨(いけだようそん)の筆塚  池田遙邨(1895~1988)は岡山県倉敷市出身で、現在の京都市立芸術

      大学の助教授を務めていたことがあるそうですが、廬山寺との接点や筆塚が建った由来等は見つけることが出来ませんでした。 お寺の方に聞くのが

      一番ですが、興味がおありの方は尋ねてみてください。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      紫式部の歌碑 「めぐりあひて見しや それともわかぬ間に  雲がくれにし夜半の月かな」 紫式部が幼友達に贈った歌がきざまれております。

       『思いがけず出合って、その形を見たのかどうか分からぬうちに、雲の中に隠れてしまった夜中の月のように、久し振りにお目にかかり、お姿をみたか

      どうか分からぬうちにもうあなたはお帰りになられましたのね。』といった意味の内容が表現されております。 少女時代の紫式部については、有名な

      逸話がつたえられています。 紫式部の実弟・惟規が父の為時について「史記」を学び、なかなか覚えられずに難渋していたが、わきで聴いている紫

      式部はすらすらと覚えてしまうので、為時は、「この娘が男でないのが残念だ」と歎いたという話である。 もう一つの歌は、紫式部の娘の歌がきざまれ

      ております。 「有馬山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする 」 大弐三位 

 

 

 

 

           

      

      源氏物語の舞台   日本人で唯一人「世界の五大偉人」に選出され、フランスのユネスコ本部に登録された世界最古の偉人並文豪紫式部は、「平安

      京東郊の中河の地」 すなわち現在の廬山寺の境内(全域)に住んでおり、それは紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅(堤

      第)であり、この邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、長元四年(西暦1031年)五十九歳ほどで死去したといわれております。 紫式部

      は藤原香子と呼び、「源氏物語」「紫式部日記」 「紫式部集」などは、ほとんどこの地で執筆されたものであります。そのため、世界文学史上屈指の史

      跡、世界文学発祥の地とも言われております。この遺跡は考古学者角田文衛博士によって考証されたものであり、昭和四十年十一月、境内に紫式部

      邸宅跡を記念する顕彰碑が建てられました。 

 

 

 

 

 

      

      拝観受付のある本堂玄関

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      磨き上げられた本堂の板張りの廊下は、7月の暑さの中とてもひんやりと一服の清涼感を味わえます。

 

                      

                      御本尊の阿弥陀如来三尊(平安時代)は、来迎を現しており、説明により

                      ますと、両脇侍像に見られる動きのある容姿と風の表現を意図した造形は

                      この時代にあって出色のものだそうです。

 

 

 

 

      

      本堂南側の庭園は、「源氏庭」と名付けられ、平安朝の庭園の「感」を表現した白砂と苔の庭で、紫の桔梗が6月~9月まで順次咲いていきます。

 

 

 

 

 

      

      紫式部が育ち、未婚時代を過ごしたのは堤第といわれた藤原兼輔(紫式部の曽祖父であり、堤中納言といわれる)が建てた邸宅であり、父・為時の邸

      宅においてでした。この邸宅で結婚生活を送り、一人娘の賢子(かたこ)を育て、源氏物語を執筆したと云われており、それは平安京の東に接した中河

      と呼ばれる地にあり、現在の廬山寺の境内を中心とする処に営まれていました。昭和40年11月、廬山寺の境内に紫式部の邸宅址を記念する顕彰碑が

      たてられました。 また、源氏物語の花散里の屋敷はこのあたりであったといわれています。

 

 

 

 

      

       源氏物語に出てくる朝顔の花は今の桔梗のことであり、紫式部に因み、紫の桔梗が6月から9月末まで静かに花開きます。 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

       この庭園を鑑賞するのは、やはり桔梗が咲き誇るこの時期が素晴らしいと思います。

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      紫式部の邸宅址を記念する顕彰碑

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

              

      

 

 

                         

                         若紫(住吉廣尚画) 紫式部が執筆した「源氏物語」は、日本が世界に誇る

                         文化遺産として、筆頭に挙げていい傑作長編の大恋愛小説であると、瀬戸

                         内寂聴談がパンフレットに載っております。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

                       

      節分に執り行われる「追儺式鬼法楽」(通称   鬼おどり)は、開祖元三大師良源が村上天皇の御代に宮中に於いて300日間の護摩供養を修せられた

      時に三匹の鬼(人間の善根を毒する三種の煩悩、即ち貪欲、嗔恚、愚痴の三毒を表現しており) が現れ、この三鬼を節分の日に追い払い、開運をはか

      り、新しい節を迎えるという法会行事です。  太鼓と法螺貝の音を合図に松明と宝剣を持った赤鬼、大斧を持った青鬼、大槌を持った黒鬼が大師堂前

      の特設舞台に出現し、足拍子をとりながら、堂内に入ります。堂内では厄除け開運、福寿増長の護摩供の修法が執り行われており、そのまわりを三鬼

      が踊りながら修法の妨げをするのですが、、 護摩供の秘法、追儺師の邪気払いの法弓、そして蓬莱師、福娘によって撒かれる蓬莱豆及び福餅の威力

      に追われて鬼は門外へ逃げ去ります。

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

 

      

      元三大師堂 

 

 

 

 

 

              

 

 

 

 

 

 

      

            

             

 

 

 

 

      

      山門の南手の寺町に面した壁の前に建つお社  庭園の桔梗は、文中でも書きましたが、9月末まで順次開花しているようです。お車でお越しの方は、

      山門内の境内に6・7台は駐車することが可能です。 なお、寺町通りは、今出川からは下がれませんので、一本西側の御所の横の道を突き当たりまで

      下がって左折しますと、寺町に出ますので南に折れるとすぐ左手(東側)に山門があります。丸太町からの方は、寺町の信号を北上してください。

 

 

                             

 

 

 

 

 

 

  このブログを見ていただいているお客様も多数お越しいただき、大変ありがたく思っております。時間の許す限り随時更新を続けていきたいと思っております。

  私もまだまだ行ったことのない寺院が沢山ありますので、リクエストがございましたら、是非伺いますので遠慮なく仰ってくださいませ。  

  祇園 割烹 ふじ原 ホームページ  http://kappou-fujiwara.com/ 


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