京都に雪が積もりますと、必ずと言っていい程テレビのニュースで紹介されるのが金閣寺です。 そのテレビクルーが取材に来ている中、オーストラ
リアから来ている友人夫妻を案内して5年ぶりの雪の金閣寺を回ってきました。
駐車場から拝観入口に向かう参道です。 雪は昨夜少し積もっただけで、朝から雨模様となりました。
総門前 この時点では、観光客の姿はそれほど多くはありませんでしたが、参拝入口を過ぎたあたりから混み始め前後左右からは、中国語しか聞
こえない状況に包まれてしまいました。
参拝入口前の鐘楼、鐘は1回200円で撞くことが出来ます。
拝観入口から並ぶこと約10分、やっとの思いで最前列に。 ここでは、自分が日本人であることを忘れ去り、中国人観光客の容赦ない割り込みに
対応出来ないといつまで経っても後塵を拝することになりますので、勇気を持って押し進んでみてください。
お釈迦様の骨を祀った舎利殿『金閣』が特に有名なため、金閣寺と呼ばれておりますが、正しくは『鹿苑寺 ろくおんじ』と言い、臨済宗相国寺派の
禅寺です。(1994年 世界文化遺産に登録されております) 舎利殿は、三層からなっており一層目は寝殿造りで法水院、二層は武家造りで潮音
洞(ちょうおんどう)呼ばれており、三層は中国風の禅宗仏殿造りで究竟頂(くっきょうちょう)と呼ばれ、三つの様式を見事に調和させた室町時代の
代表的な建築物だそうです。
金閣寺が寺院になる前は、鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりと
されております。
金閣を中心とした庭園及び建築物は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われており、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との
貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化といいます。足利義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師
を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。
応仁の乱(1467年始まり)で西軍の陣となり建築物の多くが焼失いたしましたが、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も1649年に大修理
されました。 明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ってしまいましたが、当時の十二世住職貫宗承一により、
1894年(明治27年)から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保したと説明されております。
初層内部の宝冠釈迦如来像と足利義満像
1950年(昭和25年)7月2日未明、、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた国宝足利義満坐像、伝運慶作
の観世音菩薩像、春日仏師作の夢窓疎石像等10体の木像等も焼失いたしました。
その後、再建費用として、政府や京都府からの補助金、経済界や全国各地からの寄付金など約3000万円(当時)が集められ1952年(昭和27
年)3月22日から3年を掛けて復元再建され、1955年(昭和30年)10月10日に落慶法要が営まれました。 現在の金箔や漆は1986年(昭和61
年)2月から1987年(昭和62年)10月まで1年8ヶ月を掛け、総工費約7億4千万円(当時)を投じて「昭和の大修復」が行われた時のものです。
鏡湖池(きょうこち)には葦原島、鶴島、亀島などの島々のほか、畠山石、赤松石、細川石などの奇岩名石が数多く配されております。
なお、頂上にあった鳳凰及び「究竟頂」の額は火災以前に取り外されていたため、焼失を免れて現存し、現在も輝き続けております。
手前、方丈殿と中央、陸舟の松と書院
陸舟の松(りくしゅうのまつ)と方丈 方丈の北側に有るこの松は、京都三松の一つで舟の形をした『陸舟の松』です。この地を、応永4年(1397)
西園寺家から譲り受けた足利三代将軍義満が自ら植えたと言われております。
安民沢(あんみんたく)は昔からある池の名前で、中ノ島には『白蛇の塚』があります。
夕佳亭(せっかてい) 江戸時代の茶道家・金森宗和が好んだ数奇屋造りの茶席で、夕日に映える金閣が殊に佳いと言う事から『夕佳亭』と名づけ
られたそうです。茶席手前の石灯篭は、慈照寺の銀閣を建てた足利8代将軍義政が愛用した物と言われております。
不動堂
天正年間(1573年から1593年)に宇喜多秀家が再建したとされ、金閣寺境内に現存する最も古い建物で、本尊は空海(弘法大師)作の伝承を有
する石不動明王が祀られております。
金閣寺を後にし、雪を求めて大原三千院に向かいます。
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