【936】年【後晋】の建国を助けた遼は、その見返りに【燕雲16州】を獲得しました。その結果、その後の五代に現れた中国諸王朝にとっても、【960】年に建国し979年に【北漢】を滅ぼして中国を再統一した宋にとっても、燕雲16州の奪回は大きな外交課題になっていました。宋は繰り返し遼に対して攻撃しましたが、ことごとく失敗しています。
その結果、【1004】年に宋と遼とは講和条約である【澶淵の盟】を結びました。【燕雲16州の領有は遼が維持する】ことになり、さらに宋は遼に対して毎年絹20万匹、銀10万両を贈るという、宋にとって非常に過酷な内容になっています。両国の「関係」は宋を【兄】とし遼を【弟】としています。家族主義に基づく儒学の国らしい関係の結び方です。また、これほどの負担を宋が負っていながらも、名目上は宋の方が遼よりも高い立場にあるという点も、大義名分を重視する儒学の国(宋)の特徴が出ているといえます。
その結果、【1004】年に宋と遼とは講和条約である【澶淵の盟】を結びました。【燕雲16州の領有は遼が維持する】ことになり、さらに宋は遼に対して毎年絹20万匹、銀10万両を贈るという、宋にとって非常に過酷な内容になっています。両国の「関係」は宋を【兄】とし遼を【弟】としています。家族主義に基づく儒学の国らしい関係の結び方です。また、これほどの負担を宋が負っていながらも、名目上は宋の方が遼よりも高い立場にあるという点も、大義名分を重視する儒学の国(宋)の特徴が出ているといえます。