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イスラム教の成立から正統カリフ時代

2012年01月19日 | トリオDE世界史
(1)6世紀後半シリアの抗争 �東ローマ皇帝�ササン朝皇帝�東ローマ皇帝
�ユスティニアヌス
�ホスロー1世
�ヘラクレイオス1世
(2)ユスティニアヌス帝の業績3つ
�イタリア支配(555年東ゴート王国征服)
�北アフリカ支配(ヴァンダル王国征服)
�ローマ法大全の編集
(3)ホスロー1世 �ライバル�同盟国�挟撃した中央アジア
�ユスティニアヌス帝
�建国間もない突厥
�エフタル
(4)ヘラクレイオス1世 �行政組織�兵制�征服地
�テマ(軍間区)制
�屯田兵制
�シリア
(5)イスラム教の成立 �創始者�創始年�場所
�ムハンマド
�610年
�メッカ
(6)ムハンマドの年代 �イスラム教創始年�ヒジュラ�半島統一の年
�610年
�622年
�632年
(7)イスラム教 �唯一神�マホメット�経典
�アラー
�最後にして最大の預言者
�コーラン
(8)イスラム教重要語 �教団�聖遷�聖戦
�ウンマ
�ヒジュラ
�ジハード
(9)マホメット �出身一族�妻�娘
�クライシュ族ハーシム家
�ハディージャ
�ファーティマ
(10)アラビア半島 �民族�最大のオアシス�隊商
�アラブ人
�メッカ
�ベドウィン
(11)ヒジュラ �年�内容�状況
�622年
�メッカからメディナ(旧名ヤスリブ)に移住
�メディナは社会的に混乱していた
(12)正統カリフ �初代�2代目�4代目
�アブー=バクル
�ウマル
�アリー
(13)カリフ �意味�初代カリフ�カリフ制廃止年
�預言者ムハンマドの代理人
�アブー=バクル
�1924年
(14)ウマルの征服地3つ
�西アジア(ササン朝ペルシア滅亡)
�エジプト(東ローマ帝国から)
�シリア(東ローマ帝国から)
(15)ササン朝ペルシアの滅亡 �戦い�そのときのカリフ�滅亡年
�642年ネハーヴァントの戦い
�ウマル
�651年
(16)ウマルの業績 �兵士への俸給制度�太陰暦制定�聖戦
�アター制
�ヒジュラ暦
�ジハード
(17)アリー �ムハンマドとの関係�出身�アリーの一派
�ムハンマドの娘婿(妻はファーティマ)
�ハーシム家
�シーア派

ワークシート(155)地域史 アイルランド問題

2012年01月17日 | ワークシート
ワークシート(155)地域史 アイルランド問題

 ピューリタン革命期の1649年に【 】革命を指導したクロムウェルはアイルランドを征服した。【 】年に指導者【 】がアイルランドを征服した結果、アイルランド農民はイングランド地主の隷属意的な小作人にされた。イングランドの植民地にされたアイルランドは1801年イングランドに併合された。【 】年のアイルランド併合の結果、大ブリテン・アイルランド連合王国が成立した。
ピューリタン革命後、イングランドでは1660年王政復古し、ステュアート朝のチャールズ2世が即位した。しかし、【 】年に国王になった【 】はカトリック政策をとって議会と対立した。国王【 】のカトリック政策に対し、議会は1873年審査律を制定して抵抗した。【 】年に議会が制定した【 】は、国教徒以外は公職に就けないと定めた。【 】以外が公職に就けなくし、カトリック教徒を公職から追放することを目的とした。
 19世紀の自由主義改革のなかで、アイルランド出身の議員オコンネルの活躍で、1828年審査律は廃止され、さらに翌【 】年にカトリック解放令が出された。【 】年に【 】が廃止され、【 】年に【 】が制定された結果、イギリスでは宗教上の平等が達成された。この成果はアイルランド出身議員の【 】の業績である。しかしアイルランドでは1845年ジャガイモ飢饉が発生した。【 】飢饉は未曾有の災害で、【 】年【 】飢饉発生により数100万のアイルランド人が餓死した。そのため翌【 】年穀物法が廃止された。【 】法とは穀物の輸入を制限していた法律で1815年に制定され、【 】年に廃止された。
 19世紀後半、アイルランド小作農の窮状を救うために土地同盟が結成された。この【 】はパーネルが指導した。この時期、イギリス自由党の政治家グラッドストンは議会にアイルランド自治法案を提出したが、自由党の【 】が議会に提出したアイルランド自治法案は下院で否決された。
 1916年アイルランド全島規模でイースター蜂起が起こった。この【 】蜂起は共和国樹立を目指した軍事蜂起である。しかし7日間の戦闘の結果、【 】蜂起は鎮圧された。
一方、1905年にグリフィスがシン・フェイン党を結成した。【 】党のシン・フェインとは「我ら自ら」という意味である。やがてデ=ヴァレラが【 】党党首に就任した。党首【 】の指導の下、1922年アイルランド自由国が樹立された。この【 】年に成立した【 】国は、「英連邦内自治領」という立場の国家である。しかしこの【 】国にはアルスター地方は含まれていない。【 】地方は北アイルランドの6州で、プロテスタントが多い地方である。さらにアイルランド自由国は1937年エール共和国に生まれ変わった。【 】年に新しく成立した【 】国は、英連邦内の完全独立国という立場であった。第2次世界大戦後1949年アトリー労働党内閣はアイルランドの完全独立を認めた。【 】党【 】内閣が完全独立を認めた結果、アイルランド共和国が成立した。この【 】国は英連邦から離脱した国家で、1973年にはイギリスとともにECに参加した。
しかし、IRAは未回収である北アイルランドすなわち【 】地方の獲得を目指してテロ活動を行った。この【 】とは「アイルランド共和国軍」のことで、2005年に闘争の終結を宣言した。


ワンフレーズ・チェック
(1)【 】年審査律廃止、翌1629年【 】が制定され、【 】の活躍で宗教上の平等が実現された。
(2)【 】年に【 】飢饉が起こり、アイルランドで大量の餓死者と移民が発生した。
(3)自由党の【 】はアイルランド自治法案を提出したが否決された。
(4)1916年アイルランドで【 】蜂起が起こったが弾圧された。
(5)【 】を指導者とする【 】党はアイルランド自治を要求した。
(6)1922年英連邦内自治領として【 】が成立した。
(7)1937年英連邦内の完全な独立国として【 】が成立した。
(8)1949年労働党【 】内閣の時、【 】が成立し、英連邦からの離脱が認められた。
(9)過激なテロ活動を行う【 】すなわちアイルランド共和国軍は、2005年活動集結を宣言した。

ワークシート(13)古代ローマ史(5)キリスト教と公会議

2012年01月17日 | ワークシート
ワークシート(13)古代ローマ史(5)キリスト教と公会議

ナザレ出身のイエスは大工ヨゼフを父に持ち、ユダヤ王ヘロデの迫害やパリサイ派のユダヤ教徒からの迫害を受けながらキリスト教を始めた。しかし、30年ころユダヤ総督ピラトゥスに処刑された。その後キリスト教はイエスの弟子である12使徒の一人ペテロやイエスを迫害していた【 】派のユダヤ教から改宗したパウロによって、ローマ帝国内に広められた。とくに後者の【 】はローマ市民権を持っていたため、布教に大いに貢献した。しかし、64年皇帝ネロはローマの大火の責任をキリスト教徒に押し付けた。【 】の責任を押し付けられたキリスト教徒は、皇帝【 】によって迫害され、布教活動に貢献していた12使徒の一人の【 】とローマ市民権を持っていた【 】も処刑された。
軍人皇帝時代になると、社会が混乱し人々の不安が広まったため、ローマの神々に代わってキリスト教がローマ帝国に広まった。しかし、この【 】時代を284年に終わらせたディオクレティアヌス帝は、皇帝崇拝を強要したため、一神教のキリスト教徒は大弾圧を受けた。しかし【 】帝による大弾圧を乗り越えてキリスト教はカタコンベという地下礼拝堂で活動し、さらにローマ帝国に広まっていった。
313年ミラノ勅令を出してキリスト教を公認し、325年ニケーア公会議を開いてアタナシウス派を正統なキリスト教とした。ローマ帝国はコンスタンティヌス帝が【 】年の【 】勅令で初めてキリスト教が認めたが、キリスト教の考え方を統一する目的で【 】年に【 】公会議を開催したのである。正統とされた【 】派とは神・イエス・聖霊が一体であるとする考え方で、これを「三位一体説」という。この「【 】説」を否定したアリウス派はイエスを人間と考えた一派である。そのため【 】派は【 】年のニケーア公会議で異端とされ、ローマ帝国の外にいたゲルマン人の間で広がった。このように【 】年にキリスト教は公認されたが、キリスト教を最後に迫害した皇帝はユリアヌス帝であった。そのためこの【 】帝は「背教者」と呼ばれる。392年テオドシウス帝はついにキリスト教以外の宗教を禁止し、キリスト教を国教化した。【 】帝によって【 】年に国教とされたキリスト教は、ローマ帝国が395年に東西に分裂したあとも発展していった。
その後もイエスの捉え方を巡ってキリスト教の中にさまざまな考え方が成立した。431年エフェソス公会議でイエスに神性と人性の両性があると考えたネストリウス派は異端とされた。【 】年に【 】公会議で異端とされた【 】は、やがて東方に伝えられ、中国では景教と呼ばれている。すなわち【 】とはネストリウス派キリスト教の中国名である。さらに451年カルケドン公会議ではイエスを神と考える単性論が異端とされた。【 】年の【 】公会議で異端とされた【 】は、エジプトで広まったコプト派に発展した。





ワンフレーズ・チェック
(1) イエスはユダヤの王【 】や【 】派のユダヤ教徒から迫害され、ユダヤ総督【 】に処刑された。
(2) 12使徒の一人【 】やローマ市民権を持つ【 】によってキリスト教は広められた。
(3) 【 】帝は【 】を口実にキリスト教徒を迫害した。
(4) 【 】帝は【 】を強要して一神教のキリスト教徒に大迫害を行った。
(5) 【 】帝は最後の迫害を行い「背教者」と呼ばれる。
(6) 【 】帝は【 】年【 】勅令でキリスト教を公認した。
(7) 【 】帝は【 】年にキリスト教を国教に定めた。
(8) 【 】年【 】公会議で「三位一体説」を取るアタナシウス派が正統と定められた。
(9) ニケーア公会議で「【 】」説」を否定した【 】派が異端とされた。
(10) 【 】年【 】公会議で異端とされた【 】派は中国にまで伝えられ、中国では【 】と呼ばれる。
(11) 【 】年【 】公会議で異端とされた【 】論はエジプトでコプト派に発展した。
 

ワークシート(12)古代ローマ史(4)軍人皇帝時代~ドミナートゥス制

2012年01月17日 | ワークシート
ワークシート(12)古代ローマ史(4)軍人皇帝時代~ドミナートゥス制

 193年セヴェルス帝が即位した頃からローマ帝国は政治が乱れてきた。この頃から、属州で辺境を守る将軍が兵士に推薦されて皇帝に即位する「軍人皇帝」が登場している。「カラカラ帝の大浴場」で知られるカラカラ帝は、212年「アントニヌス勅令」を出してローマ帝国内にいる全自由民にローマ市民権を与えた。この【 】帝が出した「【 】勅令」でローマ帝国の属州民も無条件でローマ市民になった。
 253年ヴァレリアヌス帝が即位し「軍人皇帝時代」が本格的に始まった。253年に即位した【 】帝は260年ササン朝ペルシアのシャープール1世との戦いで捕虜にされたが、「【 】時代」はローマ帝国が弱体化した時代である。この軍人皇帝時代には253年から284年までの約50年間に26人もの皇帝が即位した。めまぐるしく皇帝が替わったため、253年から【 】年の「【 】時代」には、ローマ皇帝の権威は著しく低下してしまった。
 混乱していたローマ帝国を284年に統一したディオクレティアヌス帝は、都をニコメディアに定め、ドミナートゥス制を開始した。この【 】帝が始めた【 】制とは専制君主制のことで、古代オリエント世界の皇帝のように神として振舞う帝政である。この【 】制に帝政が変化した結果、ローマの伝統的な元老院は事実上廃止された。また、【 】帝は皇帝を神として信仰しないキリスト教徒を迫害した。広すぎる帝国の領土を4人の皇帝で納める「4分統治」を行ったのもディオクレティアヌス帝である。しかし、【 】帝が死去すると残った他の3人の皇帝が争い内乱になった。
この内乱に勝ってローマ帝国を再統一した皇帝がコンスタンティヌス帝である。この【 】帝はディオクレティアヌス帝が取った「【 】統治」を止めてローマ帝国を自ら一人で統治した。また313年ミラノ勅令を出してキリスト教を公認し、つづいて325年ニケーア公会議を開いてアタナシウス派を正統なキリスト教とした。正統とされた【 】派はイエスが神の子であるとする「三位一体説」を主張した。この「【 】説」を否定したアリウス派はイエスを人間と考えた一派である。そのため【 】派は【 】年の【 】公会議で異端とされ、ローマ帝国の外にいたゲルマン人の間に広がった。このように【 】年【 】勅令に公認されたキリスト教を最後に迫害した皇帝がユリアヌス帝である。そのため【 】帝は「背教者」と呼ばれる。
テオドシウス帝は【 】帝によって最後の迫害を受けたキリスト教を392年に国教に定めた。【 】年にキリスト教がローマ帝国の国教になったことでローマの伝統的な神々への信仰は禁止された。キリスト教を国教とした【 】帝は395年に亡くなる直前に二人の兄弟にローマ帝国を分けて相続させた。そのため【 】年にローマ帝国は東西分裂した。




ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】年カラカラ帝は【 】勅令を出して、帝国内全ての自由人にローマ市民権を付与した。
(2) 【 】時代には皇帝がめまぐるしく替わったため、皇帝の権威は著しく低下した。
(3) 【 】帝は【 】年にローマ帝国を統一して軍人皇帝時代を終わらせた。
(4) 【 】帝はドミナートゥス制を行い、【 】教徒に対する大迫害を行った。
(5) 【 】制とは元老院などの共和制時代の制度を廃止した専制君主制である。
(6) 【 】帝は帝国を4つに分ける「【 】」を行い、4人の皇帝で帝国を治めた。
(7) 【 】年【 】勅令でキリスト教を公認した皇帝は【 】帝である。
(8) 【 】年【 】公会議で「【 】説」を説くアタナシウス派が正統とされ、【 】派が追放された。
(9) キリスト教を最後に迫害した【 】帝は「背教者」と呼ばれる。
(10) 【 】年に【 】帝はキリスト教を国教とした。
(11) 【 】年に【 】帝によってローマ帝国は東西に分裂した。


ワークシート(11)古代ローマ史(3)パクス・ロマーナ

2012年01月17日 | ワークシート
ワークシート(11)古代ローマ史(3)パクス・ロマーナ

 前27年オクタヴィアヌスが元首制を開始した。この元首制をプリンキパトゥスという。元首制すなわち【 】は、伝統的な元老院の権限を認めながらも、重要な事項は皇帝が決定していく仕組みをとり、実質的な帝政であった。初代皇帝となった【 】が即位した【 】年から180年までの約200年間はローマ帝国の全盛期であった。この前27年から【 】年までのローマ帝国の全盛期を「パクス・ロマーナ」すなわち「ローマの平和」と呼ぶ。
この「【 】」の時期、ローマ帝国は全盛期であったのでローマの軍事力は強大で、安価な奴隷が大量に入手することができた。その結果、安価に入手した【 】を大量に使用して経営する大農場をラティフンディウムという。この【 】経営はローマが征服した属州に広がり、全盛期のローマ帝国の経済を支えた。
 初代皇帝【 】の後を継いだのはティベリウス帝であった。この【 】帝の名が歴史に残るのは、ユダヤ総督ピラトゥスがイエスを処刑した時代の皇帝だからである。また第4代皇帝ネロは、12使徒の一人であるペテロと、この【 】のように12使徒ではないが、キリスト教をローマ帝国内に広めたパウロを、ローマで処刑した。【 】帝が【 】と【 】を処刑したのは、前64年のローマの大火の責任をキリスト教徒に負わせるためであった。
 96年から180年までの間、5人の優秀な皇帝が登場した。この96年から【 】年までのパクス・ロマーナ後半の時代を五賢帝時代と呼ぶ。最初の五賢帝はネルヴァ帝、2人目はトラヤヌス帝である。ローマ帝国は2人目の【 】帝はダキアを征服して、最大の領域を支配するようになった。トラヤヌス帝が征服した【 】はドナウ川の北側に位置し、現在のルーマニアにあたる。
 3人目のハドリアヌス帝はブリテン島(イギリス)に長城を建設し、北のケルト人の侵入を防いだ。そのためこの長城を皇帝の名前を取って「【 】の長城」という。5人目のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝はストア派哲学者として『自省録』を著す哲人皇帝である。また、この【 】帝の名前は中国の歴史書『後漢書西域伝』の中に「大秦王安敦」として記録されている。その記録によればマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝すなわち「【 】」は、166年に日南郡にまで使者を派遣した。この【 】郡は現在のヴェトナム中部にあった。
 パクス・ロマーナの時代は文化が発展した。とくに歴史学では、初代皇帝【 】の友人リヴィウスが『ローマ建国史』を、2世紀にはタキトゥスが『ゲルマニア』、プルタルコスが『対比列伝』を著した。リヴィウスが著した『【 】』はローマ建国以来の歴史を記録している。また【 】が著した『ゲルマニア』は、カエサルが現した『ガリア戦記』とともに、ゲルマン人の資料として価値が高い。【 】が著した『対比列伝』はギリシアとローマの英雄を比較・批評した書物である。



ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】年~【 】年の約200年間続いたローマ帝国の全盛期を「【 】」という。
(2) 奴隷制大土地農場経営を【 】という。
(3) 【 】帝の時代、イエスはユダヤ総督【 】に処刑された。
(4) 【 】帝は「【 】」を口実にキリスト教徒を迫害し、【 】と【 】をローマで処刑した。
(5) ネロ帝に処刑された【 】は12使徒の一人だが、【 】は12使徒ではない。
(6) 五賢帝時代の【 】帝のとき、【 】を征服してローマ帝国の領土は最大になった。
(7) 北方の【 】人の侵入を防ぐために【 】帝はイギリスに「【 】の長城」を建設した。
(8) 五賢帝最後の皇帝【 】は中国の【 】郡に使者を派遣し「【 】」という名前で記録された。
(9) 【 】は『ローマ建国史』を著した。
(10) ゲルマン人の資料としてカエサルの『【 】』と【 】が著した『ゲルマニア』が重要である。
(11) プルタルコスは『【 】』を著して、ギリシアとローマの英雄を批評した。


ワークシート(10)古代ローマ史(2)混乱の1世紀 ②三頭政治と元首制の成立

2012年01月17日 | ワークシート
ワークシート(10)古代ローマ史(2)混乱の1世紀 ②三頭政治と元首制の成立

 マリウスの兵制改革が行われると、ローマの将軍達は競って軍団を作り、奪い合うように戦争を行った。戦争に赴く将軍の任命は元老院が多数決で行った。このような中、富豪出身の将軍クラッススと名門貴族出身のポンペイウス、平民に人気があったカエサルの三人が協力し合って、常に【 】・【 】・【 】の三人に元老院が戦争を任命するように手を組んだ。これを第1回三頭政治という。この第1回【 】政治は前60年に始まった。三人はそれぞれ戦争を行う地域を分け合った。ガリア地方への戦争を担当したのはカエサルであった。【 】地方とは現在のフランスである。前58年【 】はガリア遠征を行い、現在のフランスからイギリス南部まで征服した。その【 】遠征の様子はカエサル自身が書いた『ガリア戦記』に詳しい。また『【 】』はフランスにいたゲルマン人を理解する上で貴重な歴史的資料でもある。しかし、まもなく富豪出身の【 】はパルティアとの戦争で戦死してしまった。そのため名門出身の【 】は平民が支持する【 】を排除して独裁者になることを目指したが、逆に【 】に敗れた。こうして平民が支持した【 】のみが生き残り、前46年10年任期のディクタトルに就任し、さらに前44年に終身のディクタトルになった独裁者として君臨した。カエサルが就任した【 】という官職の任期は半年であり、独裁官を訳される。しかし44年に【 】のディクタトルに就任し独裁者となったカエサルは、反対派のブルータスによって暗殺された。
 カエサルを暗殺した【 】は、カエサルの部下たちによって殺された。そして前43年カエサルの部下のアントニウス、レピドゥスとカエサルの養子のオクタヴィアヌスの三人が再び三頭政治を始めた。これを第2回【 】政治という。レピドゥスはすぐに失脚したため、エジプトに基盤を置くアントニウスとガリアに基盤を置くオクタヴィアヌスが争い、前31年アクティウムの海戦でエジプト女王クレオパトラと組んだ【 】が破れた。前31年【 】の海戦の翌年エジプト女王【 】も自殺したため、【 】年プトレマイオス朝エジプトは滅亡した。この【 】朝エジプトは最後のヘレニズム国家であり、【 】朝エジプトの滅亡とともにヘレニズム時代も終わった。
 【 】年のアクティウムの海戦で【 】を破った【 】は、前27年元首制を開始した。この【 】制とは、元老院などの共和制時代の制度を残したまま、皇帝が「第1の市民」すなわち「プリンケプス」と自称して政治を行うもので、「プリンキパトゥス」という。すなわち元首制を「【 】」ともいう。一方、元老院は「【 】」を始めたオクタヴィアヌスに対し、「尊厳なる者」という意味の「アウグストゥス」という称号を贈った。つまり元老院から【 】という称号を贈られたオクタヴィアヌスが【 】年【 】を始めた結果、ローマの共和制は終焉し、ローマは帝政が始まった。




ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】年に第1回三頭政治が、【 】年に第2回三頭政治が始まった。
(2) 第1回三頭政治は【 】・【 】・【 】の3人が行った。
(3) 第2回三頭政治は【 】・【 】・【 】の3人が行った。
(4) カエサルは【 】年から【 】遠征を行い、『【 】』を著してゲルマン人を記録した。
(5) カエサルは【 】年10年任期のディクタトルに、【 】年終身のディクタトルとなった。
(6) 独裁を嫌った【 】はカエサルを暗殺した。
(7) 前31年の【 】の海戦で【 】を破ったオクタヴィアヌスは【 】年元首制を始めた。
(8) 【 】年女王クレオパトラの自殺によって【 】朝エジプトは滅亡した。
(9) プトレマイオス朝エジプトの滅亡によって【 】時代が終焉した。
(10) オクタヴィアヌスは「第一の市民」と自称して、元首制すなわち【 】を開始した。
(11) 【 】はオクタヴィアヌスに対し「尊厳なる者」すなわち【 】という称号を贈った。


ワークシート(10)古代ローマ史(2)混乱の1世紀 ①マリウスの兵制改革

2012年01月17日 | ワークシート
ワークシート(10)古代ローマ史(2)混乱の1世紀 ①マリウスの兵制改革

 ポエニ戦争でイタリア半島外に属州を獲得すると、元老院が貴族たちに征服した農地(占有地)を分配し、貴族たちが大規模な農場経営を行った。この大規模な農場では多くの奴隷が働いた。このように【 】たちが経営した奴隷制大規模農場をラティフンディウムという。この【 】はポエニ戦争の時期から、イタリア半島外の【 】で広まった。多くの【 】という安い労働力で作られたため、【 】で生産された農作物は非常に安価であった。ローマは戦争の捕虜を奴隷にしていた。ローマ軍団は小規模経営の自作農が兵士であったから、ラティフンディウムが拡大して安価な農作物がローマに流入すると、小規模経営の【 】は生活に困窮していった。その結果、ローマ軍団が弱体化した。
 前133年グラックス兄弟はローマ軍団を再建する目的で、リキニウス法の復活を目指した。【 】法は貴族が持つ占有地を制限する内容であったが、当時は守られていなかった。【 】兄弟は貴族によって暗殺され、【 】兄弟の改革は失敗に終わった。この結果、小規模自作農が兵士となる昔ながらのローマ軍団の再建は失敗し、平民の中には無産市民に没落する者も多かった。
 しかし、奴隷制大規模農場すなわち【 】を経営していくためには、ローマが征服戦争を続ける必要があった。そのため将軍マリウスは私兵を雇い、自分が雇った【 】を使って戦争捕虜を獲得して大きな利益を上げた。前100年頃に行われたマリウスの兵制改革の結果、没落した平民である【 】は私兵として将軍達に雇われ、元老院で指名された多くの将軍達が競って戦争を行うようになった。例えば、最初に兵制改革を行った将軍【 】はユグルタ戦争でヌミディア王ユグルタを破った。またマリウスの部下であった将軍スラは前91年から始まった同盟市戦争を解決した。この【 】戦争はイタリア半島にあった同盟市がローマに反乱を起こしたものだが、将軍【 】はローマ市民権をイタリア半島内の全自由民に与えることで、【 】戦争を解決した。その後、将軍【 】は元老院の支持を受けて独裁を行おうとしたが失敗した。スラの独裁とは、元老院を支配して戦争を独占するものであった。














ワンフレーズ・チェック
(1) ローマは戦争で得た捕虜を【 】にした。
(2) ポエニ戦争の頃、半島外の征服地である【 】で、奴隷制大規模農場経営である【 】が拡大した。
(3) 【 】年グラックス兄弟は【 】方を復活させて自作農の保護を目指したが暗殺された。
(4) 前100年頃、【 】の【 】改革が行われ、私兵を用いて戦争を行うようになった。
(5) マリウスの部下【 】は、ローマ市民権を半島内の自由民に与え、【 】戦争を解決した。

ワークシート(9)古代ローマ史(1)共和制時代 ② ポエニ戦争

2012年01月17日 | ワークシート
ワークシート(9)古代ローマ史(1)共和制時代 ② ポエニ戦争

 ローマでは貴族をパトリキ、平民をプレブスという。前287年のホルテンシウス法で貴族すなわち【 】と、平民すなわち【 】の地位は名目上対等になった。このように【 】法が【 】年に成立するまで身分闘争が続いたということは、平行して平民すなわち【 】たちが参加する戦争が続いていたことを意味する。事実、ローマは前272年ギリシア人の植民市タレンツゥムを征服し、約100年間かけてイタリア半島を統一した。【 】年にイタリア半島を統一したローマは、イタリア半島の各都市に対して同盟市関係を結んで、これらの都市を支配した。この【 】関係とは、各都市に政治的自治を認める一方、兵士を提供することを義務づけた、いわゆるローマを中心とする軍事同盟であった。
 シチリア島が政治的に混乱すると、ローマとカルタゴは互いにそれぞれが支援する勢力を守るために軍隊を【 】島に派遣し、ローマとカルタゴは全面戦争に発展した。カルタゴは北アフリカに位置する現在のチュニジアにあり、フェニキア人が建設した植民市である。この【 】が【 】人によって建設されたのは前9世紀で、前5世紀から西地中海の貿易によって急速に発展した。カルタゴの【 】人のことをローマではポエニと呼んだので、この戦争をポエニ戦争という。【 】島を舞台とした【 】戦争は前264年に始まった。これを第1次ポエニ戦争という。【 】戦争でローマが勝利し、ローマはシチリア島を獲得した。この結果、【 】島がローマ最初の属州となった。属州となった征服地にはローマから総督が派遣され、その【 】が統治を行った。このようにローマは、イタリア半島外の征服地を【 】とし、イタリア半島内を統治する【 】関係とは区別される。
敗戦国となった【 】であったが、カルタゴの将軍ハンニバルはスペインからイタリア半島に攻め込んだ。これが第2次ポエニ戦争である。カルタゴの将軍【 】は前216年カンネエの戦いでローマ軍を破ったが、カルタゴ本国に攻め込んだローマの将軍スピキオに前202年ザマの戦いで破れた。前216年カルタゴの将軍【 】が勝利した【 】の戦いはイタリア半島で、前202年ローマの将軍【 】が勝利した【 】の戦いは北アフリカで行われた。
第2回ポエニ戦争で敗れた【 】はローマによって弱体化され、前146年の第3回ポエニ戦争でついにローマに征服された。このようにローマとカルタゴの間で行われた【 】戦争は、【 】年から【 】年まで3回行われ、この【 】戦争の結果、ローマは地中海全域を支配する国家に発展をとげた。










ワンフレーズ・チェック
(1) ローマの貴族を【 】といい、平民を【 】とよぶ。
(2) ローマはイタリア半島内の統治は【 】関係で行い、半島外には【 】をおいて統治した。
(3) ローマと【 】との間で行われたポエニ戦争は、【 】年から【 】年まで続いた。
(4) ローマは第1回ポエニ戦争で、最初の属州となった【 】島を獲得した。
(5) 第2回ポエニ戦争をカルタゴの将軍【 】の名前をとってハンニバル戦争という。
(6) 第2回ポエニ戦争でカルタゴは、【 】の戦いに勝ったが、【 】年【 】の戦いで敗れた。


ワークシート(9)古代ローマ史(1)共和制時代 ①

2012年01月17日 | ワークシート
ワークシート(9)古代ローマ史(1)共和制時代 ①

 後に大帝国に発展するローマの歴史は前8世紀に始まった。【 】世紀に建国したローマは、はじめエトルリア人の王が支配していたが、前509年に【 】人の王を追放して貴族政治を開始した。【 】年に始まった【 】政治では、二人のコンスルを置いて、【 】人の王が持っていた権限を分け合い、独裁を防ぎながら貴族が政治を行った。このコンスルの任期は1年間であった。また、王の権限を【 】の二人で分け合うことで独裁を防ごうとしたローマは、その一方で、非常事態の時にはこの【 】の二人のうちの一人が任期半年のディクタトルに就任することを定めている。この【 】は独裁官と訳される。また、ローマでは貴族をパトリキという。【 】政治の時代は二人の【 】は二人とも貴族である【 】が就任していた。これに加え政治や軍事など物事の全ての決定は貴族である【 】が参加する元老院で行われていた。
 しかし貴族政治に反発する平民は、前494聖山事件をきっかけに護民官を設置することと、平民会を認めさせた。ローマでは平民をプレブスというが、護民官の仕事は、平民すなわち【 】を守ることである。すなわち、平民を守る【 】には元老院が決めたことを覆す権限が与えられていたのである。
 前451年ローマ最古の成文法である「12表法」が制定されると、貴族すなわち【 】に対する平民すなわち【 】の要求は一層激しくなった。これを「身分闘争」という。前367年護民官のリキニウスとセクスティウスの二人は、二人のコンスルのうち一人を平民から選ぶことを決めた。これを護民官二人の名前を取って「【 】・【 】法」という。【 】年に制定された「【 】・【 】法」は、【 】の一人を平民にすること以外にも、征服によってローマが獲得した土地を分配する際に、最大で500ユゲラにすることも定めた。この【 】ユゲラとは125haの土地の広さである。さらに前287年にはホルテンシウス法が制定された。この【 】法によって、パトリキの議会である【 】と、プレブスの議会である【 】どちらの決定にも全市民が従うことが定められた。【 】年に制定された【 】法の名称は、独裁官ホルテンシウスの名から付けられた。
 このようにローマの身分闘争は【 】法で完成したが、この間、ローマはイタリア半島を統一する征服活動を行っており、このイタリア半島統一戦争に平民である【 】が参加した結果、彼らが政治的発言力を強めていった結果、ローマの身分闘争が進展したと考えられる。前4世紀に北のエトルリア人を滅ぼし、中部イタリアのサムニウム人を征服した。さらに前272年に南イタリアのギリシア人植民市タレンツゥムを征服した。南伊の【 】を征服した【 】年にローマは半島統一戦争を終え、イタリア半島を統一した。ローマの【 】とイタリア【 】戦争はほぼ同時期の出来事であった。







ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】世紀に成立した頃のローマには、【 】人の王が王政を行っていた。
(2) 【 】年貴族政治が始まり、王に代わって任期【 】間の二人の【 】が置かれた。
(3) 貴族を【 】、平民を【 】と呼び、貴族の議会を【 】、平民の議会を【 】という。
(4) 【 】年の【 】事件で平民を保護するために【 】が置かれた。
(5) 【 】年の「12表法」でローマの身分闘争が進展した。
(6) 【 】年の「【 】・【 】法」でコンスルの一人を平民から選出するようになった。
(7) 「【 】・【 】法」で征服地の占有を【 】ユゲラ以下に制限した。
(8) 【 】年の【 】法で、身分闘争が終了した。
(9) 【 】年にギリシア人植民市【 】を征服して、ローマはイタリア半島を統一した。

ワークシート(8) 古代ギリシア史(4)ヘレニズム時代

2012年01月16日 | ワークシート
ワークシート(8) 古代ギリシア史(4)ヘレニズム時代

 マケドニア王国の王フィリッポス2世は前338年、カイロネイアの戦いで勝利し、ギリシア世界を支配した。その結果、【 】の戦いの勝利後、ギリシア世界の各ポリスは、【 】王国の下にヘラス同盟を結び、その支配下に入ったのである。この【 】同盟は別名コリント同盟ともいう。ギリシア世界を支配したマケドニア王【 】の子が有名なアレクサンドロス大王である。
 アレクサンドル大王は前334年から東方オリエント世界の大帝国であるアケメネス朝ペルシアに対する遠征を開始した。この東方遠征はギリシア人が【 】大王に率いられて行われた。まず前333年イッソスの戦いで【 】朝ペルシア帝国の王ダレイオス3世を破ると、エジプトを征服し、前331年アケメネス朝ペルシア帝国の王【 】との決戦であったアルベラの戦いに勝利した。そして前331年【 】の戦いの翌年の【 】年に、アケメネス朝ペルシア最後の王となった【 】の死によって、220年間続いた大帝国【 】朝ペルシアは滅亡した。【 】大王はさらにインドのインダス川流域まで遠征を継続し、【 】川流域を下って海岸沿いを帰還し、アケメネス朝ペルシアの都であったスサに前324年戻った。しかし、旧都【 】に戻った翌年、【 】大王はバビロンでマラリアにかかって急死した。
【 】で急死したアレクサンドロス大王は、各地にギリシア人の町であるアレクサンドリアを建設した。そのうち現在でも残っているのがエジプトにあるアレクサンドリアである。このエジプトの【 】はその後、数百年間にわたって文化・経済の中心都市として栄えた。
 アレクサンドロス大王が急死すると、ディアドゴイ戦争が始まった。この【 】戦争とは【 】大王の後継者を争う戦争で、その最大の戦いがイプソスの戦いである。【 】戦争の結果、アレクサンドロスが作った広大な帝国は、アンティゴノス朝マケドニア・セレウコス朝シリア・プトレマイオス朝エジプトの3つに分裂したが、これら【 】朝マケドニア・【 】朝シリア・【 】朝エジプトの支配者はアレクサンドロス大王に率いられたギリシア人であり、公用語も彼ら【 】人の言葉であるコイネーが用いられていた。
 ドイツの歴史家ドロイゼンは、アケメネス朝ペルシアが滅亡した【 】年から【 】朝エジプトが滅亡する前30年までの約【 】年間を「ヘレニズム時代」と定義した。これはギリシア人を意味する「ヘレネス」に「イズム(主義)」をつけて作られた造語である。【 】時代はギリシア風の都市で、ギリシア文化やギリシア人の生活様式が定着していた時代である。先に述べたエジプトの都市【 】がこの【 】時代の中心都市であった。また、これらのギリシア文化が周辺の民族に伝わった影響は大きい。とくに中央アジアのバクトリア王国の【 】文化の影響を受けた西北インドでは、ギリシア風の文化が成立した。これをガンダーラ美術という。【 】インドで成立したこの【 】美術の特徴は仏像が始めて作られたことである。【 】美術に見られる仏像はギリシア人の顔立ちをしている。
この時代、それまでポリスに活動の場所を限定していたギリシア人たちの意識も大きく変化しており、この時代のギリシア人の意識を「コスモポリタニズム」という。この「【 】」とは「世界市民主義」と訳される。しかし、ヘレニズム諸国はやがてローマによって滅ぼされていった。【 】朝マケドニアは前146年に、【 】朝シリアは前64年に、そして【 】朝エジプトは【 】年に滅亡した。




ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】大王は前333年【 】の戦い、前331年【 】の戦いに勝ち、【 】朝ペルシアを滅ぼした。
(2) アレクサンドロス大王が急死すると後継者により【 】戦争が起こり、帝国は分裂した。
(3) 【 】時代は前330年から前30年までの約【 】年間である。
(4) ヘレニズム時代は【 】朝マケドニア・【 】朝シリア・【 】朝エジプトなどが成立した。
(5) 中央アジアで成立した【 】王国からギリシア文化が西北インドに伝わり【 】美術が起こった。
(6) 【 】は多くのヘレニズム諸国を滅ぼして、その文化を継承した。

ワークシート(7) 古代ギリシア史(3)前5世紀~前4世紀

2012年01月16日 | ワークシート
ワークシート(7) 古代ギリシア史(3)前5世紀~前4世紀

 アテネの全市民は前480年のサラミスの海戦で戦った。無産市民と呼ばれる貧しい市民も船の漕ぎ手として【 】の海戦で活躍した。ペルシア戦争はアテネ市民の団結心を強め、市民団に一体感をもたらした。その結果、【 】戦争が終結するとアテネで市民全員が一体となって物事を決定することを求める気分が盛り上がったのも、当然の結果といえる。民主政治を推し進めようとする指導者ペリクレスが登場すると、この指導者【 】の指導の下、民会が最高議決機関となり、将軍職の除く全ての官職が全市民に開放された。全市民の中には【 】の海戦で船の【 】として活躍した貧しい市民である【 】も含まれる。また、【 】職を除く全ての官職は、全市民に対する抽選で選ばれた。選挙や試験ではなく、【 】で官職が選ばれるほど、アテネの民主政治における市民団の平等は徹底したものになった。こうして、【 】戦争後のアテネでは【 】の指導の下、直接民主制が完成した。また、アテネの民主化を完成させた指導者【 】は、ペルシア戦争で破壊されたパルテノン神殿を再建したが、この【 】神殿の再建費用にはデロス同盟の資金を流用したため、【 】同盟に参加していたポリスからも反感を買っていった。
 アテネで民主政治が完成したころ、文字を読めない市民も楽しめる演劇が流行した。3大悲劇作家とされるアイスキュロス・ソフォクレス・エウリピデスが登場し、多くの作品を残した。【 】・【 】・【 】の3人の悲劇作家に対して、アリストファネスは社会を風刺する喜劇を上映している。喜劇作家【 】の代表作は『女の議会』などである。
 前431年アテネを中心とするデロス同盟に対し、これに反発するスパルタを中心とするペロポネソス同盟が戦争を仕掛けた。この【 】年に始まった【 】同盟対【 】同盟の戦争をペロポネソス戦争という。約30年間続いた【 】戦争はスパルタの勝利で終わった。この約【 】年間も続いたペロポネソス戦争の結果、アテネは急速に低迷していった。さらにペロポネソス戦争に勝利した【 】を破ったポリスが、エパミノンダスに率いられたテーベであった。この【 】はエパミノンダスの指導でレイクトラの戦いに勝利することができた。しかしそのテーベも【 】の戦いの指導者【 】が亡くなると低迷し、ギリシア世界はふたたび混乱していった。
こうして、前431年に始まった【 】戦争の後、ギリシア世界は約100年間も断続的に戦争が続いた。その結果、北方にあってギリシア人たちからバルバロイと呼んで蔑まれていたマケドニア王国のフィリッポス2世がギリシア世界の混乱に乗じて侵入すると、前338年カイロネイアの戦いで【 】王国の【 】がギリシア・ポリス連合軍を破り、ギリシア世界を征服した。ギリシア世界を征服した【 】は各ポリスとヘラス同盟を結び、その【 】同盟の指導者として君臨した。こうして、ギリシアの各ポリスは、【 】の戦いに敗北したことで、【 】と呼んで蔑視していた【 】王国によって独立を失ったのである。







ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】は【 】戦争の後に登場し、アテネの民主化を完成させた。
(2) アテネの政治の最高議決機関は【 】で、多くの官職は市民による【 】で選出された。
(3) アテネで民主政治が完成した頃、3大悲劇作家【 】・【 】・【 】や喜劇作家【 】が登場した。
(4) 【 】戦争の結果アテネは低迷し、代わってスパルタが覇権を握った。
(5) コリントの指導者【 】は【 】の戦いでスパルタを破ったが、まもなく低迷した。
(6) 【 】とはギリシア人による周辺民族に対する蔑称である。
(7) 【 】王国の【 】は前338年に【 】の戦いで勝利し、ギリシア・ポリス世界を征服した。

ワークシート(6)② 古代ギリシア史(2)民主化の世紀 ペルシア戦争

2012年01月16日 | ワークシート
ワークシート(6)② 古代ギリシア史(2)民主化の世紀 ペルシア戦争

 アテネでは前508年のクレイステネスの改革で民主化が完成した。この【 】の改革の結果、貴族との血縁関係による重装歩兵軍団の編成から、10に分かれた地域毎に【 】軍団を編成するようになった。アテネ市民の防衛に対する意識は非常に高まっていた。その一方、ギリシア人植民市が建設されていた小アジアのイオニア地方は、オリエント世界の大帝国であるアケメネス朝ペルシアの支配を受けていた。
 前500年ギリシア人植民市がある【 】地方で、【 】朝ペルシアの支配に対してギリシア人が反乱を起こした。この【 】年の反乱を応援するためにアテネが軍団を派遣したことが、【 】朝ペルシアの大王ダレイオス1世によるギリシア遠征のきっかけとなった。こうしてアケメネス朝ペルシアの大王【 】とアテネを中心とするギリシア世界との戦争であるペルシア戦争の第1回目が始まった。しかし、ダレイオス1世は決定的な勝利を収めることができなかった。
 第2回ペルシア戦争でもっとも重要な戦いがマラトンの戦いである。この【 】の戦いは前490年に大王【 】の陸軍とアテネの重装歩兵軍団の間で戦われ、アテネの勝利で終わった。【 】朝ペルシアの大王ダレイオス1世はこの戦い後、まもなく死亡した。
 第3回【 】戦争はダレイオス1世の子クセルクセス1世によって行われた。王【 】自らが軍団を率いて遠征を行ったのである。ギリシア側はアテネとスパルタが協力してこれに対応したが、前480年テルモピレーの戦いでスパルタ軍が敗北し、ギリシア側の防衛線は破られた。スパルタ王レオニダスもこの【 】の戦いで戦死している。アテネに迫った【 】朝ペルシア軍に対し、アテネの将軍テミストクレスは全ての市民を率いて軍船に乗り込み、前480年サラミスの海戦でペルシア軍を撃破することに成功した。アテネの【 】が立てた作戦が成功した結果、アテネは【 】の海戦で勝利を収めることができたのである。この【 】の海戦にはアテネの無産市民も船の漕ぎ手として活躍したため、ペルシア戦争後に【 】も政治に参加することを認められた。さらにアケメネス朝ペルシア陸軍は前479年プラタイアの戦いでアテネ・スパルタ連合軍に破れ、撤退を余儀なくされた。こうして、前479年の【 】の戦いの結果、アケメネス朝ペルシア王【 】が行った第3回ペルシア戦争は終わり、ギリシア世界の独立が守られた。
 3度に及ぶ【 】戦争でギリシア世界が勝利を収めた最大の功労者はアテネであったので、ペルシア戦争後のアテネは、他のポリスに対して発言力を強めるようになった。とくにアケメネス朝【 】が再び攻撃してくることに備えるために組織された軍事同盟であるデロス同盟は、功労者【 】が他のポリスから兵士や軍資金を徴収する権利を得たばかりか、【 】同盟の金庫をアテネに置くなどしたため、スパルタなど他のポリスが反感を持つようになった。





ワンフレーズ・チェック
(1) 第1回・第2回ペルシア戦争はアケメネス朝ペルシアの大王【 】によって行われた。
(2) 第3回ペルシア戦争はアケメネスア朝ペルシアの王【 】によって行われた。
(3) 第1回ペルシア戦争の原因は【 】地方のギリシア人植民市の反乱である。
(4) 【 】年の【 】の戦いは、第2回ペルシア戦争の決戦で、アテネが勝利を収めた。
(5) 第3回ペルシア戦争の決戦は【 】の戦い・【 】の海戦・【 】の戦いである。
(6) 【 】年の【 】の戦いでスパルタ王【 】も戦死するなど、スパルタ軍は全滅した。
(7) サラミスの海戦で【 】として戦争に参加した【 】達は、その功績で政治参加が認められた。
(8) 【 】年の【 】の戦いがペルシア戦争最後の決戦で、ギリシア側の勝利で終わった。
(9) ペルシア戦争後アテネは【 】同盟を結成したが、他のポリスの反感を買うようになった。

ワークシート(6)① 古代ギリシア史(2)民主化の世紀

2012年01月16日 | ワークシート
ワークシート(6)① 古代ギリシア史(2)民主化の世紀

 前7世紀末に「立法者」と評価されるドラコンは、それまで貴族だけが法律を独占していたことを改めて、法律を文章で書き示し、平民にも公開した。文章で書き示された法律を成文法という。アテネで最初の成文法は【 】によって作られた。
 前6世紀を「民主化の世紀」という。アテネの平民の地位が向上したのが前【 】世紀であったためである。まず、前594年ソロンが政治の改革を行った。ソロンはポリスの決め事(政治や軍事)に参加できるのは家柄の良い貴族だけだったのを改め、その人の持っている財産の量によって参加の資格を決めることにした。このように【 】が行った政治改革を「財産政治」という。【 】政治によって貴族が独占していた政治は豊かな平民にも開かれた。またソロンは「調停者」呼ばれる。【 】が調停者と呼ばれる理由は、貴族や平民の間にあったさまざまな問題を調停したからである。
ソロンの改革の2点目は、「重荷おろし」という改革であった。この「【 】」とは、借金がたまって返済ができなくなっていた貧しい平民を救済するという内容である。その頃、借金が返済できない平民は債務奴隷にされていた。【 】が行った「重荷おろし」は【 】となった平民の借金をなくすことで、平民が奴隷に没落するのを防止することを目的とし、自分の身体を代償に借金をすることそのものを禁止した。
 しかし、アテネの政治は【 】年のソロンの改革で安定したわけではなく、貴族や台頭した平民の権力闘争が起こり、僭主と呼ばれる独裁者が登場した。この【 】を代表する独裁者がペイシストラトスであった。前530年に【 】は平民の不満を利用して独裁権を確立した。【 】による独裁は平民の発言力を高めたので、結果的にアテネの民主化を進めた。しかし、息子のヒッピアスは独裁に失敗して追放されてしまった。
 前508年に登場したクレイステネスは独裁者である【 】の出現を防ぐために、オストラシズムという制度を始めた。陶片追放とも呼ばれるこの【 】という制度は、市民の投票で行われ、6000人以上の市民に僭主になると認定された人物をアテネから追放するというものである。
このほかに、【 】という制度を実施したクレイステネスの政策にはもう一つ重要な内容がある。それは10部族制の実施であった。【 】が行った【 】制の実施によって、それまで貴族を中心に行われていた政治は一変し、アテネは10の区に分けられ、その地域毎の代表選ばれて政治を行うことになった。こうして【 】年に【 】が政治改革を実施した結果、貴族政治は完全に終わりを告げ、アテネの民主化が大きく進展した。










ワンフレーズ・チェック
(1) アテネで初めて成文法を制定した【 】は「立法者」と呼ばれる。
(2) 前【 】年に行われたソロンの改革は「【 】政治」と債務奴隷を禁止する「【 】」であった。
(3) 【 】など、前6世紀のアテネに登場した独裁者を【 】と呼ぶ。
(4) 前【 】年に登場したクレイステネスは、僭主出現防止の制度【 】と、【 】制であった。
(5) 前6世紀にアテネの民主化に貢献したのは、【 】・【 】・【 】の三人の政治家である。

ワークシート(5)② 古代ギリシア史・エーゲ文明

2012年01月16日 | ワークシート
ワークシート(5)② 古代ギリシア史・エーゲ文明

 前12世紀になぞの「海の民」の侵入や、同じ前【 】世紀に第2波ギリシア人の南下による混乱で、ギリシア本土は「暗黒時代」という混乱の時代になった。この混乱した「【 】時代」は前12世紀から前8世紀まで続いた。この「【 】時代」という混乱期が終わったのは、前8世紀に人々が名門の一族(貴族)とともに「集住」して混乱に立ち向かったからである。前8世紀の「【 】」という出来事を、別にシュノイキスモスという。すなわち、シュノイキスモスは前【 】世紀の出来事である。この「集住」すなわち【 】によってギリシア人たちはポリスを作った。
 前【 】世紀に作られたポリスは、小高い丘の上に城砦であるアクロポリスを作り、ポリスの防衛の中心とした。ポリスとはこの【 】を中心に作られた都市国家である。ポリスの中心にある【 】のふもとには広場があり、そこでは市場や人々の集会がひらかれた。この広場をアゴラと呼んだ。したがって、この【 】はポリスで行われた人々のさまざまな活動の場所であった。しかし、ポリスの政治を決めるのは名門の一族である貴族に限られていた。
 前7世紀になると、ポリスを守る戦いの方法が大きく変わっていった。初めは貴族が戦いの主役であったが、集団で隊列を組んで戦う方法、すなわち重装歩兵軍団(ファランクス)の登場である。重装歩兵軍団すなわち【 】に参加する兵士は、平民とよばれる一般の人々であった。このように前【 】世紀になるとポリスの防衛の主役が、名門の一族である【 】から一般の人々である【 】に変化した。この変化の背景には、前7世紀にギリシア世界が経済的に繁栄を始めたことが考えられている。豊かになった【 】たちが、自ら武器を買ってポリスの防衛に参加するようになったので、平民たちの意識にも変化が起こり始めた。









ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】時代という混乱の時代は前12世紀から前【 】世紀まで続いた。
(2) ポリスは前【 】世紀に集住によって作られた。この出来事を【 】という。
(3) ポリスの中心は【 】があり、その丘のふもとには【 】とよばれる広場があった。
(4) 前【 】世紀になると平民が自ら武器を持って集団で戦う、【 】が戦いの中心になった。