97京都大 東欧史(スラブ民族史)
選択(A)次の文章(a~c)を読み、下線部(1)~(9)についての後の間に答えよ。
(a)4世紀後半からヨーロッパでは諸民族の移動が相次いだ。まず、中央アジアの遊牧騎馬民族フン族の西進に刺激されて、(1)ゲルマン民族がヨーロッパ西部から商部にかけて大規模な移動を開始した。ついで6・7世紀には、カルパチア山脈北部からドニエプル川上・中流域にかけて住んでいたスラヴ人が各地に移動し始め、やがて(2)南スラヴ族、東スラヴ族、西スラヴ族に分化した。9世紀頃からは、スカンディナヴィア半島を原住地とするノルマン人が南方に移動を開始した。その一部はバルト海東部から南下し、(3)ドニエプル川流域まで進出して、スラヴ人と接触した。
(b)キリスト教会は325年のニケーア公会議で三位一体説を正続とし、教義の統一を図った。しかし、(4)8世紀前半、東ローマ皇帝レオン3世の布告を契機として、東方教会とローマ教会とのあいだに論争が生じた。その後、両者の対立は深まり、11世紀までに両教会は分離し、西方のローマ・カトリック教会に対し、東方にはギリシア正教会が成立した。この間、両教会はそれぞれ東欧地域への布教を進めた。その結果(5)東スラヴ族は東方教会を通じてキリスト教を受け入れたのに対し、(6)西スラヴ族はローマ・カトリック教会の影響下でキリスト教化した。
(c)19世紀のヨーロッパにおける民族主義の高揚は、各西スラヴ人のあいだにも民族意識の覚醒をもたらした。(7)18世紀末に独立を失ったポーランド人、ハプスブルク帝国支配下のチェコ人・スロヴァキア人、オスマン帝国下のバルカンの諸民族は、それぞれ民族自立を求める運動を組織し始めた。他方で、スラヴ人のあいだでの同胞意識も生まれ、(8)年にはプラハで初のスラヴ人会議が開かれた。このスラヴ人の連携の主張は、(9)19世紀後半にはロシア指導下でのスラヴ諸民族の統一を唱えるパン・スラヴ主義に発展するが、他方でポーランド人などにはロシアの専制的支配への反発も強く、全スラヴ人の連帯は現実には困難であった。
問(1)紀元後1世紀に、この民族の初期の社会について記述したローマの歴史家は誰か。
問(2)次のなかで、南スラヴ族に属する人びとを選び記号で答えよ。
aスロヴァキア人 bマジャール人 cポーランド人 dクロアディア人 eリトアニア人
問(3)・ドニエプル川の流域に9世紀に建国された国の名を記せ。
・・の国は、13世紀にモンゴル軍により滅ぼされ、この地域はサライを首都とするモンゴル人の国家の支配下におかれた。この国の名を記せ。
問(4)この布告とは何か。
問(5)ギリシア正教を受け入れた東スラヴ族のロシア人の支配者は、のちにビザンツ皇帝の後継者としてツァーリという称号を用いるようになる。15世紀後半にモンゴル人の支配から自立して東北ロシアを統一し、最初にこの称号を用いた君主は誰か。
問(6)このうち、ボヘミアでは14世紀末から15世紀初頭にかけてチェコ人の教会改革運動が起こる。この運動の指導者の名を記せ。
問(7)1793年に2回目のポーランド分割を行なった国を挙げよ。
問(8)同じ頃、ハンガリーでも民族運動が高揚した。この民族運動を指導し、1849年にオーストリアからのハンガリーの独立を宣言した政治家は誰か。
問(9)この主張は、ロシアのバルカン進出を正当化するために利用された。1878年にオスマン帝国より独立し、ロシアを中心とするパン・スラヴ主義の先頭に立ってオーストリアとの対立を深め、第一次世界大戦勃発のきっかけをつくったスラヴ系の国の名を記せ。
(A。スラヴ民族史)
(1)タキトゥス(2)d(3)・キエフ公国・キプチャクーハン国(4)聖像禁止令(5)イヴァン3世(6)フス(7)プロイセン・ロシア(8)コッシュート(9)セルビア
選択(A)次の文章(a~c)を読み、下線部(1)~(9)についての後の間に答えよ。
(a)4世紀後半からヨーロッパでは諸民族の移動が相次いだ。まず、中央アジアの遊牧騎馬民族フン族の西進に刺激されて、(1)ゲルマン民族がヨーロッパ西部から商部にかけて大規模な移動を開始した。ついで6・7世紀には、カルパチア山脈北部からドニエプル川上・中流域にかけて住んでいたスラヴ人が各地に移動し始め、やがて(2)南スラヴ族、東スラヴ族、西スラヴ族に分化した。9世紀頃からは、スカンディナヴィア半島を原住地とするノルマン人が南方に移動を開始した。その一部はバルト海東部から南下し、(3)ドニエプル川流域まで進出して、スラヴ人と接触した。
(b)キリスト教会は325年のニケーア公会議で三位一体説を正続とし、教義の統一を図った。しかし、(4)8世紀前半、東ローマ皇帝レオン3世の布告を契機として、東方教会とローマ教会とのあいだに論争が生じた。その後、両者の対立は深まり、11世紀までに両教会は分離し、西方のローマ・カトリック教会に対し、東方にはギリシア正教会が成立した。この間、両教会はそれぞれ東欧地域への布教を進めた。その結果(5)東スラヴ族は東方教会を通じてキリスト教を受け入れたのに対し、(6)西スラヴ族はローマ・カトリック教会の影響下でキリスト教化した。
(c)19世紀のヨーロッパにおける民族主義の高揚は、各西スラヴ人のあいだにも民族意識の覚醒をもたらした。(7)18世紀末に独立を失ったポーランド人、ハプスブルク帝国支配下のチェコ人・スロヴァキア人、オスマン帝国下のバルカンの諸民族は、それぞれ民族自立を求める運動を組織し始めた。他方で、スラヴ人のあいだでの同胞意識も生まれ、(8)年にはプラハで初のスラヴ人会議が開かれた。このスラヴ人の連携の主張は、(9)19世紀後半にはロシア指導下でのスラヴ諸民族の統一を唱えるパン・スラヴ主義に発展するが、他方でポーランド人などにはロシアの専制的支配への反発も強く、全スラヴ人の連帯は現実には困難であった。
問(1)紀元後1世紀に、この民族の初期の社会について記述したローマの歴史家は誰か。
問(2)次のなかで、南スラヴ族に属する人びとを選び記号で答えよ。
aスロヴァキア人 bマジャール人 cポーランド人 dクロアディア人 eリトアニア人
問(3)・ドニエプル川の流域に9世紀に建国された国の名を記せ。
・・の国は、13世紀にモンゴル軍により滅ぼされ、この地域はサライを首都とするモンゴル人の国家の支配下におかれた。この国の名を記せ。
問(4)この布告とは何か。
問(5)ギリシア正教を受け入れた東スラヴ族のロシア人の支配者は、のちにビザンツ皇帝の後継者としてツァーリという称号を用いるようになる。15世紀後半にモンゴル人の支配から自立して東北ロシアを統一し、最初にこの称号を用いた君主は誰か。
問(6)このうち、ボヘミアでは14世紀末から15世紀初頭にかけてチェコ人の教会改革運動が起こる。この運動の指導者の名を記せ。
問(7)1793年に2回目のポーランド分割を行なった国を挙げよ。
問(8)同じ頃、ハンガリーでも民族運動が高揚した。この民族運動を指導し、1849年にオーストリアからのハンガリーの独立を宣言した政治家は誰か。
問(9)この主張は、ロシアのバルカン進出を正当化するために利用された。1878年にオスマン帝国より独立し、ロシアを中心とするパン・スラヴ主義の先頭に立ってオーストリアとの対立を深め、第一次世界大戦勃発のきっかけをつくったスラヴ系の国の名を記せ。
(A。スラヴ民族史)
(1)タキトゥス(2)d(3)・キエフ公国・キプチャクーハン国(4)聖像禁止令(5)イヴァン3世(6)フス(7)プロイセン・ロシア(8)コッシュート(9)セルビア