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ワークシート(5)① 古代ギリシア史・エーゲ文明

2012年01月16日 | ワークシート
ワークシート(5)① 古代ギリシア史・エーゲ文明

 エーゲ海に面したギリシア本土とクレタ島・小アジアの東海岸の地域に、前2000年頃から前12世紀頃まで、古代文明が存在した。この【 】海に面した地域の文明を、その海の名前をとってエーゲ文明という。エーゲ文明は、前半と後半の2つの時代に分かれている。前半にあたる前2000年~前15世紀にクレタ島にあったのがクレタ文明で、後半の前14世紀~前12世紀に小アジアやギリシア本土に存在したのがミケーネ文明である。
エーゲ文明後半の【 】文明の存在を発見したのはドイツ人のシュリーマンである。ドイツ人の【 】は古代ギリシアの詩人ホメロスの物語『イリアス』や『オデュッセイア』で歌われたトロヤ戦争が史実であると信じてトロヤの発掘に成功した。古代ギリシアの詩人【 】が歌ったトロヤは小アジアにあった。この【 】が実在したとすると、その【 】をトロヤ戦争で滅ぼしたミケーネ文明の中心都市ティリンスも実在する。したがってドイツ人【 】はさらにギリシア本土にあったティリンスの発掘に成功した。こうして彼は小アジアの【 】とギリシア本土の【 】文明の実在を証明したのである。
 このシュリーマンの発掘に刺激を受けて、イギリス人エヴァンズはクレタ島にあったクノッソス宮殿を発見した。【 】島の【 】宮殿を別名でラヴィリントスという。この別名【 】とは「迷宮」の意味で、【 】宮殿がまさに迷宮のように複雑な構造であったことからそう呼ばれる。伝説によると、【 】宮殿には牛頭人身の怪物「ミノタウロス」がいたとされる。しかし、前2000年に【 】島にあったクレタ文明の時代に使用されていた線文字Aはまだ解読されていないため、【 】文明は不明な点が多い。ただし【 】宮殿の壁画にはイルカなどが描かれ、海洋性の性格を持った文明と考えられる。クレタ文明は【 】島を襲った津波によって破壊された可能性が高い。
 一方、シュリーマンが発見したギリシア本土の【 】文明の時代は前14世紀~前12世紀の文明である。このミケーネ文明の中心都市はトロヤ戦争で【 】を破った【 】である。この【 】文明の時代に使用されていた線文字Bはイギリス人ヴェントリスが解読している。イギリス人【 】の功績によってミケーネ文明は解明されている。ミケーネ文明の性格は中心都市【 】が【 】戦争で【 】にあったトロヤを滅ぼしたように、攻撃的・軍事的色彩が強く、都市も城壁で防備されていた。【 】年頃に成立したクレタ文明の都市には城壁がなく平和的文明であったのとは対照的である。ティリンスの城壁の城門にライオンが刻まれ、この城門を「獅子門」と呼んでいる。【 】世紀~【 】世紀まで繁栄した【 】文明であったが、前12世紀にドーリア人の侵入によって滅亡した。
【 】世紀にギリシア本土に侵入してきた【 】人は鉄器を使用し、強力な破壊力をもっていた。【 】人がギリシア本土に侵入した結果、ギリシア世界は「暗黒時代」に入り、ミケーネ文明で使用されていた【 】という文字は後のギリシア人には受け継がれなかった。









ワンフレーズ・チェック
(1) エーゲ文明は前半の【 】文明と後半の【 】文明の2つの時代から成る文明である。
(2) 英人【 】は【 】島の【 】文明を発掘した。
(3) 独人【 】は小アジアの【 】とギリシア本土の【 】を発掘し、【 】の詩が事実であると証明した。
(4) エーゲ文明前半に使用されていた文字【 】は未解読で、後半の【 】は英人【 】が解読している。
(5) 【 】人の侵入で【 】文明は滅び、ギリシア世界は「【 】時代」に入った。


ワークシート(4)古代オリエント史(4)オリエント世界の統一

2012年01月16日 | ワークシート
ワークシート(4)古代オリエント史(4)オリエント世界の統一

 初めてメソポタミア地方とエジプトの両方の世界、すなわちオリエント世界を統一したのはアッシリア帝国である。オリエントを始めて統一した【 】帝国は、もともとミタンニ王国から独立して拡大していった。この【 】帝国が拡大したのは前8世紀からで、とくにサルゴン2世は前722年にヘブライ(ユダヤ)人の王国であるイスラエル王国を征服し、バビロンを攻略してメソポタミア全域を支配した。そして前7世紀後半に登場したアッシュール=バニパル王は前667年にエジプトを征服してオリエント統一を達成した。オリエントを【 】年に統一した【 】王は都をアッシュールからニネベェに遷した。【 】王が建設した新都【 】には各地から粘土板が集められたので、これをニネベェの大図書館とよぶ。
 しかし、オリエントを初めて統一した【 】帝国であったが、厳しい支配を行ったために、その統一は50年間に過ぎなかった。そして【 】帝国崩壊後のオリエント世界には4つの王国が成立した。前7世紀末から前550年までの約60年間、4つの王国に分かれたオリエント世界を4王国時代という。この【 】時代にメソポタミア地方を支配したのは、都をバビロンに置いた新バビロニア王国であった。この【 】王国の別名をカルデアという。この王国の時代に聖書で有名なユダヤ人の「バビロン捕囚」事件が起きた。前586年新バビロニアの王ネブカドネザル2世はユダ王国を征服し、ユダヤの人々を都の【 】に強制的に移住させた。このように国王【 】が行った、【 】王国のユダヤ人が【 】王国の都【 】に連れ去られた事件を「【 】」という。
 【 】時代の小アジアにはリディア王国が成立した。この【 】王国の都はサルデスである。【 】に都を置いたリディア王国では鋳造貨幣が発明された。このように、【 】で成立した【 】王国で【 】が発明されたことで、オリエント世界やその隣に位置するギリシア世界では、まもなく貨幣経済が始まったのである。
 またイラン高原ではインド・ヨーロッパ語族によってメディア王国が成立し、エジプトでもエジプト王国が再建された。イラン高原の【 】王国ではゾロアスター教が成立した。この【 】教はイラン人の民族主教である。ゾロアスター教の光明・善神はアフラ=マズダ、悪神はアーリマンである。善神【 】と悪神【 】のように【 】教には善悪二元論という特徴がある。以上のように4王国時代に成立した4つの王国とは、エジプト王国、小アジアの【 】王国、メソポタミア地方の【 】王国、イラン高原の【 】王国である。
 4王国時代のイラン高原にあった【 】王国から、前550年にアケメネス朝ペルシア帝国が独立した。その建国者はキュロス2世である。この国王【 】は【 】王国から独立を達成して【 】朝ペルシア帝国を成立させると、前538年には4王国のひとつ【 】王国を征服してその都のバビロンにとらわれていたユダヤ人を解放した。解放された【 】人は【 】年に故郷のイェルサレムに戻ると、その地に神殿を再建し、ユダヤ教を成立させた。したがってユダヤ教の成立は【 】世紀である。このように【 】年に始まった「バビロン捕囚」は【 】年に終わった。
 アケメネス朝ペルシア帝国がエジプトを征服して前522年にオリエントを再統一したのは、カンビュセス2世の時である。オリエントを再統一した【 】をついで登場したダレイオス1世は、さらに【 】帝国を拡大させ、帝国を20の州に分け、州知事にはサトラップを任命して中央集権体制を確立した。金貨や銀貨も鋳造している。また、州知事である【 】を監視するために各州に派遣された王直属の監察官を「王の目、王の耳」と呼ぶ。国王ダレイオス1世は【 】帝国の都であるスサから小アジアにあったリディア王国のかつての都【 】まで続く「王の道」を建設している。この「【 】」は駅伝制が整備された。大帝国を築いた国王【 】であったが、ギリシア世界に遠征軍を送ったペルシア戦争には失敗している。


ワンフレーズ・チェック
(1) アッシリア帝国の国王【 】は前722年に【 】王国を滅ぼした。
(2) 【 】王国の国王【 】は前586年に【 】王国を滅ぼして「バビロン捕囚」事件が発生した。
(3) 小アジアの【 】王国で鋳造貨幣が発明され、イラン高原の【 】王国で【 】教が成立した。
(4) オリエントを初めて統一したのは【 】帝国の王【 】で、再統一したのは【 】帝国の王【 】である。
(5) アケメネス朝ペルシアの王【 】は帝国の各州に【 】を任命し、「【 】・【 】」を派遣して監視した。


ワークシート(3)古代オリエント史(3)古代エジプト史

2012年01月16日 | ワークシート
ワークシート(3)古代オリエント史(3)古代エジプト史

 ギリシアの歴史家ヘロドトスは「エジプトはナイルの賜物」と記述している。歴史家【 】が言うようにエジプト文明は【 】川の流域に展開された。定期的に【 】川が洪水を起こすため、上流から豊かな土砂が運ばれてきた。長いエジプトの歴史は3つの時代に分けられるが、第1が古王国時代、第2が中王国時代、第3が新王国時代である。また、これらの【 】王国、【 】王国、【 】王国の各時代にはいくつかの王朝が成立しているので、それらの各王朝に番号をつけて整理している。
 第1の【 】王国時代には巨大なピラミッドが建設された。都メンフィスの近郊のギザに建設されたピラミッドのうち、古王国の第4王朝の王であるクフ王、カフラ王、メンカフラ王のピラミッドをギザの三大ピラミッドと呼ぶ。【 】王、【 】王、【 】王の三大ピラミッドがある【 】は、現在のカイロに近く、【 】川の下流にある。まさに【 】王国時代は「ピラミッドの時代」といえる。
 第2の【 】王国時代には、アモン・ラーの信仰が生まれた。この【 】の信仰とは、中王国の都がテーベにおかれたため、都【 】の守護神アモンとエジプト全土の太陽神ラーとが一体化した信仰である。また、この中王国時代には『死者の書』が作られた。この『【 】』は死後の世界の様子を書いたもので、死後の世界をつかさどるオシリス神が「最後の審判」を行うと、古代エジプトの人々は考えていた。この【 】神が行う「【 】」という考え方は、ゾロアスター教に伝わり、さらにユダヤ教からキリスト教に受け継がれた。
 前17世紀にシリアから侵入して第2の【 】王国を滅ぼしたのはセム語族のヒクソスであった。この【 】は第17王朝にあたる。【 】語族がハム語族のエジプトを征服した時代であった。ヒクソスの軍隊が【 】王国を滅ぼすことができた理由は、「馬と戦車」という武器を使用していたからである。この「【 】」の武器はヒクソス人はヒッタイト人から学んでいた。こうして【 】世紀の約100年間、【 】が【 】語族の世界であったエジプトを征服していたのである。
 約100年間の異民族支配を破ったのは前16世紀に成立した新王国第18王朝である。【 】王国の第【 】王朝時代は都を中王国時代と同じ【 】においたが、唯一アメンホテップ4世だけは、都をテル=エル=アマルナに移し、都【 】でエジプトで唯一の一神教を信仰した。この一神教の神をアトン神という。しかし【 】神への信仰は【 】が都をテル=エル=アマルナにおいて時期だけのもので、一神教はエジプトで定着しなかった。【 】神を信仰した王【 】が死ぬと、その子ツタンカーメン王は都を【 】に戻し、アトン神への信仰を復活させた。この【 】王の墓は都【 】近郊にある「王家の谷」で発見され、有名な「黄金のマスク」が発掘された。
 新王国は次の第19王朝のときに全盛期を迎えた。第【 】王朝最大の王はラムセス2世である。この王【 】はシリアを巡ってヒッタイト帝国と争い、【 】帝国との間に平和条約を結んだ。またこの王【 】が建設したアブ・シンベル神殿は世界遺産である。この【 】神殿はアスワン・ハイ・ダム建設の際に水没の危機に瀕したがユネスコによって高台に移築された。しかし、新王国は前12世紀になると「海の民」の攻撃を受けて衰退した。




ワンフレーズ・チェック
(1) 「エジプトはナイルの賜物」といったのは【 】である。
(2) 古王国時代の第【 】王朝のときに三大ピラミッドが建設された。
(3) 中王国時代には【 】への信仰が生まれた。
(4) 「【 】」という武器を使った【 】が中王国を滅ぼした。
(5) 新王国第【 】王朝のときに王【 】が登場し【 】神という一神教を信仰した。
(6) 【 】王の「黄金のマスク」は【 】で発見された。
(7) 新王国第【 】王朝の最盛期の王【 】は【 】を巡って【 】帝国と争った。

ワークシート(2)古代オリエント史(2)古代メソポタミア史② 地中海東岸の民族(シリア・セム)

2012年01月16日 | ワークシート
ワークシート(2)古代オリエント史(2)古代メソポタミア史② 地中海東岸の民族(シリア・セム)

 前12世紀に地中海から謎の「海の民」が、それまで繁栄していたオリエント世界の国々を破壊したと考えられている。謎の「【 】」についてはまさに謎である。彼らが侵入した後のオリエント世界には、大きな力を持った王国はしばらく出現しなかった。しかし、そのような世界にあっても、諸民族の活動は見られ、とくに地中海の東海岸に位置するシリア地方には、3つの民族の活動が始まった。
 まずフェニキア人の活動を見ていこう。この【 】人は前12世紀に地中海を舞台に海上貿易を行ったことで知られている。彼らは【 】地方にシドンやティルスといった港町を建設し、そこを拠点にして地中海を舞台に【 】貿易を行った。【 】人がそのような貿易ができたのには、シリア地方のレバノン山脈に良質なレバノン杉があり、この【 】杉を切り出して船を建造できたからである。また、この【 】人が【 】を舞台に海上貿易を行ったことで、【 】人が使っていたフェニキア文字は地中海沿岸の人々、とくにギリシア人に使われるようになり、さらにギリシア文字が現在のアルファベットになったことは重要である。つまりフェニキア人の【 】文字は現在のアルファベットの源流である。フェニキア人が文字を発明した理由は商売の記録を残す必要からであろう。
 つぎに、アラム人の活動を見ていこう。この【 】人も前12世紀頃から登場した民族である。【 】人が地中海を舞台に海上貿易で活躍した民族であるのに対し、この【 】人はメソポタミア地方を中心に内陸貿易を行った民族であった。彼らが建設した都市のひとつがダマスクスである。この【 】という都市は現在でもシリア地方で貿易の中心都市として栄えている。つまり、この【 】は3000年以上の歴史を持つ、現在でも人が住んでいる最古の都市といえる。フェニキア文字が【 】の源流になったのに対して、アラム人が用いたアラム文字は、【 】貿易に関わる人々に用いられ、中央アジアの諸民族の文字の源流になった。また、アラム人が話していたアラム語は、その後のメソポタミア地方の人々の共通語になったと考えられている。
 最後にヘブライ人の歴史について見ておこう。【 】人が世界史の舞台に登場したのは、前13世紀に起きた預言者モーゼによる「出エジプト」という出来事からであった。預言者【 】に導かれた【 】人たちは新王国時代の【 】から脱出し、「約束の地」カナーンに移住した。やがて前1000年頃になってヘブライ王国が成立し、2代目ダビデ王と3代目ソロモン王のときに最も繁栄した。しかし、前922年にこの【 】王国は南北に分裂し、北にイスラエル王国、南にユダ王国が成立して。しかし北の【 】王国は前722年にアッシリア帝国の王サルゴン2世によって滅ぼされ、南の【 】王国は前586年に新バビロニア王国の国王ネブカドネザル2世によって滅ぼされた。この前【 】年のユダ王国滅亡の出来事のときに、ヘブライ人たちは新バビロニア王国の都バビロンに強制的に連行された。【 】王国の国王【 】によって行われたこの強制的連行の事件を、新バビロニア王国の都【 】の名を取って「バビロン捕囚」事件という。この「【 】」事件から彼らが解放されたのは、前538年のことである。バビロンから解放された【 】王国のヘブライ人たちをそれ以降はユダヤ人と呼ぶ。故郷に戻った彼らは神殿を再建し、ユダヤ教を成立させた。この【 】教の特徴は「選民思想」と「メシア待望の思想」である。

ワンフレーズ・チェック
(1) フェニキア人は【 】や【 】などの港町を拠点に地中海の【 】貿易で活躍した。
(2) アラム人は【 】などの都市を建設し【 】貿易で活躍した。
(3) 【 】文字はアルファベットの源流になり、アラム文字は【 】の諸民族の文字の源流になった。
(4) 「【 】」の出来事は前13世紀に起き、「【 】」事件は前586年から前【 】年に起きた。
(5) 前【 】年頃にヘブライ王国の全盛期を作ったのは【 】王と【 】王であった。
(6) 前6世紀に成立したユダヤ教の特徴は、「【 】」と「【 】」である。
(7) 北のイスラエル王国は前【 】年に【 】帝国の王【 】によって滅ぼされた。
(8) 南のユダ王国は前【 】年に【 】王国の国王【 】によって滅ぼされた。

ワークシート(2)古代オリエント史(2)古代メソポタミア史②インド・ヨーロッパ語族の世界

2012年01月16日 | ワークシート
ワークシート(2)古代オリエント史(2)古代メソポタミア史②インド・ヨーロッパ語族の世界

 前18世紀には古バビロニア王国がハンムラビ王の下でメソポタミア地方を統一し繁栄していた。しかし、次の【 】世紀になると、インド・ヨーロッパ語族のヒッタイト人がメソポタミア地方に侵入し、【 】地方を統一していた【 】王国を滅ぼし、アナトリア地方で建国した。【 】人が建国した【 】地方とは小アジアのことである。ヒッタイト帝国は都をハットゥシャシュに置いた。都の【 】は現在のボガズギョイである。【 】人が軍事的に優位であったのは、「馬と戦車」を戦争に活用したためであった。シリア地方にいたヒクソス人は、【 】人に敗れたものの、すぐに「【 】」の技術を戦争に導入して、もともと居た【 】地方からエジプトを征服し、約100年間も支配を続けている。その後、ヒッタイト人の侵入に続いて、彼らと同じ【 】語族の人々が続々とメソポタミア地方に侵入し建国している。メソポタミア地方北部で建国したのはミタンニ王国で、メソポタミア地方南部で建国したのはカッシート王国であった。ヒッタイト帝国最大の業績は、前14世紀に製鉄技術を発明したことである。【 】の発明は【 】世紀であるが、このときから人類は鉄器時代の幕を開けたといえる。
 小アジアで建国として繁栄していた【 】帝国は、約100年間におよぶ【 】人の支配を脱したエジプトの新王国とシリア地方を巡って戦争をしている。とくにエジプトの【 】王国第19王朝のラムセス2世とヒッタイトの間で起こった前1286年のカディシュの戦いは有名である。【 】の戦いの後に【 】王国の王【 】と【 】帝国の王との間で最古の平和条約が結ばれたことで知られている。
 しかし、前12世紀に謎の「海の民」がオリエント世界に侵入すると、小アジアの【 】帝国は滅亡し、エジプトなどそのほかの国々も急速に衰退してしまった。謎の「【 】」については不明な点が多く、どこから来て、その後どうしたのかはわかっていない。
 











ワンフレーズ・チェック
(1) 【 】語族の【 】人は前17世紀に【 】王国を滅ぼして【 】地方で建国した。
(2) 【 】人は【 】世紀に製鉄技術を発明した。
(3) 謎の【 】の侵入でヒッタイト帝国は滅亡した。
(4) 前17世紀にシリア地方から【 】人がエジプトに侵入し、約【 】年間エジプトを支配した。

ワークシート(1)古代オリエント史(1)古代メソポタミア史①

2012年01月16日 | ワークシート
ワークシート(1)古代オリエント史(1)古代メソポタミア史①

 今からおよそ1万年前、地球が温暖化したために人類は農耕を開始した。この大きな変化を食料生産革命と呼ぶ。この【 】革命が起こった地域は現在のイラクからイスラエルにかけての中東で、アメリカ人のブレステッドはこの一帯を「肥沃な三日月地帯」と名づけている。最古の農耕文明は「【 】地帯」で成立した。「【 】地帯」にある最古の農耕遺跡はイラク北部のジャルモ遺跡とイスラエルの死海の北側にあるイェリコ遺跡といえる。後者の【 】遺跡は現在では紛争地帯としても有名である。
 その後、前2700年ごろになると、シュメール人が都市国家を建設しメソポタミア文明が始まった。【 】文明の「メソポタミア」という言葉は、「大河に挟まれた土地」という意味で、二つの大河とは北側のティグリス川と南のユーフラテス川。【 】人が建設した【 】国家のうち、北から順にラガシュ・ウル・ウルクなどがその代表的なもの。3都市のうちもっとも南に位置する【 】では、有名な「ギルガメシュ神話」や「ノアの箱舟」の物語が生まれた。とくに「【 】」の物語は「旧約聖書」にも記述されていることから、【 】人の文明が後世まで受け継がれていることがわかる。このほかにも、【 】人が使用していた楔形文字や太陰暦を用い、彼らが発明した60進法・7日制なども現在まで受け継がれた。この【 】文字は、【 】川や【 】川流域の【 】文明で広く、長い時代にわたって使用された文字で、粘土板に記録された。まだ紙は発明されるずっと以前のことである。つまり【 】を紙の代わりとして【 】文字を書き込んだのである。この楔形文字はドイツ人のグロテヴォールが解読のきっかけを作り、イギリス人のローリンソンが解読に成功した。【 】による解読のきっかけはペルセポリス碑文の発見で、【 】による解読の成功はベヒストゥーン碑文の発見であった。しかし、【 】人はどのような言葉を話していたかがわからない民族系統は不明である。
 シュメールの都市国家における政治の仕組みを神権政治という。王は政治や軍事だけでなく商業も支配しており、神の代理人として政治を行っていたので【 】政治と呼ぶのである。彼らが作った建築物のジグラットは現在でもその姿を残している。この【 】は階段状のピラミッドといえる。
 【 】人の文明が塩害などの影響で衰退すると、サルゴン1世がアッカド王国を建て、約200年間の繁栄の基礎を作った。【 】王国の建国者である【 】という人名は、人類最初の個人名といえる。【 】王国が衰退すると、再びシュメール人が復活し、ウル第3王朝を建設した。【 】王朝時代に登場したウル=ナンム王は人類最古の法典を作った人物である。この法典は彼の名前をとって【 】法典と呼ばれている。
 前18世紀頃になると【 】川と【 】川一帯の【 】地方では古バビロニア王国が成立した。この【 】王国を作った人々はアムル(アモリ)人で、その全盛期は都をバビロンにおいたハンムラビ王の時代であった。彼の作ったハンムラビ法典は内容が多く残っていることで知られる。【 】法典は全部で282条の項目があり、身分法と復讐法という特徴がある。同じ罪を犯しても身分によって刑罰が違うため【 】法という特徴があるとされ、身分が同じ場合は、「目には目を、歯に歯を」という有名な言葉にあるように、犯罪者に同じ償いをさせるという意味で【 】法という特徴があるとされる。スサという都市で発見されたこの【 】法典は、現在ではフランスのルーブル博物館に所蔵されている。【 】王のときに都の【 】を中心に、前【 】世紀に全盛期を迎えた【 】王国であったが、前17世紀にヒッタイト人の攻撃を受けて滅亡した。 
 メソポタミア文明で活躍した人々の多くはセム語族である。例外はシュメール人で、彼らの民族系統は【 】である。

ワンフレーズ・チェック
(1) メソポタミア文明は【 】川と【 】川の流域に発達した。
(2) メソポタミア文明は【 】人・【 】王国・【 】王朝・【 】王国の順に成立した。
(3) シュメール文明は【 】国家群の文明で、特徴は【 】政治・【 】文字・【 】暦などである。
(4) メソポタミア文明で成立した法典は、【 】王朝の【 】法典と【 】王国の【 】法典である。
(5) メソポタミア文明の担い手は【 】人を例外に、【 】語族に属する人々であった。
(6) 【 】世紀のハンムラビ法典は【 】法と【 】法を特徴とする【 】条からなる法典である。
(7) 楔形文字の解読は【 】碑文の発見をきっかけに始まり、【 】碑文の発見で成功した。








2012年センター試験

2012年01月14日 | 何かの足しになれば
問題番号31と12は間違えても仕方ない。アジアとアフリカが多かったから、現役不利かな。ただし、冬の講習の成果が発揮できたら、ずいぶん楽だったかもしれない。知らない選択肢は選ばない!の原則を守れたら,高得点も期待できそう。
これから1ヶ月です!気分を早く切り替えた者が成功します!


センター直前問題演習(21)ジャガイモの歴史

2012年01月13日 | 高3用 授業内容をもう一度
L866W13
2010年 世界史 和歌山大学 2/25,前期日程 教育

【3】 

 ジャガイモが世界史に与えた影響に関する次の文を読み,後の問いに答えなさい。

 人類の歴史は,新石器時代の(A)食糧生産革命によって大きく発展した。だが現在地球上では,発展途上国を中心に(B)人口が爆発的に増加し,地域紛争や(C)環境問題ともあいまって深刻な飢餓を引き起こしている。ジャガイモは寒冷地ややせた土地でも育ち,栄養が豊富で面積あたりの収穫量も多い。国連は2008年を「国際ジャガイモ年」に定めて,食糧の安全保障,貧困の削減を目指している。
 ジャガイモ栽培は500年ごろに,(D)南米ペルーの( ① )山脈のチチカカ湖のほとりではじまった。インカ帝国の首都北方の( ② )の遺跡には,神殿や宮殿が並び,周囲の断崖には高度な灌漑設備を備えた段々畑が連なっている。16世紀にインカ帝国を滅ぼしたスペイン人が,ジャガイモを旧大陸にもたらした。しかしヨーロッパでは「聖書に出てこない食物」といった偏見がつきまとった。
 アイルランドでは,ジャガイモに対する偏見が少なかった。1154年,フランスのアンジュー伯アンリがイギリス国王( (a) )として即位し,( ③ )朝を開いた。1171年,( (a) )のイギリス軍はアイルランドに侵入し,ここに800年近いイギリスとの闘争,受難の歴史が始まった。(E)ウォルター・ローリーはアイルランド反乱の鎮圧に活躍した一人であるが,イギリスにジャガイモをもたらしたのは彼だという伝説がある。クロムウェルがアイルランドを征服すると,( ④ )教会組織は破壊され,農地は没収された。小作人に転落したアイルランド農民は,小麦を地代としてイギリス人地主に納め,残りの劣悪な条件の土地にジャガイモを植えた。このため,ジャガイモは「貧者のパン」とも呼ばれている。アイルランドの自治・独立要求の運動に対処するために,1886年,1893年自由党の( (b) )内閣はアイルランド自治法案をイギリス議会に提出したが,いずれも否決された。
 1845年,ジャガイモに疫病が発生した。アイルランドは飢饉に見舞われ,100万人ともいわれる餓死者を出した。この結果,多くの移民がアメリカに渡った。ジョン・F・ケネディの曽祖父もその一人である。ケネディは,(F)WASPと呼ばれる北部の都市白人中産階級が主流のアメリカにおいて,初のアイルランド系で( ④ )系の大統領だった。彼は非暴力による公民権運動の指導者( (c) )が逮捕された時,支援するなど,貧困・人種差別問題の解決に取り組んだ。また人類が核戦争の危機に直面した1962年の( ⑤ )に対処した。
 ジャガイモは16世紀末にオランダ人によって,(G)ジャワ島の( ⑥ )から日本に運ばれた。ジャガイモの呼び名はこれに由来するといわれている。オランダは1602年( ⑦ )を設立し,( ⑥ )に東洋貿易の拠点を置いた。
 ドイツでのジャガイモの普及は,三十年戦争の後とみられている。この時期は(H)17世紀の危機と呼ばれており,戦場となったドイツは全土が荒廃した。こうしたどん底の生活が彼らにジャガイモ栽培を余儀なくさせたのである。(I)プロイセン王国のフリードリヒ2世は,当時の先進的な思想に影響を受けて自国の近代化に努力した( ⑧ )君主の一人である。彼は「ジャガイモ令」を発して,ジャガイモの栽培を促進した。
 フランスへのジャガイモ移入は16世紀末とみられる。フランス・アカデミーは( (d) )世の宰相リシュリューが1635年に創建した学術研究団体であるが,1772年,「食糧飢饉を緩和する食物」についての論文を懸賞金つきで募集した。採用されたのは,農学者パルマンティエの論文である。七年戦争でプロイセン軍の捕虜となった彼は,捕虜生活をジャガイモで生き延びた経験から,フランスでジャガイモの普及につとめた。
 1825年12月,ロシアの首都サンクト・ペテルブルグで( ⑨ )がおこった。1812年の祖国戦争に参加した貴族出身の青年将校は,進んだ西ヨーロッパの制度や文物に接し,「立ち遅れた祖国ロシアの救済」を目的に,憲法制定や( ⑩ )制の廃止を要求して武装蜂起したが,鎮圧された。シベリアに流刑になった彼らは,農民の苦しい暮らしを知って,故郷からジャガイモを取り寄せて栽培した。1945年8月,ソ連は( ⑪ )協定に基づいて( ⑫ )に対して宣戦し,シベリアに約60万人を抑留した。ここでもジャガイモが,強制労働に従事させられた( ⑫ )人抑留者の命と暮らしを支えたのである。(J)ソビエト連邦が崩壊した直後の1992年,( (e) )大統領のロシア政府は価格自由化を導入し,市場経済化をはかった。だが,ロシア経済は迷走し,物価が暴騰した。都市市民の多くはダーチャと呼ばれる郊外別荘でジャガイモを育てて,この混乱期をしのいだ。
 アフリカでもジャガイモは重要な作物となってきている。( ⑬ )は赤道直下にあるが,ペルーと同様に高地は冷涼な気候である。この国では1990年から1994年にかけて,ツチ族とフツ族の対立が内戦・大量虐殺に発展した。現在ではジャガイモはバナナに次ぐ重要な作物となり,一人当たりの消費量はドイツをしのぐほどである。ジャガイモは人間の生活に深く関わってきたのである。

問1 空欄の①~⑬に当てはまる語句を,(a)~(e)に当てはまる人名を書きなさい。

問2 下線部(A)~(J)について,次の問いに答えなさい。

(A) この革命において,人類は植物の栽培と動物の飼育を開始した。この革命がもたらしたものを,経済・社会の側面から説明しなさい。

(B) 『人口論』を著して,食糧生産と人口増加のアンバランスが貧困の原因となるため,人口の抑制が必要であると主張した古典派経済学者の名を答えなさい。

(C) 過度の放牧・耕作や森林破壊によって生じ,食糧生産に悪影響を及ぼす環境破壊は何か。

(D) アメリカ大陸からヨーロッパにもたらされて,生活文化に大きな影響を与えた栽培植物を,ジャガイモのほかに二つ答えなさい。

(E) ローリーは,北米にイギリスの植民地を創設し,処女王エリザベス1世にちなんで命名したが,失敗に終わった。この植民地の名前を答えなさい。

(F) WASPの「AS」とは,最も早い時期にアメリカに移民した人々を指す言葉の頭文字である。「AS」とは何か,答えなさい。

(G) この地の当時の王朝の宗教は何か,答えなさい。

(H) この時期には,戦争だけではなく危機的な社会状況が多く見られた。それはどのような現象か,説明しなさい。

(I) 
(ア) この王国が成立するに至った経緯を,次の語を用いて説明しなさい。
プロイセン公国 ドイツ騎士団 神聖ローマ皇帝

(イ) 1871年,プロイセンを中心としてドイツ帝国が成立したが,その過程では,「大ドイツ主義」と「小ドイツ主義」の二つの主張が存在した。この二つの違いについて,特に「ドイツの範囲」に言及しつつ述べなさい。

(J) 1991年にソビエト連邦の11の共和国が参加して創設された組織は何か。




【解答3】 
問1 ① アンデス ② マチュピチュ
③ プランタジネット ④ カトリック
⑤ キューバ危機
⑥ ジャカルタ [ジャカトラ,バタヴィア]
⑦ 東インド会社 ⑧ 啓蒙専制
⑨ デカブリスト[十二月党員]の乱 ⑩ 農奴
⑪ ヤルタ ⑫ 日本
⑬ ルワンダ
(A) ヘンリ2世 (B) グラッドストン
(C) キング牧師 (D) ルイ13
(E) エリツィン
問2 
(A) 生活が安定し,文化が発達した。定住化が促進し,人口密度が増大し,共同作業の必要性から共同体が発達した。余剰生産物の交換による商業・交易が発達した。
(B) マルサス (C) 砂漠化
(D) (次から二つ) トウモロコシ,サツマイモ,トマト,落花生,カボチャ,タバコ など
(E) ヴァージニア (F) アングロ・サクソン
(G) イスラーム
(H) 小氷河期と呼ばれる寒い時代で,飢饉が頻発し,経済活動の停滞,疫病の流行,食糧暴動,魔女狩りなどの社会不安現象が生じた。
(I) 
(ア) ドイツ騎士団の総長がプロテスタントに改宗して修道会領を世俗化し,プロイセン公国と称した。後にブランデンブルク選帝侯国と合併して同君連合を形成し,さらに,神聖ローマ皇帝から王号を得て,王国に昇格した。
(イ) 大ドイツ主義とは,オーストリア領内のドイツ人を含めてドイツ統一を進めようとする考え方で,小ドイツ主義とは,オーストリアを除いてプロイセンを中心にドイツ統一を達成しようとする考え方。
(J) 独立国家共同体



センター直前問題演習(20)スラブ民族史 京都大学1997

2012年01月12日 | 高3用 授業内容をもう一度
97京都大 東欧史(スラブ民族史)

選択(A)次の文章(a~c)を読み、下線部(1)~(9)についての後の間に答えよ。
(a)4世紀後半からヨーロッパでは諸民族の移動が相次いだ。まず、中央アジアの遊牧騎馬民族フン族の西進に刺激されて、(1)ゲルマン民族がヨーロッパ西部から商部にかけて大規模な移動を開始した。ついで6・7世紀には、カルパチア山脈北部からドニエプル川上・中流域にかけて住んでいたスラヴ人が各地に移動し始め、やがて(2)南スラヴ族、東スラヴ族、西スラヴ族に分化した。9世紀頃からは、スカンディナヴィア半島を原住地とするノルマン人が南方に移動を開始した。その一部はバルト海東部から南下し、(3)ドニエプル川流域まで進出して、スラヴ人と接触した。

(b)キリスト教会は325年のニケーア公会議で三位一体説を正続とし、教義の統一を図った。しかし、(4)8世紀前半、東ローマ皇帝レオン3世の布告を契機として、東方教会とローマ教会とのあいだに論争が生じた。その後、両者の対立は深まり、11世紀までに両教会は分離し、西方のローマ・カトリック教会に対し、東方にはギリシア正教会が成立した。この間、両教会はそれぞれ東欧地域への布教を進めた。その結果(5)東スラヴ族は東方教会を通じてキリスト教を受け入れたのに対し、(6)西スラヴ族はローマ・カトリック教会の影響下でキリスト教化した。

(c)19世紀のヨーロッパにおける民族主義の高揚は、各西スラヴ人のあいだにも民族意識の覚醒をもたらした。(7)18世紀末に独立を失ったポーランド人、ハプスブルク帝国支配下のチェコ人・スロヴァキア人、オスマン帝国下のバルカンの諸民族は、それぞれ民族自立を求める運動を組織し始めた。他方で、スラヴ人のあいだでの同胞意識も生まれ、(8)年にはプラハで初のスラヴ人会議が開かれた。このスラヴ人の連携の主張は、(9)19世紀後半にはロシア指導下でのスラヴ諸民族の統一を唱えるパン・スラヴ主義に発展するが、他方でポーランド人などにはロシアの専制的支配への反発も強く、全スラヴ人の連帯は現実には困難であった。

問(1)紀元後1世紀に、この民族の初期の社会について記述したローマの歴史家は誰か。
問(2)次のなかで、南スラヴ族に属する人びとを選び記号で答えよ。
aスロヴァキア人 bマジャール人 cポーランド人 dクロアディア人 eリトアニア人
問(3)・ドニエプル川の流域に9世紀に建国された国の名を記せ。
・・の国は、13世紀にモンゴル軍により滅ぼされ、この地域はサライを首都とするモンゴル人の国家の支配下におかれた。この国の名を記せ。
問(4)この布告とは何か。
問(5)ギリシア正教を受け入れた東スラヴ族のロシア人の支配者は、のちにビザンツ皇帝の後継者としてツァーリという称号を用いるようになる。15世紀後半にモンゴル人の支配から自立して東北ロシアを統一し、最初にこの称号を用いた君主は誰か。
問(6)このうち、ボヘミアでは14世紀末から15世紀初頭にかけてチェコ人の教会改革運動が起こる。この運動の指導者の名を記せ。
問(7)1793年に2回目のポーランド分割を行なった国を挙げよ。
問(8)同じ頃、ハンガリーでも民族運動が高揚した。この民族運動を指導し、1849年にオーストリアからのハンガリーの独立を宣言した政治家は誰か。
問(9)この主張は、ロシアのバルカン進出を正当化するために利用された。1878年にオスマン帝国より独立し、ロシアを中心とするパン・スラヴ主義の先頭に立ってオーストリアとの対立を深め、第一次世界大戦勃発のきっかけをつくったスラヴ系の国の名を記せ。




(A。スラヴ民族史)
(1)タキトゥス(2)d(3)・キエフ公国・キプチャクーハン国(4)聖像禁止令(5)イヴァン3世(6)フス(7)プロイセン・ロシア(8)コッシュート(9)セルビア

センター直前問題演習(19)ペストの歴史

2012年01月12日 | 高3用 授業内容をもう一度
次の文章をよく読み、後記の問に答えよ。

ヨーロッパの諸都市を旅行していて目をひくのは、ベスト退散の巨大な記念碑である。これらの記念碑から、ペストがヨーロッパに与えた影響がわかる。
古代世界では(a)聖ソフィア聖堂を建立したことで知られる(あ)ユスティニアヌス帝の時代に、ペストが大流行した、との記録がある。しかし、ペストが、ヨーロッパの社会・文化に影響をおよぼしたのは、なんといっても、14世紀半ばにおいてであった。この時の感染経路は、こうであった。
まず、(い)イタリアの商人が、交易先の(う)コンスタンティノープルでペストに感染した。この病原体が、イタリアやフランスの港から内陸部へと広がって、ついには、ヨーロッパの全域におよんだ、といわれる。このように大流行したペストは、患者の皮膚が一定の色を帯びる、という症状をともなった。このため、ペストは(b)この色に由来する病名のもとにおそれられた。
この大流行により、人口が、激減した。そのため、領主は、農民の待遇改善をしいられた。これが、(え)独立自営農民の勃興を促進した、といわれる。ペストは、当時、感染原因が不明であったところから、社会的偏見をも助長した。とくにユダヤ人が毒物をまいたという風説がひろまり、これが(お)ユダヤ人に対する迫害につながった。また、ペストによる死が、すべての身分をおそったことから、(か)骸骨と鎌で表現された死が上は王から下は庶民まで訪れるという主題の絵画・彫刻が、のちに流行した。
この14世紀半ばにおけるペストの猛威は、(き)フィレンツェ商人の子であった(c)ジォバンニ=ボッカチオの作品の序章にあきらかである。
そののちも、ペストは、しばしばヨーロッパで大流行した。とくに有名なのが、(く)1665年ロンドンでの大流行である。そのすさまじい状況は、のちに、(d)ダニエル=デフォーによって、その作品『ペスト』において、克明に描かれた。
ペストの大流行ならびにそれによる大量死は、20世紀になっても、小説の主題として取り上げられた。そのなかで、(e)アルジェリアの一都市でのペストの大流行を小説にした(け)アルベール=カミュの作品『ペスト』は、わが国でも翻訳されていて、なじみぶかい。ペストの恐怖は、その(こ)病原体が発見された現在でも、ヨーロッパの人々のこころの奥底に、ふかく宿っているのである。

問1 文中下線部(a)~(e)に関する下記の設問に答えよ。なお、通常、漢字で書かれるものについては,正しい漢字で書け。

(a)この聖堂は、いかなる建築様式の代表とされるか。
(b)この病名は、何か。
(c)かれの友人で「叙情詩人を著した人文主義者の詩人は、誰か。
(d)かれの1719年の作品で、孤島での生活を描いたものは,何か。
(e)この地の独立を1962年に承認したフランス大統領は、誰か。

問2 文中の下線部(あ)~(こ)に関する下記の設問に答えよ。ただし、解答は、それぞれの語群から選択し答えよ。

(あ)かれが征服したアフリカの王国は、何か。
(1)ヴァンダル王国 (2)西ゴート王国 (3)東ゴート王国 (4)ブルグント王国 (5)ロンバルド王国
(い)かれらが、おこなった貿易は、何と呼ばれたか。
(1)勘合貿易 (2)東方貿易 (3)奴隷貿易 (4)バルト海貿易 (5)北海貿易
(う)この地をおとしいれることを、第四回十字軍に要求したのは、どの都市の商人であったか。
(1)ヴェネツィア (2)ジェノヴァ (3)ナポリ (4)ピサ (5)マルセイユ
(え)かれらは、イギリスでは、何と呼ばれたか。
(1)コロヌス (2)ジェントリ (3)ジャックリー (4)ユンカー (5)ヨーマン
(お)かれらの強制居住区は、ドイツでは、何と呼ばれたか。
(1)アゴラ (2)ゲットー (3)シティ (4)フオールム (5)ミール
(か)この主題は、なんと呼ばれたか。
(1)最後の晩餐 (2)死者の書 (3)死の灰 (4)死の舞踏 (5)西洋の没落
(き)この地のサンタ=マリア大聖堂の大円蓋を完成したのは、誰か。
(1)ギベルティ (2)ドナテルロ (3)ブラマンテ (4)ブルネレスキ (5)ミケランジェロ
(く)この当時のイギリス国王は、誰か。
(1)ジェームズ1世 (2)ジェームズ2世 (3)チャールズ1世 (4)チャールズ2世 (5)メアリ2世
(け)かれの作品には、ほかに、何があるか。
(1)異邦人 (2)嘔吐 (3)壁 (4)自由への道 (5)変身
(こ)これを研究する細菌学の発展に貢献したドイツの学者は、誰か。
(1)コッホ (2)ジェンナー (3)パストウール (4)メンデル (5)リービヒ



正解
ビザンツ様式 黒死病 ペトラルカ ロビンソー=クルーソ ド=ゴール
1 2 1 5 2 4 4 4 1 1

センター直前問題演習(18)国際平和 岡山大学2001

2012年01月12日 | 高3用 授業内容をもう一度
2001 岡山大学 2/25,前期日程 文学部(言語文化学科),教育学部

 次の文章を読んで,下線部についての問いに答えなさい。

 ヨーロッパでは,16世紀ごろから王権が強大になり,主権をもつ国家が成立していくと,国々の間の国際関係が複雑になっていった。それに伴って国家間の紛争も増え,それを解決して何とか国際的な協調を維持しようとするさまざまな努力が必要になった。
 17世紀前半,ヨーロッパの国際関係の焦点となったのは,(1)三十年戦争であったが,戦争を終わらせた(2)1648年の会議は世界最初の国際会議となった。絶対主義の時代と呼ばれる16世紀から18世紀までの間は,おしなべて(3)王位継承問題,領土問題,植民地の争奪などをめぐる国家間の戦争が絶えなかった。(4)こうした国際紛争の解決や防止のために,国際法や国際的な組織の必要性を説く学者も現れた。
 フランス革命に続いてヨーロッパは一時戦乱の時代を迎えたが,ナポレオンの没落をきっかけにヨーロッパの秩序のたてなおしを協議するために1814年から催されたウィーン会議は,国際会議としては未曾有の規模となった。会議では各国の利害が対立し,翌15年にやっと(5)ウィーン議定書が結ばれた。諸国の君主たちは,キリスト教的な平和思想に基づいて神聖同盟を結んだが,この組織は具体的な平和維持のしくみを持たず,実質的にウィーン体制を支えた四国同盟(のちフランスが加わって五国同盟)とともにメッテルニヒにより(6)自由主義・国民主義運動を抑圧するために利用された。
 19世紀のヨーロッパでは,イギリスの圧倒的な経済力・軍事力がもたらした抑止力と,(7)大陸における勢力均衡が維持されたことにより,一応国際協調の基調は尊重され,クリミア戦争を除くと長期にわたる大規模な戦争は起こらなかった。しかし19世紀末になって,ドイツが世界進出の姿勢を強め,あわせてフランス,イギリス,ロシアなどが(8)国外への勢力拡張をはじめると,帝国主義国家間の対立が強まった。こうした状況をふえまて,1899年と1907年にハーグで平和会議が開かれ,紛争を平和的に処理する協約が採択され,1901年には紛争解決のために  (9)  が設置された。しかし列強は互いに他国に対する警戒心を強め,同盟や協商関係を結んでますます軍備拡張の道に進み,ついにヨーロッパは第一次世界大戦に突入してしまった。
 大戦がもたらしたかつてない惨禍を体験した列強は,ヴェルサイユ条約のなかに国際連盟規約を加えた。1920年に発足した国際連盟は,史上初の大規模な国際平和維持機構となった。また,その翌年からは(10)ワシントン会議をはじめ,たびたび軍縮会議が開かれ,再度の世界戦争を防止しようとする努力が続けられた。しかし,国際連盟には,提唱国であるアメリカ合衆国が参加せず,常任理事国の意向に支配され,総会の決議は全会一致を原則とするなど(11)多くの欠陥があった。国際連盟は国際紛争の解決にある程度の成果をあげたが,世界恐慌を境にして,その苦境のなかから全体主義の傾向を強めた国家が露骨な(12)対外侵略に乗り出すと,国際連盟はこれを有効に阻止することができなかった。日本,ドイツ,  (13)  がつぎつぎに連盟から脱退し,やがて連盟は集団安全保障機構としての機能を失っていった。
 第二次世界大戦の連合国は,大戦中から国際連盟よりも有効な国際平和機構の設立について準備した。終戦の年,1945年に国際連合憲章が採択され,翌年から国際連合が活動を開始した。国際連合は,世界の平和と安全の維持という主目的を達成するために(14)大国の責任を重んじ,他方では多くの国の意見を反映させるために総会の役割も強めている。また,国際連合は,国際連盟よりもはるかに実効性のある組織と活動規約を有している。さらに,世界の(15)経済や社会,文化のさまざまな領域にその活動の範囲を広げているのも特徴である。とはいえ,国際連合は,少数大国の行動を制限する力が弱いなど,いくつかの改良すべき点を抱えている。また,冷戦が終結した今日,国際連合に対して新たな期待が高まってはいるが,各地で頻発する(16)民族紛争を解決する決定的な方途を見いだせないままでいる。真の国際協調の道は,いまだ遠いといわざるを得ない。

問 い
(1) 三十年戦争が,宗教的理由を超えた国家間の戦争であったことを端的に表わしているのはどんなことか。
(2) 三十年戦争およびこの会議の決定が,その後のドイツの発展のゆくえに与えた影響について述べなさい。
(3) ここにあげた三つの内容を,すべて含みながら七年戦争(1756~63)について説明しなさい。
(4) 例えば,三十年戦争の惨禍を見て,平時のみならず戦時にも守られるべき国際法規の必要性を説いたオランダの法学者はだれか。
(5) ウィーン会議をまとめるための基本原則となった正統主義とはどのようなことか。
(6) その具体的な事例を一つあげなさい。
(7) (ア) エジプト=トルコ戦争(エジプト事件)に際して,ヨーロッパの勢力均衡の維持のために1840年にイギリスが展開した外交について,その内容を述べなさい。
(イ) ドイツ帝国成立以降,ビスマルクがヨーロッパにおける勢力均衡を維持するための外交に腐心したことはよく知られているが,その主要なねらいは何だったと思うか。対外的側面,国内的側面双方から述べなさい。
(8) (ア) このころ,アフリカ大陸においてイギリスとフランスの進出政策が衝突する事件が起こった。それは何と呼ばれるか。
(イ) この事件ではフランスが譲歩して軍を撤退させたが,それはイギリスとの間にどのような約束が成立したためか。
(9) 空欄を適語で補いなさい。
(10) ワシントン会議で締結された条約を三つあげなさい。
(11) ここに例示したこと以外に,重大な欠陥があった。それは何か。
(12) ミュンヘン会談の決議にもかかわらず,その半年後ドイツはどのような軍事行動をとったか。
(13) 空欄に適切な国名を補いなさい。
(14) 安全保障理事会が大きな権限をもっているのもその一つであるが,なかでもとくに強い権限が与えられている国の名をすべてあげなさい。
(15) 世界の為替の安定を図る目的などをもって設置されている専門機関は何か。(英語の頭文字をとった略称でもよい)
(16) この記述の内容に該当すると思われる紛争例を,1991年以降について一つあげなさい。

【解答7】2001 岡山大学 2/25,前期日程 文学部(言語文化学科),教育学部
(1) 自国強化のため,旧教国フランスが新教がわに味方した
(2) 長期の戦乱で全国土に渡り社会経済的に被害を受け,人口も激減したため西欧諸国に比べてドイツの発展は大きく遅れた。
(3) ローマ皇帝は,国事詔書を一転し,娘のマリア・テレジアの王位継承を認めさせハプスブルグ家の領土の保持をしようとしたが,プロイセン,フランスなどが反対し戦争となるが,イギリスを同盟として戦うイギリスとフランスが植民地問題により戦争を始めると危機を脱し,アーヘンの和約を1748年に結ぶ。
(4) グロチウス
(5) フランス革命前の正統王朝と旧制度の復活を目指す理念
(6) カルボナリの乱(デカブリストの乱,ブルシェンシャフトなど)
(7)
(ア) ロンドン会議をもとに,オスマン帝国側のロシアが要求したウンキャル・スケレッチ条約をイギリスを含んだ3国で反対し破棄させエジプトに対してもオスマンの属国としての地位のみを認めさせたことでロシアの地中海進出阻止にエジプトの弱体化を実現した
(イ) 国内においては,宗教闘争を抑圧し,対外的にはフランスを孤立させロシアの進出を抑えることでドイツ帝国の安定と保持を狙った。
(8) (ア)……ファショダ事件 (イ)……ドイツの脅威に対する協力
(9) 国際仲裁裁判所
(10) 海軍軍備制限条約・九カ国条約・四カ国条約
(11) 侵略者を制裁するための軍事力を持たない
(12) チェコスロバキア解体
(13) イタリア
(14) 米国,英国,フランス,ソ連(ロシア),中国
(15) IMF(国際通貨基金)
(16) ユーゴ紛争,湾岸戦争



センター直前問題演習(13)国際平和 中央大学商2011

2012年01月12日 | 高3用 授業内容をもう一度
2011 中央大学 2/9,統一入試 経済 商 総合政策 法

 次の文章を読んで,下記の設問に答えなさい。

 平和をもたらそうという人類の探求は古くから続けられてきた。たとえば春秋・戦国時代の思想家 A の兼愛と非攻の思想,ヒンドゥー教の不殺生の教え,ドイツの哲学者カントの著した『永遠平和のために』などが有名である。
 しかし,実際に各国の協調を図り,平和を維持するための国際機構が設立されたのは,20世紀の二つの世界大戦が人類に空前の破壊と惨禍をもたらしてからであった。
 第一次世界大戦中の1918年1月,①アメリカ大統領ウィルソンは14か条の平和原則を発表し,国際平和組織の設立を提案した。これを受けて第一次世界大戦後のパリ講和会議において国際連盟規約案が審議され,1920年1月にヴェルサイユ条約の発効とともに国際連盟が正式に発足した。
 連盟規約では,戦争は当事国だけでなく加盟国全体の問題であること,加盟国は紛争の平和的解決の義務を負うこと,規約を無視して武力を行使した国への加盟国全体による制裁などを定め,この集団安全保障の方式により戦争を防止することを期した。
 国際連盟の本部は B におかれ,全加盟国よりなる総会が最高議決機関とされ,全会一致を原則とした。このほか理事会・事務局がおかれ,②常設国際司法裁判所等の国際機関も付置された。なお,ソヴィエト=ロシアや敗戦国ドイツは排除され,またアメリカはヴェルサイユ条約を批准せず,加盟しなかった。
 1920年代にはヨーロッパ情勢が次第に安定に向かうなか,国際連盟は小規模の国際紛争の解決で成果をあげた。ドイツも③1925年の条約で周辺諸国との安全保障問題を解決し,翌年には国際連盟に加盟した。だが,1930年代には,世界的な経済不況のなか,各国は勢力圏の確保,拡張を図って相争い,戦争や紛争が相次ぎ,国際連盟は試練にたたされることになった。
 1931年9月に満州事変が起こると,中国は国際連盟に日本の侵略を訴え,国際的圧力により日本を抑えることを期待した。だが,日本は翌年 C を建国し,1933年にはリットン調査団の報告書を不服として連盟脱退を通告した。
 一方,ヨーロッパでは,ヒトラーが政権をにぎると,ドイツは再軍備を進め,1933年には国際連盟を脱退した。また,イタリアが1935年にエチオピア侵略を始めると,国際連盟はイタリアに初めて経済制裁を加えたが効果はなく,翌36年イタリアはエチオピアを併合し,37年には連盟を脱退した。他方,ソ連はドイツの脅威に対抗して西側諸国に接近し,1934年には国際連盟に加入したが,1939年12月にはフィンランドに侵攻したため,連盟から除名された。
 国際連盟は第二次世界大戦を阻止できなかったが,国際機構による平和という考え方はその後も引きつがれ,大戦中の連合国により,より強力な安全保障機構の設立が構想された。1941年8月に発表された大西洋憲章では「広範かつ恒久的な一般的安全保障制度」の確立が主張され,1944年8~10月の④ダンバートン=オークス会議での4大国の協議をへて,1945年4~6月サンフランシスコ会議で国際連合憲章案が各国代表により調印され,1946年1月,国際連合は正式にその活動を開始した。
 国際連合には全加盟国代表よりなる総会のほか,「国際の平和および安全の維持,回復」のための強制行動をとる権限をもつ安全保障理事会が設けられ,アメリカ・ソ連・イギリス・フランス・中華民国の五大国が常任理事国となり,拒否権を与えられた。
 国際連合の平和維持機構としての能力は,⑤戦後まもなく始まった東西冷戦のなかで試されることとなった。1949年には国共内戦の結果,中華人民共和国が成立したが,米国は D に逃れた中華民国政府を支援し,国連での中国代表権交代を阻んだ。1950年に始まる E 戦争では,米国側の主導で安保理事会の決議にもとづく初の軍事的強制行動が行われた。だが,その後,国際連合の活動は米ソ冷戦の激化によって大きく制約されるようになった。たとえば,1956年のスエズ戦争(第2次中東戦争)や1960年に始まるコンゴ動乱では国際連合は休戦の実現につとめ,国連軍や国連緊急軍を送った。だが,ソ連またはアメリカが直接の軍事行動を行ったハンガリー事件や⑥ベトナム戦争に関しては,国際連合は何の措置もとることができなかった。国連の平和維持活動は冷戦終結後に再び活発化するようになった。
 国際連合の加盟国は当初,大戦中の連合国を中心とする51か国であったが,⑦1950年代後半~60年代,アジア・アフリカの多数の国が加入し,国連内で大きな勢力をしめるようになった。さらに1971年には中華人民共和国が加入して常任理事国となった。今日では,190をこえる地球上のほとんどの国が国連に加盟し,国連は安全保障機構であるだけでなく,経済,環境,人権などさまざまな問題に関して国際的な討論と交渉を行うフォーラムとしての役割を大きくしている。

〔設問Ⅰ〕 上記の文章の A ~ E 内に入るもっとも適当な語句を,記述解答用紙に記しなさい。ただし,漢字で書くべき語句は漢字で記すこと。

〔設問Ⅱ〕 下線部①~⑦に関する以下の問の答えを,マーク解答用紙にマークしなさい。

問1 下線部①に関し,ウィルソンの「14か条」は,1917年11月8日にロシア革命政権が発表したすべての交戦国政府・国民にあてた呼びかけに対抗するものとされる。その呼びかけの名称として正しいものを1つ選びなさい。
(a) 共産党宣言 (b) 第1次カラハン宣言
(c) 第2次カラハン宣言 (d) 土地に関する布告
(e) 平和に関する布告

問2 下線部②に関し,これ以外に国際連盟に付置された機関はどれか。正しいものを1つ選びなさい。
(a) 国際労働機関 (b) 国際軍事裁判所
(c) 国際復興開発銀行 (d) 国際通貨基金
(e) 万国平和会議

問3 下線部③に関し,この条約の名称として正しいものを1つ選びなさい。
(a) サン=ジェルマン条約 (b) ロカルノ条約
(c) 不戦条約 (d) ロンドン条約
(e) ミュンヘン協定

問4 下線部④に関し,この会議に参加した4大国の名称として誤っているものを1つ選びなさい。
(a) アメリカ (b) イギリス (c) フランス (d) 中華民国
(e) ソ連

問5 下線部⑤に関し,戦後の冷戦についての記述として誤っているものを1つ選びなさい。
(a) 第二次世界大戦末期にソ連軍がドイツ軍を追って東欧地域を占領した頃から,すでに米英対ソ連の対立が始まっていた。
(b) 1947年にソ連はコミンフォルムを結成し,各国共産党・労働者党の指導・連絡と情報交換を図った。
(c) 1949年には西側諸国の対ソ軍事同盟として北大西洋条約機構が成立し,1955年にはソ連・東欧諸国もワルシャワ条約機構を設立し,これに対抗した。
(d) 1949年,中華人民共和国は成立後まもなくソ連に使節を送り,翌1950年,中ソ友好同盟条約を締結し,アメリカ側に対抗した。
(e) 冷戦期,米ソは核兵器の開発競争を続け,互いにすべての人類を何回も殺戮できるほどの核兵器を蓄積するに至った。

問6 下線部⑥に関し,誤っているものを1つ選びなさい。
(a) 1954年の休戦協定以後,北緯17度線以北はベトナム民主共和国(北ベトナム)が,以南はベトナム国,ついでベトナム共和国(南ベトナム)が支配するようになった。
(b) 1960年に南ベトナム解放民族戦線が結成され,北ベトナムと提携して反米反政府のゲリラ戦が展開された。
(c) アメリカは南ベトナムの共産化を懸念し,数十万人の大軍を派遣し,また北ベトナム及び南の解放勢力拠点を猛烈に爆撃した。
(d) ソ連と中国は社会主義の同盟国として当時一枚岩の団結を誇っており,協力してベトナムの反米戦争を援助した。
(e) 1973年のパリ(ベトナム)和平協定により米軍が撤退し,1975年にはサイゴンが陥落してベトナム戦争は終結し,翌1976年,南北を統一したベトナム社会主義共和国が成立した。

問7 下線部⑦に関し,1950~60年代のアジア・アフリカについての説明として誤っているものを1つ選びなさい。
(a) 1954年に中国の周恩来とインドのネルーにより「平和五原則」が提唱された。
(b) 日本の国連加盟はソ連の拒否権行使により阻まれていたが,1956年に鳩山一郎内閣の下で日ソ国交が回復した後,同年12月の国連総会で加盟が認められた。
(c) 1957年にマラヤ連邦が独立し,1963年にはシンガポール・スマトラと合体してマレーシア連邦になった。だが,シンガポールは1965年に分離・独立した。
(d) アルジェリアでは1954年以来フランスからの独立闘争が激化し,多大な犠牲を生んだが,1962年に独立が達成された。
(e) 1963年にはエチオピアの首都アジス・アベバでアフリカ30か国の首脳会議が開かれ,アフリカ統一機構(OAU)が結成された。

【解答5】2011 中央大学 2/9,統一入試 経済 商 総合政策 法
〔設問Ⅰ〕 
A 墨子 B ジュネーヴ C 満州国 D 台湾
E 朝鮮
〔設問Ⅱ〕 
問1 (e) 問2 (a) 問3 (b) 問4 (c)
問5 (d) 問6 (d) 問7 (c)


センター直前問題演習(12)国際平和 上智大学文2001

2012年01月12日 | 高3用 授業内容をもう一度
2001 上智大学 2/9,1次試験,本学 神学部,文学部(心理学科),経済学部(経営学科)

 戦争と平和思想の歴史に関する次の問(1~25)に,もっともふさわしい答を選択肢(a~e)から選びなさい。

問1 中国の春秋戦国時代に,孔子の説く愛を差別愛として批判し,実利の立場から戦争を無益無用とする非戦論を述べた一派がある。この派の始祖はだれか。
a 孟 子 b 老 子 c 韓非子 d 孫 子 e 墨 子
問2 問1と同じ頃,ギリシアでは喜劇の形で反戦思想を表現した作品が誕生した。それはなにか。
a 『女の平和』 b 『イリアス』 c 『労働と日々』
d 『オイディプス』 e 『神の国』
問3 問2の作品が書かれた頃,地中海世界ではどのような戦いが行われていたか。
a ポエニ戦争 b ペロポネソス戦争
c レペントの海戦 d アクティウムの海戦
e カイロネイアの戦い
問4 古代ローマは,地中海から遠くブリタニアまで覇権を確立し,「パックス=ロマーナ(ローマの平和)」と称される長期にわたる支配秩序を維持した。「ローマ人は無人の地をつくり,これを平和と呼ぶ」というブリタニアの支配者の言葉を紹介するなど,ローマの現状に批判的であった著作家はだれか。
a ポリビオス b プルタルコス c タキトゥス
d リヴィウス e キケロ
問5 キリスト教が中世ヨーロッパの支配的宗教になると,戦争が神の名によって正当化される現象が生じた。イスラム勢力によって支配されていた「聖地イェルサレムの回復」をスローガンに始まった十字軍遠征も,この種の「聖戦」といえるが,十字軍遠征が提唱された会議が行われた場所はどこか。
a ヴァチカン b トリエント c ラテラン
d クレルモン e コンスタンツ
問6 数回行われた十字軍遠征に関係のないものは,次のどれか。
a イェルサレム王国 b セルジューク朝 c ランカスター朝
d ラテン帝国 e ビザンツ帝国
問7 ヨーロッパ中世の教会は戦闘を阻止する役割も果たした。特定期間における領主貴族同士の戦闘禁止を制度化したのは教会である。この制度を何というか。
a 不輸不入権 b 非 攻 c テマ制
d 神の平和 e 不殺生
問8 中世後期になると,農民がしだいに経済力をつけて社会的地位を向上させた。彼らは,困窮した領主が農民への搾取や束縛を強めると,農民一揆を起こすようになった。このように農民が力をつけるようになった要因として,誤っているものを選びなさい。
a 都市や貨幣経済の発達により,自給自足を本質とする荘園制がくずれ始めた。
b 農民の負担が,賦役から生産物地代へ,そして貨幣地代へと変化した。
c ペスト大流行で人口が激減したので,領主は農民の待遇改善を図った。
d 農民は入会地を分割して自己資産を増大した。
e 領主は農民から解放金などを出させ,農奴の身分から解放するようになった。
問9 問8の時代の農民一揆の時に,「アダムが耕し,イヴが紡いだとき,だれが貴族であったか」といって農民たちを扇動したのはだれか。
a ミュンツァー b ジャックリー c フロンド
d フ ス e ジョン=ボール
問10 中世末期から騎士が没落していったが,その一因は,彼らが軍事的な変化についていけなくなったことにあった。当時の軍事的変化としてあてはまるものをすべて選びなさい。
a 火薬が兵器に使われるようになった。
b 主要な戦闘の場が,ヨーロッパから植民地または公海上へと変化した。
c 傭兵制が普及した。
d 騎士の一騎打ちから重装歩兵の戦いへと戦術が変化した。
e 農民に対して徴兵義務制がしかれた。
問11 ルネサンス・宗教改革の時代になると新しい思想や価値観が出現し,対立や紛争も増加した。このような時代に,世の権力者の腐敗を痛烈に批判しつつも,過激を嫌って宗教改革には中立の立場をとり,『平和の訴え』をあらわした人文主義者はだれか。
a モンテーニュ b トマス=モア
c フランシス=ベーコン d ロイヒリン
e エラスムス
問12 問11の人物と密接な交渉をもち,架空の理想社会を描くことでユニークな平和論をあらわした人文主義者がいる。彼は,君主の行いに反対して処刑されたが,その君主はだれか。
a フェリペ2世 b カール5世 c ヘンリ8世
d フランソワ1世 e シャルル9世
問13 16~18世紀になると,西ヨーロッパ諸国の王権は強化され,絶対主義の時代になる。絶対君主がとった統治手段や政策とはいえないものはどれか。
a 重商主義 b 常備軍 c 善隣外交
d 植民地獲得 e 官僚制
問14 絶対主義時代は,新旧両派や絶対主義諸国家間の抗争による「戦争の時代」であった。17世紀前半のヨーロッパにおこった三十年戦争は,ドイツの宗教的内戦として始まり,国際戦争へと発展した。この戦争でカトリック側にたった人物をすべて選びなさい。
a フェルディナント2世 b ヴァレンシュタイン
c リシュリュー d グスタフ=アドルフ
e クリスティアン4世
問15 三十年戦争の惨禍を見たグロティウスは,戦争を阻止するために,勢力均衡と国際法による平和の保持を説いた。このことを記した彼の書物はどれか。
a 『戦争と平和の法』 b 『永久平和論』 c 『永久平和草案』
d 『ヨーロッパ平和論』 e 『法の精神』
問16 戦争に明け暮れた絶対主義時代には,具体的提言を含む平和論が続出した。たとえばアンリ4世は,仲裁裁定と国際常備軍の設置を含む国際平和機構の設立をめざす大計画を構想した。アンリ4世の説明として正しいものはどれか。
a ヴァロア朝の最後の王である。
b 彼個人は新教徒のままであったが,宗教的寛容政策を実施した。
c ユグノー戦争を終結させた。
d サン=バルテルミの虐殺の首謀者である。
e 財務総監コルベールを起用して財政をたてなおした。
問17 ウィリアム=ペンも17世紀末に平和論を著した。彼は,宗教的理由により再三ヨーロッパで投獄されたので,アメリカで信仰の自由を求める人々の植民地ペンシルヴァニアを建設した。絶対平和主義の立場にたつ彼の宗派はなにか。
a カトリック b ゴイセン c ユグノー
d プレスビテリアン e クウェーカー
問18 イエズス会士サン=ピエールは,ユトレヒト講和会議に出席し,全君主連合による平和論を唱え,国際連盟の先駆といえる国際平和機構の設立を主張した。この会議で終結した戦争はなにか。
a スペイン継承戦争 b 南ネーデルラント継承戦争
c 七年戦争 d ファルツ継承戦争
e オーストリア継承戦争
問19 18世紀末には,サン=ピエールの説に影響をうけつつ,専制君主のもとでの平和体制を批判して,より市民的な立場から平和論を説いた有名な書物が,哲学者の手によって書かれた。この哲学者はだれか。
a ロック b ホッブス c スピノザ d カント e ボーダン
問20 平和とはたんに戦争のない状態にとどまらず,人間の精神が圧制・暴力から解放され自由であるような状態でなくてはならない,という認識は18世紀に深まっていたが,19世紀に入り社会主義が誕生すると,社会主義者の多くは,抑圧された労働者階級が社会変革のために起こす革命は「正義の戦い」と認識するようになった。19世紀の社会主義者で後世に大きな影響を与えたマルクスの説明として誤っているものを選びなさい。
a ドイツに生まれたが,後年はイギリスに暮らした。
b ドイツの古典哲学,イギリスの経済学,フランスの社会主義を総合して,自らの社会主義理論を構築した。
c 1848年に『共産党宣言』を単独で発表した。
d 第1インターナショナルの理論的指導者となった。
e バクーニンら無政府主義者とするどく対立した。
問21 帝国主義時代になると,植民地獲得や勢力圏拡大のための抗争が諸国間で過熱した。帝国主義戦争を否定して繰り返し反戦決議をしたものの,第一次世界大戦勃発時に加盟団体の態度が割れ,大戦を阻止できなかった国際組織はどれか。
a 国際仲裁裁判所 b 第2インターナショナル
c 万国平和会議 d 国際赤十字社
e 世界産業労働者同盟
問22 第一次世界大戦は大方の予想を裏切って過酷な長期戦になった。参戦の意志がゆれていたイタリアが加わった側の国をすべて選びなさい。
a ドイツ b アメリカ c ロシア
d 日 本 e ブルガリア
問23 第一次世界大戦後,史上初の国際的平和機構が設立された。この組織の説明として正しいものを選びなさい。
a 組織の名称は国際連合という。
b 侵略者を制裁するための軍事力を持っていた。
c 理事会での当初の常任理事国は,英・米・仏・日の4カ国であった。
d 社会主義国のソ連は最後まで加入できなかった。
e この組織の設立はヴェルサイユ条約に明記された。
問24 第一次世界大戦の惨禍を繰り返さないために,1920年代にはさまざまな国際条約が結ばれた。「国際紛争の解決は武力によらない」という内容の1928年に調印された条約を呼びかけた人物はだれか。
a ウィルソン b シュトレーゼマン c マクドナルド
d ブリアン e クレマンソー
問25 平和を求める心情が戦争肯定にすり替えられがちな「平和のための戦争」論や「正戦」論を克服するには,絶対非戦の平和主義や,良心的兵役拒否,また非暴力的抵抗主義などの行動をとるしかない。この立場にたったとはいえない人物はだれか。
a パトリック=ヘンリ b トルストイ c ガンディー
d ロマン=ロラン e キング牧師

【解答4】2001 上智大学 2/9,1次試験,本学 神学部,文学部(心理学科),経済学部(経営学科)
問1 e 問2 a 問3 b 問4 c 問5 d
問6 c 問7 d 問8 d 問9 e 問10 a・c
問11 e 問12 c 問13 c 問14 a・b 問15 a
問16 c 問17 e 問18 a 問19 d 問20 c
問21 b 問22 b・c・d 問23 e 問24 d
問25 a


センター試験について

2012年01月12日 | 何かの足しになれば
センター試験には私大一般入試と大きく違う点があります。
それは、地理・政経・倫理といった他教科の問題と重複する分野は出題される可能性が低いという点です。
センター試験問題は、2年分まとめて作成されます。さらに他教科と重複する出題は削除されます。受験生に不利益が生じないためです。
したがって、地理で出題されそうな現在の地図や河川・山脈などは出題されることは極めてまれです。また、倫理で出題されそうな思想史もあまり出題されてきませんでした。政経は現在の国際政治や国際経済が主要分野ですし、国際平和機関や現在の軍縮なども世界史と重複する分野になります。
以上のことから、上であげた分野の出題可能性は低いと思われます。センター試験問題で地図問題があまり出題されてこなかった理由もわかります。
しかし、前年度に政経で国際平和について出題されている場合など、今年度に世界史で出題される可能性が高いともいえます。
また、2012年センターに関しては、倫理・政経という新しい、負担の大きな科目が設置されたため、この科目の難易度が下がることが考えられます。世界史にもその影響があると考えられ、倫理で難易度の高い近代以降の西欧思想史などが世界史に回される可能性が考えられます。

以下、河合塾HPかた2011年センター試験の問題分析です。その分野については2012年に世界史に回される可能性があると考えられます。

①倫理
「より善き生への努力」をテーマに、プラトン、孔子、イスラーム教、イエス、ブッダの思想など、東西の源流思想が幅広く問われた。

「友情・公平・連帯」をめぐる二人の会話を本文に掲げ、社会主義思想、サルトル、情報社会の課題、社会保障制度、センの思想など、現代社会の諸問題について出題された。

「寛容」をテーマに、ルネサンスの人文主義、エラスムス、ルター、モンテーニュ、スピノザ、ロック、ルソーなど西洋の近代思想が幅広く取り上げられた。

②政経
財・サービスの自由貿易および労働や資本の自由な国際移動をテーマに、国際経済を中心として、政治分野も加えた総合問題である。問3(需要曲線)では応用力が、問7(比較生産費説)では正確な理解がそれぞれ求められている。問10は2004年度と2008年度の本試験に出題されたゲームの理論が出題されている。

政治のグローバル化をテーマに、国内・国際政治に関する知識を問う問題。

資本主義の発展と経済学説をテーマに、産業革命、アダム・スミスの『国富論』、企業規模別にみた売上高のシェアの図の読取り、1929年の大恐慌とその影響、通貨制度、「小さな政府」、総需要管理政策などが出題されている。

③地理
アフリカの地形(標高)、食文化、家畜分布、貿易、都市、音楽に関する問題である。

東アジアとその周辺地域の自然環境、産業、社会、生活に関する問題。

センター直前問題演習(17)世界遺産 駒沢大学経営2009

2012年01月12日 | 高3用 授業内容をもう一度
2009 駒澤大学 2/9,S方式 グローバル・メディア・スタディーズ 経営 文 法-A(昼主)

 次の文章の   に入る最も適当な語句を下記の語群から選び,その記号をマークせよ。

 地中海世界には数々の文化・文明が花咲いた。その中でもヨーロッパとアジアの間に位置するトルコは,長大な歴史を持ち文明の十字路としての役割を果たしてきた。現在トルコの中心都市であるボスフォラス海峡に臨む 1 は,歴史地域としてユネスコの世界遺産に登録されている。1453年にオスマン帝国のメフメト2世が 2 の都コンスタンティノープルを陥れると,この都市は「イスラーム教徒の町」を意味する 1 と呼ばれるようになったのである。そして, 1 は第10代スルタンの 3 のもと最盛期を迎えたのである。トルコが世界史上において注目を浴び始めたのは,紀元前17世紀頃に都のハットゥシャシュを中心として栄えたヒッタイトの出現であった。 4 と戦車を用いたヒッタイトは,紀元前16世紀初めにバビロン第1王朝を滅ぼし,シリアの覇権をめぐりしばしばエジプトと戦った。特にエジプト王 5 とヒッタイト王ムワタリが戦ったカデシュの戦いは良く知られている。ホメロスの叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』に描かれた 6 戦争の舞台となったトルコ沿岸部に位置する 6 も世界遺産として広く知られている。この遺跡は,ホメロスの叙事詩の内容を事実であると信じたドイツの考古学者 7 によって発掘がなされた。
  6 を包囲し陥落させた英雄たちの出身地であったギリシアにも世界遺産に登録されている遺跡がある。 7 によって発掘されたミケーネもその一つである。ミケーネの南に位置するティリンス,アポロン神殿があり神託で有名なデルフィ,そして紀元前776年以来4年ごとに祭典が行なわれた 8 も世界遺産に登録されている。しかしながら,ギリシアで最も知られた世界遺産は城山の意味を持つアテナイのアクロポリスであろう。アクロポリスには 9 建築の代表として知られているパルテノン神殿がある。
 さらに西方のイタリアには数多くの世界遺産が登録されている。ラテン人の一派によって 10 河畔に建設された都市国家ローマは,先住民であった 11 人を通じてギリシア文化の影響を受けつつ発展し,後にイタリア半島を統一することになる。続いてローマは,地中海西方地域を支配していた 12 人の植民市カルタゴと三度にわたるポエニ戦争を戦った。ローマはカルタゴの将軍 13 によるイタリア侵入によって危機を迎えるが,ローマの将軍 14 によるカルタゴ本国攻撃により攻勢に転じ, 13 を紀元前202年の 15 で破った。地中海世界はローマのものとなったのである。

[語群] 
あ.カーター い.コリント式
う.ダマスカス え.エヴァンズ
お.ルビコン か.ビザンツ帝国
き.ドーリア式 く.フェニキア
け.トトメス3世 こ.大スキピオ
さ.ゴシック式 し.ペルシア帝国
す.スラ せ.ドナウ
そ.エトルリア た.ラムセス2世
ち.シュリーマン つ.カンネーの戦い
て.ポンペイウス と.鉄製武器
な.セリム1世 に.オリンピア
ぬ.サラミスの海戦 ね.イスタンブル
の.ザマの戦い は.カトー
ひ.ケルト ふ.青銅製武器
へ.ハンニバル ほ.トロイア
ま.ティベル み.スレイマン1世


【解答3】2009 駒澤大学 2/9,S方式 グローバル・メディア・スタディーズ 経営 文 法-A(昼主)
1 ね 2 か 3 み 4 と
5 た 6 ほ 7 ち 8 に
9 き 10 ま 11 そ 12 く
13 へ 14 こ 15 の