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中国近代史(戊戌変法~義和団事件)

2014年12月04日 | 高3用 授業内容をもう一度

日清戦争後、清朝政府の衰退と諸外国による勢力の拡大の中で,中国では,日本にならって【立憲君主政】を導入し,制度改革をはかろうとするグループが【光緒帝】の周辺に登場した。その中心となったのが,【公羊学】の【康有為】や【梁啓超】らの知識人であり,こうした制度改革の動きは,【1898】年に【変法自強】をスローガンとした【戊戌変法】となって表面化したが,清朝政府の実権を掌握した保守派の代表的人物である【西太后】らはこの動きを弾圧し、【戊戌政変】という宮廷クーデタを強行した。その結果、康有為は【日本】に亡命し、【光緒帝】は幽閉された。
 日清戦争さらに【三国干渉】後の列強による中国進出は、【山東半島】などに拡大していた。こうした中、キリスト教の宣教師は各地で布教を行っていたが,民衆の間では宣教師の活動への反感が強まり,【1898】年には【義和団】の【仇教運動】という反キリスト教の動きが表面化した。義和団の民衆は,【扶清滅洋】を唱えて【1900】年北京に進出し,列国の公使館地域を包囲した。民衆による【反帝国主義運動】である。保守派【西太后】の独裁政権が支配していた清朝もこの動きに応じて列国に宣戦したため,清朝政府も巻き込んだ戦争状態となった(【義和団事件】または【北清事変】ともいう)。 列国は【日本やロシア】を中心とする【8】カ国連合軍を組織してこれを鎮圧した。しかし、イギリスは【1899】年から始まっていた【南ア戦争】に関わっており、またアメリカも【フィリピン】の【アギナルド】が指した反米闘争の鎮圧に手を焼いていたため、中心的な役割を演じることはできなかった。結局、【1901】年に列強と清朝政府は【北京議定書】 (【辛丑条約】)を結び,多額の賠償金と外国軍隊の【北京への駐屯権】などを認めさせた。
 義和団事件の結果,中国に大量の軍隊を派遣したロシアと日本の対立が深まり,日本は,【1902】年【日英同盟】を結び,ロシアとの戦争にそなえ、【1904】年にはついに戦争となった。日露戦争は,アメリカ大統領【Tローズベルト】の仲介によってかろうじて日本の勝利となり,講和条約としてアメリカで締結された【ポーツマス条約】によって【朝鮮における日本の優越権】や,【旅順・大連の租借権】,【南サハリンの割譲】,【長春・旅順】間を結ぶ【南満州(満州)鉄道】の経営権の譲渡などが締結された。


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