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慶応義塾大学(商)2010東南アジア史

2011年12月31日 | 復習用入試問題
<L128W42> 2010 慶應義塾大学 2/18,A・B方式 商

 次の文章を読み,下記の問いに答えなさい。

 海は古来より陸と陸を隔てると同時に結びつける役割を果たしてきた。海を利用した交易は陸の交易に比べて様々な利点を持ち,インド洋をはじめとするアジア海域世界には (47)(48) 世紀以降本格化するヨーロッパ諸国進出以前から広大な交易圏が成立していた。
 海を利用した遠隔地交易が可能になるためには,自然条件に加えて,航海に関連する技術の発達,交易品の生産地や積み出し港の政治的安定が重要になる。インド洋は季節風を利用した航海が可能であり,すでに(a)紀元後1世紀ごろには東西世界を結ぶ海の道が成立していた。これにより,インドから地中海世界へは胡椒などの香辛料が,地中海世界からインドへは (49)(50) , (51)(52) ,金属細工が輸出された。
 7世紀以降における(b)イスラーム世界の成立は,東西の交易を一層盛んにした。8世紀以降,(c)ムスリム商人はペルシア湾岸の港市を拠点にインド洋に進出し,その活動範囲は南シナ海まで達していた。この時代,広州など中国南部の港町にはムスリム居留地がつくられた。9世紀後半に中国で起こった (53)(54) によりムスリム居留地は破壊され,一時期ムスリムは中国から撤退するが,(d)宋の時代になると海運が一層重要になり,南シナ海の海上交易が再び盛んになった。この時代の海の道は,宋からの代表的な輸出品にちなんで (55)(56) とも呼ばれた。
 13世紀後半に南宋を滅ぼした元朝は,東西を結ぶ陸の道と同様,海の道を軍事的に統制しようとした。このため,ヴェトナムやジャワに大軍を送った。しかしヴェトナムでは敗退し,ジャワでも一度は (57)(58) 朝を崩壊に導くが最終的にはジャワ軍に撃退され,これを契機としてジャワでは (59)(60) 王国が成立した。
 明は14世紀後半から海禁政策をとったが,15世紀のはじめ, (61)(62) はムスリムの宦官,(e)鄭和を東南アジアやインド洋沿岸各地に派遣した。しかし (61)(62) の死後,明の対外政策が消極的になったため,鄭和の海の統制政策は長続きしなかった。
 イスラーム世界ではアッバース朝の成立以降,バグダードを中心とする海上交易,陸上交易が発達していたが,9世紀後半から各地で事実上の独立王朝が成立し,政治的に不安定な状態が続いた。それにともない,イスラーム世界の中心が,バグダードからエジプトに移動した。これにより,(f)インド洋と地中海を結ぶ交易ルートもペルシア湾から紅海へと変化した。
 東南アジアはインドと中国を結ぶ海路の中継地であるとともに,陸上交通が不便で海や河川の道による結びつきが強く,早くから水運を柱とした国家が形成されてきた。その代表例として,7~14世紀にかけてスマトラ島のパレンバンを中心にした港市国家連合である (63)(64) ,11世紀に成立し,雲南とベンガル湾を結ぶ交易で繁栄した (65)(66) 朝があげられる。インド洋に進出したムスリムの影響により,13世紀にはスマトラ島北部からイスラーム化が始まった。特にマラッカ王国は中国との朝貢貿易を行う一方,国王がイスラームに改宗してムスリムとの関係を深めた。このため,マラッカは中国商人がもたらす絹や陶磁器,ムスリムがもたらす香辛料,宝石,鉄,ジャワの商人がもたらす (67)(68) 諸島の香辛料により海上交易の中心のひとつとなった。
 東アフリカ沿岸では,8世紀からムスリム商人が来航し,12世紀までにマリンディ, (69)(70) , (71)(72) などの港市国家にムスリム居留地が成立した。その結果,(g)バントゥー系文化とイスラーム文化の融合が見られるようになった。

問1 文中の空欄 (47)(48) ~ (71)(72) にあてはまる最も適当な語句や数字を下記の語群から選び,その番号を解答用紙A(マークシート)の解答欄 (47) ~ (72) にマークしなさい。 (49)(50) と (51)(52) , (69)(70) と (71)(72) は順不同。
11 十四 12 十六
13 十八 14 アチェ
15 アユタヤ 16 アンダマン
17 永楽帝 18 ガラス
19 絹織物 20 キルワ
21 金貨 22 紅巾の乱
23 黄巾の乱 24 黄巣の乱
25 洪武帝 26 香料の道
27 小麦 28 塩の道
29 シャイレンドラ 30 シュリーヴィジャヤ
31 ジョホール 32 シンガサリ
33 ジンバブエ 34 正統帝
35 象牙 36 チャンパー
37 唐辛子 38 陶磁の道
39 トンブクトゥ 40 パサイ
41 パガン 42 バンテン
43 ポンディシェリ 44 マーシャル
45 マジャパヒト 46 マタラム
47 マラケシュ 48 モルッカ
49 モンバサ

問2 下線部(a)~(g)について以下の設問(1)~(7)に答えなさい。ただし,解答はすべて解答用紙Bの所定の欄に記入すること。

(1) 下線部(a)について,後1世紀にエジプトで書かれ,インド沿岸やアフリカ東岸について詳しい記述がある書物の名前を解答欄に記入しなさい。

(2) 下線部(b)について,イスラーム世界の成立とほぼ同時に中国で起こり,結果として東西交易を盛んにした政治的出来事は何か,10字以内で説明しなさい。

(3) 下線部(c)について,インド洋で主に西アジアのムスリム商人に利用されていた船の名前を解答欄に記入しなさい。

(4) 下線部(d)について,この時代中国で海運が重要になった理由を20字以内で説明しなさい。

(5) 下線部(e)について,鄭和による遠征は明への朝貢を促すこと以外にどのような目的があったのかを15字以内で解答欄に記入しなさい。

(6) 下線部(f)について,アイユーブ朝とマムルーク朝において,インド商人とイタリア商人の間で香辛料交易の仲介を行うことで利益を上げたムスリム商人集団は何と呼ばれているか,解答欄に5文字で記入しなさい。

(7) 下線部(g)について,バントゥー系文化とイスラーム文化の融合により成立した文化を何と呼ぶか,解答欄に記入しなさい。

【解答2】<L128W42> 2010 慶應義塾大学 2/18,A・B方式 商
問1 (47)(48) 12 (49)(50),(51)(52) 18,21 (順不同)
(53)(54) 24 (55)(56) 38 (57)(58) 32 (59)(60) 45
(61)(62) 17 (63)(64) 30 (65)(66) 41 (67)(68) 48
(69)(70),(71)(72) 20,49 (順不同)
問2 (1) エリュトゥラー海案内記 (2) 唐の西域支配
(3) ダウ船
(4) 遼や西夏が内陸交易路を遮断したため。
(5) 南海の珍しい品を入手するため。
(6) カーリミー (7) スワヒリ文化


戦後ドイツ史 06慶応(文)

2011年12月31日 | 復習用入試問題
 次の文章を読んで空欄( A )~( E )に適当と思われる語句を記入し,下線部(F)~(J)に関連する設問に答えなさい。06年慶應義塾大学 文学部

 第二次大戦末期の1945年,ヒトラーはベルリンで自殺し,ドイツは国家としてほぼ壊滅状態となった。同年7月に行われた(F)ポツダム会談では,ドイツの非武装化や非ナチ化などと共にドイツの戦後処理について協議され,新たな民主主義的政府の樹立まではドイツを戦勝国によって占領管理すること,経済的にはドイツを統一地域として扱うこと,そして中期的には中央行政機関を設立することなどの協定が結ばれた。その結果,ドイツはアメリカ,イギリス,ソ連,フランスの四つの占領地区に分けられ,地理的にはソ連占領地区に属するベルリンも四国によって分割管理されることになった。しかし,連合国によるこの占領体制にはすでに戦後世界をめぐる東西対立が影を落としていた。
 大戦によって甚大な被害を蒙ったソ連はドイツに多大な賠償を求め,その占領地区では非ナチ化が徹底され,大土地所有の解体や大工業,銀行などの国有化が行われた。また,ドイツ共産党を中心に( A )が結成された。他方,英米仏の西側占領地区では,(G)主要な戦犯が裁かれた以外には非ナチ化は不徹底に終わり,資本主義市場経済を基礎とする経済復興が優先された。この経済復興を名目として西側三国は1948年,西側占領地区で通貨改革を行い,新通貨の導入を決定した。ソ連はこれを協定違反として非難し,東側占領地区に独自の通貨を導入するとともに,西側地区とベルリンとの交通を遮断した。西側諸国はこの危機をベルリンへの大規模な物資空輸で乗り切った。この間,西側占領地区では連邦制と議会主義を柱とするドイツ基本法が採択され,( B )を首都とするドイツ連邦共和国が成立した。これに対して東側占領地区では人民民主主義に基づく憲法が制定され,議会において( A )が独占的地位を占めるドイツ民主共和国が創設された。
 建国後の西ドイツに長期安定政権を樹立し,その発展を導いたのは,初代首相に選出された( C )であった。彼はドイツ連邦共和国を一貫して西側陣営の一員として位置づけ,その経済的発展と国際的地位の向上を図った。アメリカの(H)マーシャル=プランによる豊富な経済支援もあって西ドイツは飛躍的な経済発展を遂げ,その積極的な「西向き外交」によって1954年には国家主権を回復した。と同時に西ドイツは対ソ軍事同盟( D )の一員となり,再軍備の道を歩んだ。
 他方,東ドイツではソ連から多大な賠償を迫られ,基幹産業の施設の多くが現物賠償としてソ連へ搬出されるなどの悪条件の下で経済復興が行われた。中央集権化が進む中,重工業化や農業の集団化が行われたが,東ドイツは60年代始めにはもはや西ドイツのライバルではなかった。西ドイツの飛躍的な経済発展に自由と繁栄を期待し,多くの人々が四カ国占領体制の続いていたベルリンを経由して西側へ脱出した。この人口流出を食い止めるため,東ドイツ政府は1961年ベルリン市街地を貫通する壁を建設した。西側諸国はソ連との軋轢を回避したため,両ドイツは分断されることになった。
 この壁の構築により人口流出に歯止めがかけられた後,東ドイツの社会主義計画経済は軌道に乗りはじめた。すでに企業などの国営化を完了していた東ドイツは,「科学技術革命」や「新経済体制」のもと計画経済の緩和や能力主義の導入などによって社会的流動性を高め,ソ連東欧諸国だけでなく西側諸国との貿易を軸に経済成長を遂げた。70年代には生活水準も西ドイツには及ばないまでも,かなり向上した。この経済発展を背景に東ドイツは1973年西ドイツとともに国連に加盟し,74年の憲法改定では自国を独立国家として位置づけるまでになった。しかし,チェコ事件を始めとする東欧の混乱に対する警戒から経済改革は短命に終わり,統制経済が復活した。一党独裁体制のもとで経済成長と国民生活の向上とを共に追求するこの政策はやがて80年代に入ると大きな財政問題に直面する。
 他方,西ドイツでは60年代半ばになると経済発展にもかげりが見られ,戦後最初の不況を経験した。また,久しく続いた保守政治への不満が鬱積し,ヴェトナム戦争などをきっかけに学生の反体制運動となって噴出した。60年代末に政権に就いた社会民主党のブラントは西ドイツの歴史に新たな局面をひらいた。彼は積極的な( E )を展開し,東ドイツを独立国家として認め,東ドイツとの共存関係を樹立すると共に,ソ連東欧諸国とも関係を大幅に改善した。また(I)ブラントはドイツの戦争責任の問題とも積極的に取り組んだ。ワルシャワを訪問した彼がユダヤ人犠牲者追悼碑の前に跪き,首相として謝罪の意を表した姿は全世界に深い感銘をあたえた。ブラントの後を継いだシュミット社会民主党政権は,石油危機による世界的経済不況や,過激派のテロなどに直面したが,大きな混乱を回避し,ブラントの路線を継承しつつ経済的にも安定を保った。
 80年代半ばになると,これまでの東西ドイツの歴史は,ソ連共産党書記長ゴルバチョフの登場によって大きく転換することになる。ゴルバチョフは(J)ソ連の民主化を推進し,軍事力を削減して経済再建をはかるなどの大規模な改革を実行したが,その改革は東欧世界にも決定的な影響をあたえた。そのような影響のもと1989年の夏,ハンガリー政府がオーストリアとの国境を開くと,東ドイツではハンガリーを経由して西側に脱出するひとびとが増え,国内でも民主化を求める大規模なデモが行われた。東ドイツ政府は新政権を発足させたが,事態を収拾できず,流出するひとびとの数は増大し,ついには東西ドイツ間の交通制限が解除され,ベルリンの壁は意味を失った。東ドイツ政府は事実上統制力を失い,ソ連も東ドイツへの軍事的影響力の行使を放棄していたので,西ドイツのコール政権は一挙に統一に向けて動き,1990年10月,西が東を吸収合併するかたちでドイツは統一された。

設問(F) ポツダム会談に参加したアメリカ合衆国の代表は誰か。

設問(G) 連合国が主なナチス戦犯を裁いたこの裁判を何というか。

設問(H) この通称「マーシャル=プラン」の正式名は何か。

設問(I) ドイツの戦争責任について,ブラントの精神を継承し,「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在に対しても盲目になる」という名言を残したドイツの大統領は誰か。

設問(J) ゴルバチョフのこの改革を何というか。


【解答】 
(A) 社会主義統一党 (B) ボン
(C) アデナウアー (D) NATO [北大西洋条約機構]
(E) 東方外交 (F) トルーマン
(G) ニュルンベルク裁判 (H) ヨーロッパ経済復興援助計画
(I) ヴァイツゼッカー
(J) ペレストロイカ


2004慶應(経済)第1次大戦後のエジプト・インド

2011年12月31日 | 復習用入試問題
E128W33
2004年 世界史 慶應義塾大学 2/17,B方式,本学 経済

【3】 

 第一次世界大戦前後の国際情勢について述べた次の文章を読んで,以下の問15~問17に答えなさい。

 19世紀後半以降,強大な工業生産力を有する列強諸国は政治的・経済的支配権の一層の拡大強化をはかり,植民地を求めて海外への進出政策を加速した。A列強諸国による世界諸地域の分割は,各国間の利害関係の対立を激化させた。一方,列強諸国により占領された地域においては,19世紀末以降,B民族としての意識が高揚し,独立や改革をめざした運動が各地に見られた。
 こうした情勢のなかで第一次世界大戦が始まり,4年以上にわたる戦闘が繰りひろげられた。1919年1月に開催されたパリ講和会議において,大戦後の平和と国際関係の安定化がめざされたが,C戦勝国の利益を優先させた戦後処理は,各国に引き続き混乱をもたらした。

問15 下線部Aに関連する以下の文章を読んで,文中の空欄( a )~( d )にあてはまる適切な語句を,それぞれ解答欄に記入しなさい。

 1881年,イギリスやフランスによる内政干渉に反対する( a )がエジプトで蜂起したが,1882年にイギリスはこれを鎮圧して,事実上エジプトを支配下においた。さらに南ア戦争(ボーア戦争)で勝利を収めた後,イギリスは自治領南アフリカ連邦を発足させ,南北アフリカとインドを結ぶ広大な領域における支配権を確立しようとした。( b )と呼ばれるイギリスのこの基本方針は,アフリカ大陸を東西に横断するかたちで占領をすすめたフランスと当初対立した。しかしイギリスは,皇帝( c )のもと「世界政策」と呼ばれる積極的な対外進出をはかるドイツを牽制しようとし,フランスとの融和政策に転じた。1904年に英仏両国は英仏協商をとり結び,フランスはエジプトでのイギリスの優位を,イギリスは( d )でのフランスの優位を相互に確認した。

問16 下線部Bに関連して,インドと中国についての以下の問(1),(2)に答えなさい。
(1) 次の文中の空欄( a )~( c )にあてはまる適切な語句を,それぞれ解答欄に記入しなさい。

 19世紀後半,インドではイギリスによる植民地経営が行なわれていたが,民族資本の蓄積がすすむとともに次第に民族意識が高まり,1885年にはボンベイで( a )が結成された。20世紀に入ると反英の気運が高まり,これを抑えこむために,イギリスは1905年,( b )を公布してヒンドゥー・イスラム両教徒の分裂をはかった。それに対し,ティラクら民族運動指導者の下で抵抗運動が激しくなり,1906年には( c ),スワデーシー(国産品愛用),スワラージ(自治獲得),民族教育の4大綱領が採択され,民族独立運動が進展した。

(2) 次の文中の空欄( a )~( c )にあてはまる適切な語句を,それぞれ解答欄に記入しなさい。

 第一次世界大戦が始まると,日本は中国の( a )政権に対して,ドイツが山東省に保有していた利権の譲渡など,二十一ヵ条の要求を突きつけ,その大部分を受諾させた。中国側はパリ講和会議においてその無効を主張したが,これが拒否されると,北京大学の学生を中心とした抗議デモが起こり,日本製品の不買など,( b )と呼ばれる全国規模の排日運動に発展した。一方,文化・思想の分野においては,1915年に陳独秀らによって創刊された雑誌『( c )』などが主導する形で,新しい文化を創造するための啓蒙的活動が見られた。

問17 下線部Cに関連して,ドイツに関する以下の問(1),(2)に答えなさい。
(1) 第一次世界大戦後,敗戦国ドイツの経済は著しく疲弊していたが,ドイツの賠償支払いの不履行を理由として,1923年にドイツの工業生産を大きく低下させる出来事が起きた。この出来事の内容と,それに対するドイツ側の反応を簡潔に記しなさい。

(2) (1)の出来事の後,インフレーションが激化した。これを収拾するため1923年に実施された経済措置について,その措置を講じた首相の名前と,その措置の内容を簡潔に記しなさい。


【解答3】 
問15 A
(a) アラービー=パシャ (b) 3C政策
(c) ヴィルヘルム2世 (d) モロッコ
問16 B
(1) (a) インド国民会議 (b) ベンガル分割令
(c) 英貨排斥
(2) (a) 袁世凱 (b) 五・四運動
(c) 新青年
問17 C
(1) フランスとベルギーはルール工業地帯を占領した。ドイツ側は,ストライキなど消極的に抵抗しただけ。
(2) シュトレーゼマン。新たに土地資産を担保としたレンテンマルクを発行し,1兆マルクと1レンテンマルクを交換した。