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琉球の歴史からみる世界史(4)

2006年11月30日 | 高校1年生用
琉球の歴史からみる世界史(4)・・・沖縄まるごと大百科②沖縄の歴史 ポプラ社より

(11)琉球処分
 260年あまりつづいた徳川幕府は、1867年に政権を天皇に返し、この大政奉還によって江戸幕府は滅亡しました。翌1868年には、明治新政府がスタートしました。1871年に明治政府は、大名が支配してきた藩をなくし、全国に府と県をおく「廃藩置県」をおこないました。
 そのような時期に、1871年12月、宮古の船が台湾の東海岸に流れつき、乗組員66人のうち54人が台湾島民に殺される事件がおこりました。日本政府は台湾に出兵し、清朝からの抗議に対して、「琉球は日本に属する」ことを清朝にみとめさせました。
 日本政府は、1875年に「中国の冊封を受けないこと」「藩政を他の府県と同じようにすること」など、政府の命令を伝えました。このことは琉球が日本の県の一つになることです。琉球はこれを拒否しましたが、1879年3月、松田道之が400人の兵士をひきいて首里城に入り、「琉球藩を廃止し、沖縄県をおく」ことを命じました。琉球と中国の反対をおしきって強行された、こうした一連の政策を、「琉球処分」といいます。これに反対する士族のなかには、支援をもとめて、中国にのがれていく者もいました。
 
(12)大正・昭和の時代(ソテツ地獄と海外への移民)
 ヨーロッパで始まった第一次世界大戦(1914年~1918年)は、日本に好景気をもたらしました。世界の砂糖も不足し、価格があがったことで、沖縄も好景気になりました。当時、沖縄県民60万人のうち、約70%の人が農業についていましたが、ほとんどの農家がお金になるからといって、米やイモを植えていた土地をサトウキビ畑にしてしまいました。そのため、戦争が終わって好景気が去ると、たちまち砂糖が余り、県民の食糧が不足しました。ソテツの実は有毒であることを知りながら、ほかに食べるものがなかったため、毒ぬきが不十分なまま、それを食べて中毒死する人もいました。これを「ソテツ地獄」といいます。
 
 こうしたソテツ地獄からのがれようと、新天地をもとめて海外へ出ていく人もたくさんいました。沖縄県からの移民は、第一次世界大戦後から移民は急増し、第二次世界大戦までに7万2000人が海外へ移住しました。移民先はハワイのほか、ブラジル、ペルー、アルゼンチン、メキシコなど中南米の国ぐにのほか、カナダやフィリピンなど21か国におよびました。

 沖縄県からの移民は、日本全体の11%にもなり、「移民県」とよばれました。かれらはなれない土地での生活にたえながら、はたらきつづけ、沖縄の家族に送金しました。その額は、1929年には沖縄県の歳入(収入)の約66%に相当しました。移民からの送金が、家族と沖縄県をささえたのです。

(13)太平洋戦争と沖縄戦
 1937年に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が本格化すると、日本は石油などの資源をもとめて、東南アジアへ侵略を開始しました。当時は、フランスがヴェトナムを、イギリスがミャンマーやマレーシアを、オランダがインドネシアを、アメリカがフィリピンを植民地にしていました。
 これに対して、日本はイギリスやアメリカ、フランスなどヨーロッパ強国による植民地支配からアジアを解放し、アジア民族がともにさかえるようにという「大東亜共栄圏」を訴えました。しかしじっさいは、日本の支配下におこうとするものです。

琉球の歴史からみる世界史(3)

2006年11月30日 | 高校1年生用
琉球の歴史からみる世界史(3)・・・沖縄まるごと大百科②沖縄の歴史 ポプラ社より

(8)中国と日本の支配下へ
 朝貢貿易により、さかえていた琉球王国にとって、①豊臣秀吉の朝鮮出兵は、大きな問題を投げかけてきました。琉球は秀吉の命令を一度はことわりましたが、衝突をさけ、要求された金銀の半分を送ることにしました。1603年に②江戸幕府が誕生すると、徳川家康は中国との貿易をのぞみ、琉球にその仲介役を期待しました。しかし、琉球王国は幕府の意図に従いませんでした。そこで③薩摩藩の④島津氏は、家康の許しをえて1609年3月、100隻の船と3000の兵でもって琉球に攻めいりました。長いあいだ、武器をもってたたかうことをしてこなかった琉球王国は、4月1日、はげしく抵抗することなく降伏し、琉球王尚寧は薩摩に連れていかれました。
 
 こののち島津氏は琉球に奉行所をおき、中国貿易やポルトガル船、スペイン船の監視をしました。琉球王国は、中国との関係をたもちながら、江戸幕府の支配体制のなかにくみこまれるという二重外交をせざるをえなくなります。
 江戸時代、琉球は将軍の代がかわるときに⑤慶賀使を、琉球国王がかわるときは⑥謝恩使を、江戸に送りました。こうした「江戸上り」は1634年から1850年までに、18回おこなわれました。

 一方、中国の皇帝は琉球国王の地位をみとめ、中国を中心とした世界にくみこむ「⑦冊封」体制の中に琉球王国を組み込んでいました。琉球国王が代わるたびに中国から⑨冊封使が送られました。琉球国王は中国の皇帝のもとに使節を送り、忠誠をちかいました。中国とこうした冊封関係をむすんだ国は、琉球のほかに朝鮮、ジャワ(現インドネシア)、シャム(現タイ)、マラッカ(現マレーシア)、アンナン(現ベトナム)など10数か国ありました。これらの国を⑧朝貢国とよびます。
 薩摩藩の支配のもとに入ってから、琉球王国の財政は年々、苦しくなっていきました。収入の大半は薩摩に年貢として取られ、借財はふくれあがっていたのです。

(9)産業と文化の基礎の発展
 17世紀はじめ、島津氏の侵入により、琉球王国が混乱しているなか、2つの農作物がもたらされました。ひとつはイモ、そしてもうひとつはサトウキビです。イモは、農民の常食となり、飢饅のときもしのぐことのできる画期的な農作物となりました。のちに、このイモは薩摩藩にわたり「サツマイモ」として日本全国に広まりました。また、1623年には、砂糖の製造方法を中国から学びました。サトウキビは沖縄の風土にあい、急速に広まりました。砂糖は王府の重要な交易品となり、薩摩にもはこばれ、日本各地に送られました。
 
 17世紀から18世紀にかけて、琉球王国の現状をとらえ、いかにたてなおすかを考え、努力をした2人の政治家がいました。歴史書『⑩中山世鑑(チュウザンセイカン)』を著した⑪羽地朝秀と察温です。かれらの努力により、王国の政治が安定し、文化面でも大きな発展が見られました。 
この頃、歌謡集『おもろさうし』の編集がほぼ完成しました。各地に伝わる「オモロ」という歌謡を集めたもので、沖縄の『万葉集』ともいわれています。全22巻、1554首がおさめられました。また、陶器や漆器、織物、染織などにおいて、琉球独自の作風が生みだされたのです。音楽では、サンシン(三線)が発達しました。

(10)ペリーの来航
 19世紀に入ると、近海には西洋の船が頻繁にすがたをあらわすようになりました。1797年に、イギリス海軍のプロビデンス号が宮古島沖で遭難し、島民に救助されました。艦長のブロートンは、『北太平洋探検航海記』をあらわし、琉球人の友好的な態度をほめ、日本との貿易の中継地として琉球が適しているとしるしています。1816年には、イギリスの艦船アルセスト号とライラ号が那覇港に入り、40日間とどまりました。ライラ号の艦長バジル=ホールは、のちに『朝鮮西海岸および大琉球島探検航海記』をあらわしました。

 ⑫1853年5月26日、⑬ペリーがひきいるアメリカの軍艦4隻が、那覇港に入港しました。ペリーは、日本との交渉に失敗したら、琉球を占領するつもりでいました。ペリーは「奴隷のように苦しんでいる」住民を、薩摩支配から解放し、生活を向上させることができると考えていたのです。1854年3月、ペリーは幕府と「日米和親条約」をむすび、その後、琉球とも「琉米条約」をむすびました。これにより、アメリカの船は、いつでも自由に那覇港に寄ることができるようになりました。

琉球の歴史からみる世界史(2)

2006年11月30日 | 高校1年生用
琉球の歴史からみる世界史(2)・・・沖縄まるごと大百科②沖縄の歴史 ポプラ社より

①第一尚氏の系図
尚巴志(1422)→尚忠(1440)→尚思達(1443)→尚金福(1450)→尚泰久(1454)→尚徳(1461)1470年に第1尚氏から尚円が政権を奪い、②第2尚氏王朝を建国しました。

(6)15~16世紀の琉球王国
15~16世紀ごろの琉球王国は、独立国として中国や東南アジア諸国、朝鮮、日本などと交易をしていました。琉球王国は③那覇港からは各国に貿易船を送り、中継貿易でさかえ、王国の最盛期をむかえました。④首里城はその繁栄のシンボルでもあったわけです。
琉球王国は明(中国)と、朝貢貿易の形をとっていました。周辺の国ぐにが明に朝貢した回数は、1位が琉球で171回、2位がベトナムで89回、3位がチベットで78回と、朝鮮は30回、日本は19回です。

琉球王国は明のほかにも、東シナ海や南シナ海へくり出し、朝鮮や日本、東南アジアとの交易をおこなっていました。琉球からの輸出品は、硫黄や砥石、馬などしかありませんが、中国の生糸や絹織物、陶磁器、日本の刀剣や美術工芸品、朝鮮のニンジン、東南アジアの香辛料、染料、象牙などを買いいれて、それを別の国に売るという中継貿易によって巨大な利益をあげていたのです。
 琉球王国は約150年間にわたり、中継貿易でさかえていました。しかし、西ヨーロッパ諸国が大航海時代を迎えた16世紀の中ごろから、東シナ海には⑤ポルトガル船をはじめ、中国や日本の商船が進出するようになり、国際競争の時代をむかえました。そして琉球王国の繁栄にも、かげりが見えてきました。

(7)琉球王国のシンボル、首里城
 首里城は那覇市の東北、標高約130mの丘の上にありました。いつ、だれが、最初に首里にグスクをきずいたのかわかっていませんが、13世紀末ごろではないかと考えられています。首里城は、尚巴志によって王宮としてととのえられ、15世紀末の尚真の時代に、正門である歓会門がたてられるなど、城としての品格をそなえていきました。次の尚清の時代に、城壁を二重にしました。このころ東西400m、南北270m、総面積4万6000㎡の首里城の大きさが確定しました。これは琉球最大のグスクです。首里城は東シナ海や中国をのぞむことのできる西向きにたてられています。国王が壇の上に立ったとき、ちょうど太陽が出る東側に、国王が位置するようにしてあるのです。

 城郭の中心に、国王がまつりごとをおこなう正殿と、中国からの使節をむかえるときに使う広場(御庭)があります。正殿は3階建てで、高さ16.3mあり、四方に屋根がのびる入母屋造りです。柱や屋根など、至るところに中国風の竜のかざりがめぐらされています。日本や中国、琉球の技術がとりいれられた建物です。


琉球の歴史からみる世界史(1)

2006年11月30日 | 高校1年生用
琉球の歴史からみる世界史(1)・・・沖縄まるごと大百科②沖縄の歴史 ポプラ社より

(1)「港川人」が暮らしていた時代
 アジア大陸の東の海上に、九州から台湾につらなる大小190あまりの島じまがあります。これらの島を総称して、「②琉球列島」とよんでいます。この琉球列島に人類が住みはじめたのは、今から3万年~2万年前とされています。そのころは、①氷河期にあたり、海面は今よりもずっと低いところにありました。そのため琉球列島の南のほうも、台湾や中国大陸と地つづきでつながっていました。この時代の旧石器時代といいます。その人骨約7人分が、バラバラの状態で発見され、「③港川人」とよばれています。男性は身長約153cm、女性は約143cmで、脳の大きさは現代人の80~90%くらいで、やや小さめです。港川人は、中国南部やインドネシアのジャワ島から出土した旧石器人骨と似ているとも、また縄文人の先祖のひとつであるともいわれています。

(2)「琉球列島」の出現
 今から約1万年前、地球上の気温があがり、海面が上昇しました。また地殻の変動もおこり、日本海や東シナ海があらわれ、日本列島や沖縄の島々もでき、やがて現在のすがたになりました。ただし、港川人がいた時代から約1万年間、沖縄では人がくらしたあとは発見されていません。その後の琉球の遺跡から発見されている④爪形文土器は、指や爪で文様をつけた土器で、沖縄でつくられていたと思われますが、縄文土器の影響を受けていたとみられます。この時代を⑤貝塚時代と呼びます。

(3)九州や中国との交流
 前800年~前200年には、それまで海の近くの岩かげなどでくらしていた人びとは、台地に竪穴住居をたてて住み、小さなムラをつくるようになりました。そのため、このころから畑作農耕がおこなわれていたという説もあります。前200年~紀元後200年ごろには、九州からやってきた⑥弥生人とのあいだで、交易がおこなわれていました。沖縄産の貝でつくられたアクセサリーが、九州や中国地方で見つかっています。また、沖縄の遺跡からは、中国の貨幣も出土していることから、中国とも交流していたことがわかります。

(4)稲作が始まり、有力な「按司」が登場
 沖縄で稲作が始まったのは、l1世紀ごろと考えられています。稲作が行なわれた新しいムラに指導者があらわれ、やがてまわりのムラをもしたがえる力の強い支配者が生まれました。このような人を「⑦按司(アジ)」とよびます。かれらは、祭りをノロとよばれる神女にまかせました。ノロは祖先神をはじめ海、山、水など、もろもろの神が天からおりてくる御嶽(ウタキ)とよばれる聖地で、お祈りや祭りをしました。ときには政治の方針をうらなうこともありました。
 12世紀後半から15世紀にかけて、沖縄島をはじめ、奄美、宮古、八重山などで石垣をめぐらせた⑧グスク(城)がつくられました。その数は300あまりです。グスクは按司の領地や領民を守るための拠点となったり、人が住むためにつくられたグスクや、倉庫としてつくられたグスクもあります。首里城などの大型グスクは2000年12月、関連遺産群とともに、世界遺産に登録されました。このように、各地にグスクがつくられた時代を「グスク時代」とよびます。


(5)尚巴志が琉球を統一「琉球王国」が成立
 14世紀になると、沖縄本島には中国や朝鮮、日本との交易によって、力をたくわえた強力な按司があらわれました。本島北部の今帰仁城(ナキジン=グスク)による③北山、本島中部の⑥首里城による④中山、本島南部の大里城による⑤南山の3つの勢力です。
 明を建国した中国の洪武帝は、琉球を属国にして、貢ぎ物をおさめさせようとしました。これを⑦朝貢制度といいます。1372年、中山王察度が最初に朝貢をしました。ほかの王も朝貢し、それぞれ北山王、中山王、南山王の王号をあたえられました。三山とも朝貢にともなう中国との貿易により、おおいにさかえました。
このころ、南山の一按司だった⑧尚巴志(ショウアハシ)は、1406年に中山王をやぶり、1416年に北山王を、1429年に南山王をたおし、琉球をはじめて統一しました。これを第1尚氏の琉球王国といいます。

古代中国史(3)秦漢  同志社大学

2006年11月30日 | 復習用入試問題
 次の文章を読み,文中の(a)~(P)には〔語群〕からもっとも適当な語句を選び番号を記入し,文中の《ア》~《工》にはもっとも適当な語句を記入しなさい。また,問1~問3に対する答えを記人しなさい。同志社

 紀元前11世紀ころ殷を滅ぼした周は,「封建」という統治のしかたを導入した。周王は,一族・功臣らに《ア》と呼ばれる土地を与えて諸侯とし,その諸侯を統制することで全土を支配しようとした。王や諸侯は卿・大夫・(a)という家臣団をもうけた。周王の権力は,諸侯らの任命権と,血縁関係にもとづいて身分秩序を定めた(b)によって維持された。周王の権威は,その王朝が(C)によって天下の統治をまかされているという思想に支えられていた。したがって王朝が徳を失えば,代わりに別の者が天子として代々統治していくようになる。こうした王朝交代の理論を(d)という。
 紀元前771年に犬戎によって首都鎬京を攻略された周は,東の洛邑に遷都した。これを境に周の力は衰え,前3世紀後半まで諸侯が争う時代が続いた。その前半である春秋時代には,まだ周王の権威は残っており,各地の有力諸侯は周王を中心とする(e)を唱え,中原,すなわち(f)中・下流域の平原をめぐって争った。しかし7世紀末には,(9)流域に勢力をもった楚が覇権を握るにいたって,周王の権威は失墜していった。戦国時代になると,力をつけた諸侯は王を自称するようになり,戦国の(h)とよばれる強国が互いに争うようになった。(1)春秋・戦国時代には多様な新思想がうまれ,《イ》と総称される多くの思想家や学派が登場した。
前221年,西方の秦が中国を統一した。秦王の(i)は,王に代えて「皇帝」という称号を採用し,「始皇帝」と名のった。全国の地域を区分して官吏を直接中央から派遣する《ウ〉を実施するなど,(2)始皇帝は強力に中央集権化をおしすすめた。しかし始皇帝の死後まもなく各地で反乱がおこり,秦は統一からわずか15年でほろんだ。各地の反乱勢力の中から,力をつけた(j)が中国を統一して皇帝の位につき,漢王朝をたてた。
 同皇帝は新都(k)を建設した。漢ははじめ封建制を併用していたが,(l)の乱(前154年)を平定したのを契機に,中央集権体制を確立した。第7代皇帝である《工》の時代には,(3)大規模な対外戦争をおこなった(前2世紀後半)。秦から漢の初期にかけては(m)や道家の思想が力をもったが,同皇帝の時代には(n)の提案で儒学が官学となり,主要な経典として(0)が定められた。しかし遠征などによる財政難に加え,宮廷内で盲官や外戚が権力を争うようになるなど,皇帝の権威は急速におとろえ,ついに紀元後8年,外戚の(P)が国をうばって新をたてた。
〔語群〕
1.宗法 2.冊封体制 3,祭政一致 4、易姓革命 5.尊王懐夷 6.大命 7.神農 8.士 9.公 10.政11,鄒衍 12.劉邦 13.劉秀 14.項羽 15.董仲舒 16.張騫 17、王莽 18.法家 19.兵家 20.黄河 21.長江 22.咸陽 23.長安 24.楽浪 25.陳朝 26.南越 27.陳勝・呉広 28.呉楚七国29.五覇 30.七雄 31.四書 32.五経

問1.下線部(1)に関連して,この時代に生まれた思想や学派についての次の記述のうち,誤っているものを1つ選び,番号で答えなさい。
1.孔子は,社会の秩序の基礎を,家族道徳の実践によって完成される「仁」においた。
2.孔子の思想は,孟子や荀子などの春秋時代末期の儒家たちによってうけつがれた。
3.道家は,無為自然を説き,「道」に合一することを求めた。
4.墨子の学派は,血縁をこえた無差別の愛を説いた。
問2,下線部(2)に関連して,始皇帝の中央集権化に関係のないものを,次の選択肢から1つ選んで,番号で答えなさい。
1.民間の兵器を没収した。 2.全国の標準となるべき文字を制定した。 
3.焚書・坑儒による思想統制をおこなった。 4.均輸・平準などの経済統制策を実施した。
問3.下線部(3)に関連して,次の選択肢から,この時期の漠の対外戦争の記述として誤っているものを1つ選び,その番号を記しなさい。
1.北方では鮮卑を攻撃して,オルドスや甘粛にも勢力をのばした。
2.西域の大宛(フェルガナ)にまで遠征した。
3.東北地方では衛氏朝鮮をほろぼして楽浪などの4郡をおいた。
4.南方では南越をほろぼして,ベトナム北部を支配下に入れた。

正解
8 1 6 4 5 20 21 30 10 12 23 28 18  15 32 17
封土 諸子百家 郡県制 武帝
2 4 1




古代中国史(1)秦漢 史記の歴史 東海大学 

2006年11月30日 | 復習用入試問題
 次の文章を読み,下記の設問に答えよ。東海大

 司馬遷の時代、漢王朝にとって最大の敵は北方の匈奴であった。将軍李陵は匈奴を討って功を立てながら武運つたなく捕虜となり、(A)ときの皇帝の怒りを買った。群臣もまた非難する中で司馬遷は李陵を弁護したために、かれもまた屈辱的な刑罰をこうむることとなるが、しかしその鬱屈した精神がかえって(B)覆れた歴史書を生み出したとも考えられるのである。

〔設問〕
問1 (A)の皇帝はだれか。
問2 (A)が匈奴を挟み討ちにするために西域に派遣したのはだれか。
問3 匈奴討伐に功のあった将軍術青の甥で,(A)に寵愛された青年将軍はだれか。
問4 (A)に五経博士を置くことを進言した儒学者はだれか。
問5 (A)が朝鮮半島に置いた4郡のうち、中心的な役割を担った郡を一つをあげよ。
問6 (B)の史書は何か。
問7 (B)は本紀・列伝などに分れるが、このような体裁を何というか。
問8 (B)の体裁にならった史書のなかに「漢書」がある。書いたのはだれか。
問9 宋代の史家司馬光は(B)とは違った体裁で歴史を著した。(ア)その書物は何か。 (イ)その体裁を何というか。

正解
武帝 張騫 カクキョヘイ 董仲舒 楽浪郡  史記 紀伝体  班固
資治通鑑 編年体