“氷姿雪魄”に背のびする……しろねこの日記

仕事の傍ら漢検1級に臨むうち、言葉の向こう側に見える様々な世界に思いを馳せるようになった日々を、徒然なるままに綴る日記。

妖怪のような気持ち

2016-08-11 21:44:45 | 日記
「――しろねこ先生は、いつも草原にいるんです」
と、この春まで教えていた高2の女の子が先日、私に言いました。出張帰りの私と、放課後自習を終えた彼女と、学校の夜の廊下で最近の彼女たちの様子について話していた中での会話です。
「草原?」
「はい、草原からこっちを静かに見守ってくれてる、って感じなんです!」
「…そうなの?」
「はい。先生は、私の一部分だけを見てそれに乗っかって味方するようなことを言うんじゃなくて、“私”っていうまんま捉えて見てくれるじゃないですか。その、味方も否定もしないで見ててくれるのがいいんです!!」
な、なるほど〜。そういう言い回しで、自分の態度を考えたことはなかった。でも、彼女が言ってくれたことは、私が生徒に対してこれまで少なからず心がけてきた在り方ではあったので、それを彼女がこうして受け止めていてくれたのが、内心とても嬉しかったのでした。

――それにしても、なぜ草原なのか。私は彼女の心象風景を想像しようとしました。彼女に限らず、よく「先生はねこみたいだから」と言われるから(私がねこ好きだから、そう言ってくれるだけかもしれないけど)、それとも関係があるのかもしれません。
草原というと、私の脳裏に浮かぶのは『スーホの白い馬』の世界、それから草原とは微妙に違うけど、『星の王子さま』のキツネ。
どこまでも見渡せる空間、相手との目線は常に対等。距離の取り方も伸縮自在。草陰に隠れたりもできるけど、行方不明にはならず、呼び合えば居場所が分かる、そういう空間。
つかず離れず、確かに生徒たちを私は草原から見ているのかもしれません。

さらに、真面目な話、漫画『夏目友人帳』のニャンコ先生は私の憧れの存在ですが、彼もよく公園や草っ原や森の中や岩場に姿を現します。ニャンコ先生は手塚治虫氏の『ユニコ』や、ジブリの『千と千尋の神隠し』のハクのように、いざとなると巨大に変身する妖怪ですが、ユニコやハクよりはるかに人間くさい(もっと言うとオヤジくさい)。タダ酒と食べ物と昼寝にしか興味が無さそうなのに、夏目のことをよく見守っている優れた先生なのです。私が生徒の中にいて心がけていることのひとつに、“性別・年齢のものさしを自在に動かせる目で物事を見て、生徒に対する受け答えもする”というのがありますが、それゆえに私の心象風景中では実は、自分がしょっちゅう人間ではなくなっているのです。それには動物か妖怪のような立場がもっとも都合がよい。勿論生徒は人間に育てなくてはならないのですが、それを煩悩に囚われた成人女性の視点で行うのは、時に限界があると思うわけです。

ここらへんから文字のお話になりますが、実は仕事上の様々な校正作業についても、しろねこの場合、この感覚が当てはまります。すなわち、校正しようとする文字に“憑依”しようとする感覚です。
出版業界とは比べものになりませんが、教員の世界でもそれなりに数々の校正作業があります。生徒の作文、学校から出す公文書、PTA新聞、定期考査や日々の自作教材、同僚や先輩の原稿……、そして最も大きなのが、我々で作成する入試問題の校正です。自慢しますが、しろねこは責任者だった昨年度までの5年間、自分の科から校正ミスを出したことが一度もありません。

以前、同じ科の先輩と入試問題の校正作業のお話をしていて、何も考えず私が、
「文字に憑依したときに、――」
と話しかけたのを、先輩が制して、
「…憑依!? ……俺には、まだそんな感覚はねぇわ……」
と微かに狼狽した顔で言ったので、あ、しまった、つい人前での言い方間違えたわ……、と思ったのでした。因みに、その先輩が今後も自分の身には起こらないであろう現象を「まだ」と表現してくれたのは、しろねこが多少変でも多目に見て認めてくれる心意気からだと、しろねこは解釈しています。

さて、「文字に憑依する」とは、もう少し正確に言うと、吸盤か触覚のように指先を行間に辿らせながら、活字の余白に己の感覚を滑り込ませ、センサーのように間違いを感知する、とでも申しましょうか。そうしていると不思議と、次第に己の身体が人間ではない何者かになっていく気がするのです。その時の、神経が研ぎ澄まされてゆく感じはそれなりに楽しいのですが、終わってみると割とエネルギーが奪われている作業でもあります。

で、ここまで様々お話ししてきましたが、漢字を勉強するときも、そんな半ば浮き世離れした感覚と、人間の泥臭い感覚とが混在したような、人間が生み出した妖怪のような心持ちに、自分がなることがよくあります。逆に検定などの勉強があまり上手くいかなかったときは、本来確保すべき勉強期間に職場などで人間であり過ぎたか、仕事上の憑依にエネルギーを費やし過ぎた結果、漢字とその周辺世界に憑依しきれなかった、というのが正確なところです。

俗っぽ過ぎても、浮き世離れし過ぎても、漢字は理解できないように思います。教職にもそんなところがありますが、生徒抜きの貴重な数日間、お盆であの世からの人々をお迎えし、またお見送りする傍ら、人間として生まれて、漢字という文字を身近に感じて生きてゆく境遇に、しばし思いを馳せたいと思います。