歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

石橋山合戦(その5)―歴史雑感〔15〕―

2015年03月24日 20時05分28秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、源頼朝軍の構成

(その2)二、大庭景親軍の構成

(その3)三、合戦の経過〈石橋山合戦〉

(その4)四、合戦の経過〈椙山合戦〉

(その5)五、源頼朝軍の参軍者の合戦後

 

五、源頼朝軍の参軍者の合戦後

石橋山合戦に敗北して四散した頼朝軍はその後どうなったのでしょうか、また合戦でどのような損害を出したのでしょうか。

先ず、石橋山合戦での損害を考えてみましょう。『吾妻鏡』・『延慶本平家物語』ともに戦死と記されているのは、2北条三郎宗時・6工藤介茂光(自害)・15岡崎余一義忠の3名です。『延慶本平家物語』のみに記されているのは42沢六郎宗家です。以上4名が史料記載のある戦死者です。義忠が初戦で戦死したのを除き、他の3名は椙山合戦での後退・敗北での中です。体勢が決した後に多大の損害が出るという合戦の常道通り、頼朝軍も退却・逃走時に最大の戦死者を出しています。宗時が山より下りて早川付近で戦死した例に見るように、退却戦の中で四散して逃走する頼朝軍は各個に捕捉されて戦死者を出したといえます。

では、以上の4名のみが戦死したのでしょうか。それだけではないでしょう。そこで、『吾妻鏡』の頼朝軍交名に見える武士の最終所見日時を見てみましょう。交名を最後に所見のない武士として、13土屋弥次郎忠光・25豊田五郎景俊・33中村太郎景平・36鮫島七郎武者宣親の4人がおり、石橋山合戦が最後の武士に22宇佐美平太政光がいます。以上の5人は同族が複数参軍しており、同族は合戦後も所見しており、行賞記事のある武士もいます。すなわち、以上の5人は戦死したとみるのが至当です。以上、交名46名中の9名が戦死したと考えることが出来ます。戦死率は少なくとも約20%弱に達し、負傷者も同程度以下としても(近代の遭遇戦では負傷数は戦死者数を上回りますが、前近代戦では医療支援が弱く、後退敗退時に負傷者が敵により討ち取られる例が多いので、同程度以下とします)、死傷率は30~40%近くに達したことになり、頼朝軍が戦闘能力を喪出したことが分かります。

さて、敗北した頼朝軍の参軍者はどのような方面へと逃走しようとしたのでしょうか。先ず、戦死した北条宗時の逃走した経路を考えてみましょう。宗時は椙山から桑原に下り、平井郷を経て、早河(早川)辺で戦死し、一方、父時政・弟義時は箱根湯坂を経て甲斐国を目指そうとしました(『吾妻鏡』治承四年八月二十四日条)。一見、両者は別経路を取ったように見えますが、湯坂は箱根湯本温泉から西へと尾根道で箱根神社に至る古道です。すなわち、両者は椙山から遁れて北へと向かい、湯本温泉までは同一経路を取り、ここで両者は別れ、宗時は早川に沿って下り、早川庄内(神奈川県小田原市早川辺)で戦死したことになります。宗時が目指したのが、頼朝の蜂起に賛同して軍を酒匂川東岸にまで進めていた三浦軍への合流であったことは明白です。しかし、宗時が伊東祐親配下の紀六久重に討ち取られたことで分かるように、早川庄には追撃してきた祐親軍が進出しており、これに景親軍も加わりますから、早川庄内は敵軍で充満して、酒匂川への進出の道は閉ざされていたといえます。以上、第一の逃走方面は小田原を経て三浦軍との合流を目指す経路です。すなわち、相模国中・東部を目指す経路です。三浦軍との合流こそ果たしませんでしたが、この相模国中部への逃走を果たした武士に、佐々木定綱・盛綱・高綱兄弟がいます。佐々木氏は平治の乱の敗戦により近江国から亡命して東国に下り、相模国渋谷重国の保護下に入り、石橋山に参戦します。よって、佐々木兄弟は箱根山深山から、重国館(相模国渋谷庄―神奈川県大和市等)に逃亡します(『吾妻鏡』同年八月二十六日条)。なお、時政が目指そうとした湯坂古道から芦ノ湖方面という経路もありえましょう。

次いで、加藤光員・景廉兄弟の逃走経路を考えてみましょう。先ず、兄弟は父光景員とともに箱根深山へと逃走し、3日間彷徨して伊豆山に至り、景員はここで出家し一時留まり、兄弟は甲斐国を目指し、伊豆国国府(静岡県三島市)に至り、住人に怪しまれて分散します(『吾妻鏡』同年八月二十七日条)。翌日、駿河国大岡牧(静岡県沼津市)に至り再会し、富士山麓に隠れます(『吾妻鏡』同年八月二十八日条)。そして、甲斐国に逃走して、この軍に加わり、平家方駿河国目代橘遠茂軍と戦います(『吾妻鏡』同年十月十三日条)。この加藤兄弟が甲斐国に逃走したことは『延慶本平家物語』第二末之十三石橋山合戦事にも見えており、ここでは伊豆三島神社宝殿に隠れたとあります。以上、戦場より遁れて箱根山に潜伏した後、西に伊豆・駿河国に出て、北に甲斐国の甲斐源氏を頼り目指す経路です。史料に明確に出ている武士は加藤兄弟だけですが、加藤兄弟が伊豆亡命武士であり、頼朝軍の参軍武士の最大多数である伊豆国武士の多くが同様な逃走経路を取ったとしても不可思議ではないでしょう。この点で注意されるのは、『吾妻鏡』が安房国に渡海して頼朝と再会するとの記述と異なり、『延慶本平家物語』上記では、「北条四郎時政同子息義時父子二人ハソレヨリ山伝に甲斐国ヘソ趣ケル」、と北条時政は甲斐国へ逃走して、以後の記述でも頼朝との再会記事がないことです。

そして、頼朝の逃走経路です。その(4)で述べた通り、合戦に敗北した頼朝は南に逃走して、箱根山南部外輪山(土肥郷後背地)に潜伏して、その後、箱根神社の親頼朝僧永実の手引きで箱根神社に隠れます。地元の土肥一族挙げての支持と箱根神社親頼朝僧行実との連携がこの逃走の成功をなしたのです。その後、『吾妻鏡』同年八月二十五日条では、行実弟良暹が頼朝を襲うとの報で土肥郷に潜伏します。そして、28日、土肥実平の手配した「小舟」で真鶴岬から渡海して、翌29日、実平とともに安房国に上陸します(『吾妻鏡』同年八月二十八日、二十九日条)。一方、『延慶本平家物語』第二末之十六兵衛佐安房国ヘ落給事では、実平妻が衣笠城合戦敗北と三浦氏の安房国渡海を伝え、これを聞いた実平は「小浦」から「海人船一艘」で頼朝とともに安房国に渡海します。両書とも、頼朝が土肥実平一行とともに小舟で安房国に渡海したことで一致しています。安房国ヘの渡海には船の調達が必須ですから、土肥郷に何らかの所縁がなければこれは不能といえます。すなわち、箱根山に潜伏して、安房国に渡海した頼朝軍参軍武士は、地元の地理に長けた土肥一族を主体とした少数の武士と考えてよいのです。

以上、石橋山合戦で敗北した頼朝軍の参軍武士は、第一は最大多数と考える、西へと伊豆・駿河国方面へ(この多くは最終的に甲斐国を目指します)、第二は北へと相模国方面へ、第三は箱根山に潜伏後に安房国ヘの渡海、と大きく三方面へと逃亡し、文字通り四散したのです。

最後に、箱根山に潜伏していた頼朝は、駿河国を経て甲斐国へと土肥郷を経て安房国ヘの渡海との二つの逃走経路の可能性があったのに、何故に安房渡海を選択したのでしょうか。石橋山敗戦の直後、25日、安田義定などの甲斐源氏軍は富士山麓の波志太山合戦で平家方の駿河国目代橘遠茂軍を撃破していました(『吾妻鏡』同日条)。三浦氏安房渡海報と同様にこの合戦報は頼朝の耳に達していたとすべきです。箱根山を越えて甲斐国に至ることはさほど難しいことではないでしょう。これに対して、大庭・伊東軍の制圧下にあるといえる土肥郷を潜行して真鶴岬に至り、安房国に渡海することは、土肥一族に如何に地元の利があるとはいえ、極めて危険を伴う経路です。より安全な経路である甲斐国ではなく、危険な安房国ヘの経路を何故に選択したのでしょうか。甲斐源氏は周知のように頼朝とは独立して独自に反乱に蹶起しました。頼朝は伊豆国の武士を中心に反乱の長に担がれて蹶起しました。頼朝は伊豆・相模両国などの反乱武士の棟梁であるのに対して、甲斐源氏は甲斐国の武士の棟梁です。頼朝が甲斐国に逃走すれば、当然ながら頼朝は甲斐源氏の上に立つことは出来ず、この下に入ることになります。この時点での反乱軍の棟梁は甲斐源氏ということになって、頼朝ではありません。従って、その後の反乱の行方も甲斐源氏中心となり、頼朝は傍系にならざるをえません。これは、頼朝を担いだ土肥実平以下の土肥一族にも望むところではありません。反乱の大きなきっかけの一つとなった6月24日の相模国三浦義澄(三浦一族惣領義明2男・嫡男)と下総国千葉胤頼(千葉氏惣領常胤6男)の頼朝訪問に見るように、頼朝の当初の戦略は、伊豆の蹶起後、三浦一族との合流、続いて千葉氏(おそらく上総氏も含む)との合流により南関東を制圧して、東下する平家軍を迎撃してこれを撃破して、反乱を成功へと導く、ということだと考えます。しかし、石橋山敗戦で三浦一族との合流が果たせず、この三浦一族が衣笠城敗戦で安房国に渡海した以上、当初の戦略に従って、三浦一族との合流を安房国で果たして、再起を図ることとしたのです。これなら反乱に結集する関東武士に担がれた棟梁に頼朝はなることが出来るのです。従って、危険を冒しても安房国渡海の経路を選択したことになります。

(終わり)

(2015.03.24)

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