花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

カラヴァッジョ?《キリストの捕縛》(サンニーニ版)

2022-10-11 22:08:31 | 西洋絵画

危惧していたが、幸いなことにコロナ感染せずに済んだようだ。家での自粛中に、読みかけのまま中断していた石鍋真澄先生の『カラヴァッジョ』を読み進めたのだが、Netflixの韓ドラ「シスターズ」と「ロースクール」が面白すぎて、再び中断してしまった(現在:P358)。

感想は読了してから書こうと思っているが、私的に、そーだったんだ!、と気付いたことがあり、とりあえず触れておこうと思う。

それは、カラヴァッジョ《キリストの捕縛》サンニーニ版についてである(P274)。

ダブリンのアイルランド国立美術館《キリストの捕縛》は研究者も真作と認める傑作である。その発見経緯はドラマチックで、私も2002年の春にダブリンで観た後、サイトの方でベネデッティ本を簡単に拙訳紹介したことがある。詳細な内容についてはジョナサン・ハー『消えたカラヴァッジョ』(岩波書店:2007年)に詳しい。

さて、サンニーニ版《キリストの捕縛》は多くのコピー作品の中のひとつとされ、フィレンツェのサンニーニ家が所蔵していた。それが2003年に売りに出され、ローマのマリオ・ビゲッティが購入した。その後の科学調査で多くのペンティメントが見つかり、更にサイズもダブリン作品より大きく、少なくない専門家(マーンやグレゴーリも含む)がオリジナルと見立てたようだ。

では、ダブリン作品はコピーなのか?? 当時、カラヴァッジョの真作発見?!とニュースになり、ダブリンの美術館長が当惑のコメントを出したのを覚えている。質も高く来歴のはっきりしているダブリン作品は真作ですとも

石鍋先生の本によれば、2008年デュッセルドルフの展覧会では、サンニーニ版は専門家によりオリジナル(ドッピオ作品)と見なされ展示された。しかし、展覧会以降、様々なトラブルのためスイスの某所に保管されたままになっているそうだ。

石鍋先生はこの作品の実物はご覧になってないそうだが、なんと私は2006年のデュッセルドルフ「CARAVAGGIO ―Auf den Spuren eines Genies 」展で実物を見ている。なので、多分、2008年➡2006年だと思うのだが、どうなのだろう??

ご参考:https://blog.goo.ne.jp/kal1123/e/81aae4cc18103fa9b365a27d750b80ac

デュッセルドルフ「CARAVAGGIO」展の図録。問題の作品はカタログNo.13だと思う。

ブログにも書いたが、この展覧会ではカラヴァッジョ作品の模写作品が多く展示され、カラヴァッジョ時代の流行人気のほどが了解された。

カラヴァッジョ《キリストの捕縛》真作はダブリンで既に観ていたので、このサンニーニ版作品を見ても、えーっ、コピーでしょ?と思ってしまった。なにしろダブリン作品が本当に素晴らしかったのだから!! それに、この展覧会にはオデッサ作品も展示されていたしね。実のところ、ドイツ語は全然わからないので、美術ど素人の私はニュースになった「真作発見?!作品」とは思いもよらなかったのだ。すなわち、石鍋先生の本でようやく気が付いたというわけである

ちなみに、このサンニーニ版の図録写真はモノクロであり、他のコピー作品はカラーであるのに、なんだか、個人蔵なので出し惜しみ?と思ってしまった。現在は「スイスの某所に保管されたまま」らしいけど、カラー写真を目にする機会が無いのもなんだか不思議な(怪しい)気がする。

で、『消えたカラヴァッジョ』によると...イタリア警察がサンニーニ版を押収し、化学分析の専門家マウリッツィオ・セラチーニに調査を依頼、その報告書では、作品の絵具からアンチモンが検出されたことで...「カラヴァッジョの作にあらず。問題の絵はカラヴァッジョが世を去20年以上経った1630年以降のある時期に描かれたもの」とあるそうだ。

美術ド素人目ではあるが、質的にダブリン作品に及ばないサンニーニ版は、石鍋先生の表記通り「カラヴァッジョ?《キリストの捕縛》」が至極妥当な気がしたのだった


ダ・ファーノ《建設中のテンピオ・マラテスティアーノの光景》

2022-09-10 16:36:34 | 西洋絵画

最近、ちょっと集中して調べている事があるのだが、その最中に、たまたま見つけたのがジョヴァンニ・ベッティーニ・ダ・ファーノ(Giovanni di Bartolo Bettini da Fano)《建設中のテンピオ・マラテスティアーノの光景》(1457-1468年)である。ボードリアン図書館所蔵と知り、すぐに調べることができた(^^)v。

https://digital.bodleian.ox.ac.uk/objects/e38211bd-5854-4514-818d-ee9fba5ea15a/surfaces/a464586f-1015-4642-be5e-0899b530da01/

レオン・バッティスタ・アルベルティ設計《テンピオ・マラテスティアーノ》(1450-68年)

《テンピオ・マラテスティアーノ》北側面

ダ・ファーノの写本挿絵を見ていると、当時の工事の様子が生き生きと伝わってきて、ああ、こういう風にして造られたのだなぁ、と感慨深い。

ちなみに、このダ・ファーノの装飾写本(オリジナルは消失)は、バジニオ・ダ・パルマ(Basinio da Parma)の長編詩『ヘスペリ(Hesperis)』に基づくものであり、彼はこの中でシジスモンド・マラテスタの偉業を称えている。


中世写本の余白装飾。

2022-08-30 22:32:25 | 西洋絵画

尾崎彰宏・著『静物画のスペクタクル』(三元社刊)を読みながら、北方(オランダ)における静物画の成立過程について興味深く勉強してしまった。

http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/528.htm

以前にも静物画の起源について書いたことがあり、その中でネーデルラントの静物画起源の例としてハンス・メムリンク《花瓶の花》についても触れたが、キリストと聖母を象徴する宗教的を意味含んでいる。

https://blog.goo.ne.jp/kal1123/e/fcbaeb845d6ba6cb31b5944709c1adfc

ハンス・メムリンク《花瓶の花》(1485年頃)ティッセン=ボルネミッサ美術館

https://www.museothyssen.org/en/collection/artists/memling-hans/flowers-jug-verso

しかし、メムリンク作品に先行し、ネーデルラントの静物画の成立過程で、中世写本における余白装飾に新たな展開があったのだよ!!

普通の写本は聖書場面を描いた余白に装飾模様を描いているのだが、例えば『トリノ=ミラノ時祷書』では...聖書場面を絵が描いた枠外の余白装飾として、彩色された蔦模様と天使たちが描かれている。

《トリノ=ミラノ時祷書》(1425年頃)トリノ市立美術館

《ブルゴーニュのマリーの時祷書(独語: Stundenbuch der Maria von Burgund)》は、1477~82年頃にフランドルで完成し、おそらく、ブルゴーニュ公家継承者のマリーとマクシミリアン1世との結婚を祝し、継母マーガレット・オブ・ヨークが作らせたと考えられている。

ブルゴーニュのマリーの画家《十字架に釘で打ちつけられたキリスト》(1477~82年頃)オーストリア国立図書館(ウィーン)

「それまでミニチュアールでは欄外にあったモチーフが絵画空間のなかに入り込んでいる。明らかに宗教場面と対立する静物画モチーフが絵画空間に迫りだしてきたのである。このことによって静物を仲立ちとして、宗教画空間と世俗空間とが連続するようになった。」(P44)

この作品を見ていると、後のピーテル・アールツェン(1508頃-1575)からベラスケス《マルタとマリアの家のキリスト》への流れが容易に想像できるのが面白い

ちなみに、ヴィクトル・ストイッキッツァは「オランダで自立した静物画の記念碑的一歩をしるした作品として」ジャック・デ・ヘイン2世(1565–1629)の静物画を挙げているそうだ。

ジャック・デ・ヘイン2世《 ヴァニタスをあらわす静物画》(1603年)メトロポリタン美術館

https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436485

イタリアではカラヴァッジョが、オランダではデ・ヘインが、ほぼ同じ頃に「自立した静物画」を描いていることが興味深い。カラヴァッジョ《果物籠》が同じヴァニタスの意を含みながら、作風の違いが面白くもある


ニコラウス・クザーヌス『神を観ることについて』拾い読み(^^;

2022-08-09 02:18:15 | 西洋絵画

ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの絵画でもっとも有名な作品は、ブリュッセル市庁舎「黄金の間」に描かれ、17世紀まで現存していた「トラヤヌス帝の裁き」と「エルケンバルドの裁き」を描いた大きな4点の板絵である(1439-1450年)。4点とも1695年のフランス軍によるブリュッセル侵攻の際に失われてしまっているが、多くの記録や部分的に模写されたタペストリー、ドローイング、絵画などが現存している。

ご参考:部分的な模写タペストリー

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:After_Rogier_van_der_Weyden_-_The_Justice_of_Trajan_and_Herkinbald.jpg

ピウス2世(エネア・シルヴィオ・ピッコローミニ)の友人でもあるニコラウス・クザーヌス枢機卿(Nicolaus Cusanus, 1401 - 1464年)は、1452年にブリュッセルでこの作品を見ている。彼は特に、ファン・デル・ウェイデンが2番目の板絵に組み込んだ自画像に感銘を受け、目はどこでも観者を追いかけているように見えたと伝えている。

ということで、ニコラウス・クザーヌス『神を観ることについて』(岩波文庫)を図書館から借り、拾い読みしてみた。ロヒール作品に触れているところだけなのだが(汗)。

「・・・「万物を観ている人物像」・・・その顔は巧みな画法で描かれていて、あたかも万物を見渡しているような状態にあるからである。このような顏のなかでも、特に見事に描かれたものが、例えばニュールンベルクの広場にある射手の絵であり、またブリュッセルの大画家ロージャによって描かれて、そこの市庁舎のなかの極めて貴重な絵のなかにもある。」(P13)

ちなみに、翻訳者の八巻和彦さんの解説を読みながら、「愚直なクザーヌス」に目がウルウルしてしまった。ああ、ピウス2世の「I Commentarii」をぜひ読みたいっ!! 研究者の皆様、日本語訳をどうぞ出版してくださいませ!!

で、もちろん、デューラーの『ネーデルラント旅日記』(岩波文庫)にも「私はブリュッセルの市庁舎の黄金の間で、大画家ロヒール [ファン・デル・ウェイデン] が描いた四枚の物語絵(歴史画)を見た。」(P77)とあるのは有名だよね


シエナ大聖堂「ピッコローミニ図書館」。

2022-07-26 00:34:44 | 西洋絵画

ラファエッロが《三美神》を描くにあたり、直接に着想を得たかもしれない「ピッコローミニ図書館」の《三美神》群像彫刻の写真を、懐かしくも掘り返してみた

「ピッコローミニ図書館」は、1492年にシエナの大司教フランチェスコ・トデスキーニ・ピッコローミニ枢機卿(後の教皇ピウス3世)によって、叔父の教皇ピウス2世が収集した豊かな蔵書遺産を保存するために建てられた。

そこに設置されたのが、ピッコローミニ枢機卿が所有していた《三美神》彫刻である。オリジナルはヘレニズム期(紀元前4-2世紀)であるが、古代ローマ時代にコピーされた作品である。

「ピッコローミニ図書館」では、1502年から1507年頃に、ピントゥリッキオと助手たちによってフレスコ画が描かれ、その助手たちの中にはボローニャのアミーコ・アスペルティーニや若きラファエッロ・サンツィオもいた。

手前左がラファエッロ、その隣がピントリッキオ。ラファエッロの視線の先に《三美神》がいるような気もする

ちなみに、ラファエッロと共に助手を務めたアミーコ・アスペルティーニ(Amico Aspertini)もなかなかに興味深い画家である。2008年のボローニャ国立絵画館での展覧会「 Amico Aspertini (1475-1552)」を観たが、折衷的な画風が奇妙で面白くもあり、不思議に印象に残る画家だった。

ご参考:https://www.exibart.com/bologna/fino-al-26-i-2009-amico-aspertini-bologna-pinacoteca-nazionale/


ヴェロッキオ、クレディ作《ピストイア祭壇画》。

2022-07-05 21:41:47 | 西洋絵画

『リ・アルティジャーニ』にも登場するヴェロッキオ工房にはボッティッチェッリやレオナルドの他にも、ペルジーノやロレンツォ・ディ・クレディなど多くの画家たちが働いていた。

ちなみに、先月観た東京都美術館「美の巨匠」展でもヴェロッキオ帰属《ラスキンの聖母》が展示されていたが、フィレンツェ・ルネサンスらしい聖母子像が眼に心地よかった

アンドレア・デル・ヴェロッキオ(帰属)《幼児キリストを礼拝する聖母(ラスキンの聖母)》( 1470年頃)スコットランド国立美術館

実は、ゲストの山科さんのブログで知った岡部紘三(著)『ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン』( 勁草書房)を図書館で借り、(返却期限があるので)サクッと読んだところ...

https://keisobiblio.com/2020/10/12/atogakitachiyomi_rogier/

巻末資料一覧の中に、『美術史』(155号 2003年 NO.1)掲載「メルボンのヴィクトリア国立美術館《キリストの奇跡の祭壇画》-図像解釈と制作年代」(平岡洋子・著)を見つけ、論文コピーしたのだが...(詳細は後日...)

https://www.bijutsushi.jp/pdf-files/ronbunshou/05-10-hiraoka-senhyou.pdf

なんと、同じ号に「ヴェロッキオ、クレディ作「ピストイア祭壇画」の問題」(江藤 匠・著)も載っていて、もちろん、こちらもコピー

ということで江藤論文を読むと、ヴェロッキオ工房の「ピストイア祭壇画」がなかなかに興味深いのだ。(残念ながら私はピストイアには行ったことがなく実見していない

アンドレア・デル・ヴェロッキオ、ロレンツォ・ディ・クレディ《ピストアイア祭壇画(Madonna di Piazza)》( 1475 - 1483 年)ピストイア大聖堂

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Verrocchio_e_lorenzo_di_credi,_madonna_di_piazza_03.jpg

この祭壇画のプレデッラは3点確認されており、現在は各地に散っており、ルーヴル所蔵の《受胎告知》がレオナルド《受胎告知》に起因しているところも興味深い。

https://it.wikipedia.org/wiki/Madonna_di_Piazza

さて、論文の内容だが、「結論」からサックリ要約すると(勝手にスミマセン!)…

■■…「ピストアイア祭壇画」には明らかに造形的にも機能的にも、フランドル絵画からの影響が看取できる。祭壇画が北方起源のエピタフと同じ構成を取っている。あくまでも「聖なる会話」の絵画伝統を継承しつつ風景の導入が図られたが、構図としては「開口式」と呼ばれる新機軸を打ち出した。この構図に最も近いと推断するのは、「聖バルバラと聖エリザベツを伴う聖母子」などの、ファン・エイク派の祭壇画である。それらはいずもエピタフの機能を有し、造形的にも「ピストイア祭壇画」との関連性が認められるからである。しかもヴェロッキオは、構図や風景の引用にあたって、模倣というよりは同化のレベルまで昇華している。…■■

ヤン・ファン・エイク派《聖バルバラと聖エリザベツを伴う聖母子(ヤン・フォスの聖母》( 1441 - 1443年頃)フリック・コレクション

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jan_van_Eyck_-_Virgin_and_Child,_with_Saints_and_Donor_-_1441_-_Frick_Collection.jpg

↑《ピストイア祭壇画》部分

↑《ヤン・フォスの聖母》部分

で、この論文を読みながら私的に想起したのがボッティチェッリ《バルディ家祭壇画》だった。ヴェロッキオ工房の聖会話スタイルを継承してはいるものの、しかしながら、背景を「開口式」ではなく、装飾性豊かな壁龕風に植物で構成するところに、ボッティチェッリの当時の興味の在りどころと、その独自性が強く出ていているようで面白く感じられるのだ。あの《春(Primavera)》に描かれた花々や植物観察の残響が見て取れる故に、特に好きな作品なのだから。

ボッティチェッリ《聖母子と二人の聖ヨハネ(バルディ家祭壇画)》(1485年)ベルリン国立絵画館

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Botticelli,_madonna_bardi_01.jpg

ということで、ヴェロッキオ工房ってフランドル絵画の情報収集も怠りなく(メディチ家の後援もあり)、当時のフィレンツェにおける最先端情報センターだったのだろうなぁと想像できたのだった


ヤン・ファン・エイクの追随者《カーネーションを持つ男》。

2022-03-28 01:18:18 | 西洋絵画

ドイツ語版Wikipedeiaをチェックしていたら、ベルリン国立絵画館にあるヤン・ファン・エイクの追随者《カーネーションを持つ男》のモデルがクレーヴ(クレーフェ)のアドルフ2世(Adolf Ⅱvon Kleve、 1373- 1448年)かもしれない説があるのを知ってしまった

ヤン・ファン・エイクの追随者《カーネーションを持つ男》(1436年頃)ベルリン国立絵画館

https://de.wikipedia.org/wiki/Adolf_II._(Kleve-Mark)

「この絵は、1437年頃に作成された可能性があり、最近ルドヴィック・ニースによってクレーヴ(クレーフェ)のアドルフ2世の肖像画として解釈されました。これは何よりも聖アンソニーを表す鐘の付いたTによって示されています:アントニウスはクレーヴ(クレーフェ)公爵によって寄贈された騎士団の守護者でした。」

※ご参考:・L. Nys, « Jean van Eyck et Clèves. Pour seuls indices, des œillets 'de gueules et d'argent', un tau et une clochette! », in : Francia. Forschungen zur westeuropäischen Geschichte (Deutschen Historischen Institut Paris), t. 35, 2008, p. 63-94

ううむ、アドルフ2世なのだろうか??

※追記:下記↓サイトによると、パネルの年輪測定では1484年以降になっている。

https://www.bildindex.de/document/obj00001326


ルーベンス《シャルル・ル・テメレールの肖像》(2)

2021-12-13 21:09:45 | 西洋絵画

さて、先に書いた ルーベンス《シャルル・ル・テメレールの肖像》(1)の続きを...

(2)ルーベンスはシャルルの顔を、どの先行作品を参考として描いたのか?

ピーテル・パウル・ルーベンス《シャル・ル・テメレールの肖像》(1618年頃)ウィーン美術史美術館

https://www.khm.at/objektdb/detail/1627

シャルル(Charles le Téméraire,1433 - 1477年)の肖像は、先に紹介した《エノー年代記》の少年時代や「アラス・コレクション」模写等も含め、意外に色々あるようだ。

で、ルーベンスがどの先行作品を参考したのか?と考える時、やはり観る人に「この肖像はシャルル・ル・テメレーだ」と容易にわかってもらえることが大切なポイントだったと想像する。ならば、各地に模写作品も残っているブルゴーニュ公家の公式ポートレート(?)が一番参考になると思うし、実際に見る機会も得やすいと思うのだ。

先ずは、一番有名な青年時代のシャルル像。この頃はまだ若々しいシャロレー伯。模写作品も各種あるようだ。

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(工房?)《シャルル・ル・テメレールの肖像》(1454年頃)ベルリン国立絵画館 

ちなみに、ドイツ版Wikipediaによると、この作品はネーデルラント総督マルガレーテ(フィリップ・ル・ボーの妹)が所持していたものらしい。おじいちゃんの肖像画ね

そして、ディジョン博物館に残っているはオッサン壮年時代のシャルル。甲冑姿に「テメレール」らしさが出ているような気もするし、甲冑姿ということで参考になったかも

Unknown《シャルル・ル・テメレールの肖像》(オリジナルは1474年、16世紀半ばのコピー)ディジョン美術館

フランス版Wikipediaによると「1474年のオリジナル(?)の後の16世紀半ばのコピー。この肖像画は、亡くなった両親の遺体をディジョンのシャンモール修道院に葬送した1474年の日付を冠しており、当時、シャルル・ル・テメレールは素晴らしい鎧に身を包み、ディジョン入市式を行った。彼の入市式は盛大な祝祭として執り行われ、公爵(シャルル)は王になりたいという彼の願望を表明するスピーチをした。この機会に肖像画が作られたのかもしれない。このパネルの年代測定研究によると16世紀半ば以降のコピーと考えられる。」(少々意訳しました

これら2作品だけでなく、残存するシャルルの肖像画に共通するのはクリンとした天パーっぽいクセ毛頭髪で、短い前髪があっちこっち向いているのがルーベンス作品にも踏襲されており、描かれた顔つきもなんとなく似せているような気がする。特に鎧姿のシャルルはアイデア段階で参考になったような気がするのだけど、どうなのだろう??

もちろん、ルーベンスは精悍で堂々とした騎士シャルルを描いており、「私は王になりたい!!」というその願望を絵にしたような、堂々とした王者の風格を持って描いているところが興味深いし上手いなぁと思う。

実際のシャルルはトリーア会議(1473年)で神聖ローマ皇帝フリードリッヒ3世に「私をローマ王にしろ!」と詰め寄った挙句、皇帝に逃げられたのだけどね。で、皇帝はこっそりトリーアから逃げだしたけど、父と一緒に会見したマクシミリアン1世(当時は14歳の少年)は、煌びやかな騎士姿のシャルルに魅了され憧れたようだ。

ルーベンス描くこの威風堂々騎士姿のシャルル像なら少年マクシミリアンが憧れるのも了解できるのだけどね


カラヴァッジョ偏愛の独り言(^^;

2021-12-11 21:46:39 | 西洋絵画

カラヴァッジョ偏愛&美術ド素人の独り言をば...

山田五郎さんのYoutube「オトナの教養講座」は時々面白く拝見しているのだけれど、今回の「【暴れん坊・カラヴァッジョ】生首が自画像ってなんで?!【犯罪・逮捕遍歴】」を見て...

https://www.youtube.com/watch?v=HxqT5gBkpNY

ちょっと老婆心がでてしまったもので(本当はスルーすべきなんだろうけど)独り言を言わせてね

冒頭に《聖マタイの召命》のについての画像紹介と言及があった。で、山田さんは聖マタイ論争について、「マタイは徴税人でお金を数えている人...今はコレでファイナルアンサーですね」と。

私は美術ド素人だから聖マタイ論争が決着したなんて知らなかったが(いつ決着したのだろうか??)、動画を見ている何万人もの人々が「マタイはお金を数えている若者」と疑問も持たず信じてしまうだろうことに、なんだか怖さを覚えてしまった。

以上、カラヴァッジョ偏愛&美術ド素人の独り言でした


ルーベンス《フィリップ・ル・ボーの肖像》。

2021-12-10 01:41:57 | 西洋絵画

ウィーン美術史美術館で撮ったルーベンス《シャルル・ル・テメレールの肖像》と《マクシミリアン1世の肖像》をチェックしていたら...

なんと2018年「ブリューゲル展」を観た当時の解説には《マクシミリアン1世の肖像》となっていたものが、現在、美術館サイトでは《フィリップ・ル・ボーの肖像》になっているではありませんかっ 多分、この変更は最近の研究結果によるものだろう。

ピーテル・パウル・ルーベンス《フィリップ・ル・ボーの肖像》(1618年頃)ウィーン美術史美術館

https://www.khm.at/objektdb/detail/1628/

通称フィリップ・ル・ボー(フィリップ美公:Philippe le Beau, 1478-1506年;ブルゴーニュ公フィリップ4世、カスティーリア王フェリペ1世)は、ブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールの一人娘マリーとハプスブルグ家マクシミリアン1世の長男であり、カール5世(カルロス1世)の父である。

フィリップの鎧の腰飾りに百合の紋章が見えるが、ヴァロア朝ブルゴーニュ公家だよなぁ、と思い出させてくれるところがちょっと嬉しい。ちなみに、顔は父のマクシミリアン1世(肖像画多々あり)を参考にして描いているようだ。だって、研究者達もずーっとマクシミリアン1世だと思っていたんだし

アルブレヒト・デューラー《マクシミリアン1世の肖像》(1519年)ウィーン美術史美術館

ちなみに、フィリップの生きていた当時の肖像画は....

ファン・デ・フランデス《フィリップ・ル・ボーの肖像》(1500年頃館)ウィーン美術史美術館

ルーベンスがほぼ同時期に、ブルゴーニュ公としての祖父シャルルと孫フィリップを描いたということは、やはりフランドル統治者夫妻の宮廷画家であることと、フランドルの栄光の歴史をブルゴーニュ公に見ていた査証なのではないかとド素人的に思うのだけど、どうなんだろう??

そして、もしかして、この二つのルーベンス作品は「肖像画」ではなく、フランドルの「歴史画」として描かれたのかもしれないとも思ってしまったのだ。