花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

丸紅ギャラリー「美しきシモネッタ」展 サクッと感想。

2023-01-25 17:11:28 | 展覧会

丸紅ギャラリー「美しきシモネッタ」展を観た感想をサクッと。

展示されている作品は《美しきシモネッタ(La bella Simonetta)》のみ、まことに贅沢な展示空間であった。こうゆー展示は私も好き。五反田「ルーヴル・DNPミュージアムラボ」が懐かしい...。

サンドロ・ボッティチェッリ《美しきシモネッタ(La bella Simonetta)》(1469-75年)丸紅ギャラリー

シモネッタ様には都美の展覧会以来の再会となる。今回で会うこと3回目かな?

ちなみに、今回の展覧会の内容については、丸紅ギャラリー杉浦勉館長による講演会動画が詳しい。興味ある方はぜひ下記 ↓ 動画をご覧あれ。私的にも大変勉強になったもの

※動画:「ボッティチェリ≪美しきシモネッタ≫について」

https://www.youtube.com/watch?v=KNWjoNi8CJU

中でも、アシュモリアン美術館の素描がどの作品の下絵か?という「シモネッタの肖像画比較」がなかなかに興味深かった。解説によると、顔(目鼻口)の造形比率で言えば丸紅作品の方が近いとのこと。

サンドロ・ボッティチェッリ《若い女性の頭部》(1475-1500年)アシュモリアン美術館

サンドロ・ボッティチェッリ(工房?)《女性の肖像》(1480-85年)シュテーデル美術館

サンドロ・ボッティチェッリ《女性の肖像》(1480年頃)ベルリン国立絵画館

丸紅作品の制作年を見ると初期作品に位置づけられるようで、確かに画調はやや冷たく硬く感じられる。それでも魅力的な作品なので、真贋論争も決着したようだし、海外にも広く画像流布した方が良いのではないかと思ってしまった。

だって、イタリア版のSimonetta画像には紹介されていないし、なんだか寂しいよね。まぁ、欧米の研究者はアジア圏所蔵だとなかなか真作認知しない傾向はあるようだけど...



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8 コメント

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シモネッタの肖像画 その1 (むろさん)
2023-02-11 00:31:40
ボッティチェリとの付き合いは1976年に買った集英社リッツォーリ版美術全集1(原書G.マンデル著、日本語版解説摩寿意善朗)からですが、この本で丸紅が持っているシモネッタの絵が日本にある唯一のボッティチェリ作品ということを知ったので、いつかは実物を見たいと思い続けてきました。丸紅に電話をかけ、公開する予定の有無を問い合わせたこともあります。思いがかなったのは1988年に新宿でゴッホのひまわりと同時に公開された時で、その後、東京駅大丸での岡村崔写真展や新宿での丸紅コレクション展、そして2016年の都美ボッティチェリ展と東京でのシモネッタの公開は大体見てきました。この間、シュテーデル、シャンティイ、ベルリンなどでシモネッタとされる作品を見たり、最近では馬上槍試合(ジョストラ)のスタンツェ全文の日本語訳コピーを手に入れたりと、シモネッタに関する「追っかけ」も少しずつ進んできました。そして今回の丸紅ギャラリーでの展示で、今まで知らなかった情報をいろいろ知ることができましたが、展示解説、図録、動画でいくつか気になる点もありますので、少し書きます。

まず、今回の展示や図録で知ったこととして次の3点
1)シモネッタの夫、マルコ・ヴェスプッチやヴェスプッチ家との関係について詳しい情報が書かれているので、それから推定されるシモネッタとジュリアーノ・デ・メディチとの関係が、馬上槍試合のシナリオに基づく形式的なもの(プラトン的愛)なのか、ヴァザーリが列伝のボッティチェリ伝で述べているような「愛人」関係なのか、今までと少し考えが変わってきました。
2)シモネッタの肖像とされる何点かの作品との比較が掲載されていますが、特に横顔の各部の比率を比較した図を興味深く眺めました。
3)ボッティチェリ工房作とされるナスタジオ・デリ・オネスティの絵4枚のうち、プラドにある3枚に次ぐ最後の結婚式の場面の絵(アメリカの個人蔵)に描かれている人物(向かって左から4人目の着席する白い服の女性)をシモネッタであるとしていること。確かに他の登場人物の女性よりも顔や衣服がシモネッタ的ではあります。この推定は初めて読みました。

2)のシモネッタの肖像画の比較については、あとで意見を詳しく書きます。
3)の絵はまだ見たことがありません。この件についてもあとで書きます。

1)の件は一番気になったことなので、詳しく書きます。
まず、図録解説等により時期を追って事実関係を述べると、
1476年1月 馬上槍試合(フィレンツェ暦では1475年)
1476年4月 シモネッタ死去
(その後ジュリアーノが暗殺される1478年4月までの間に)シモネッタの夫マルコの父ピエロ・ヴェスプッチからジュリアーノへシモネッタのドレスと肖像画を贈呈
1477年か78年にマルコはカッポーニ家の女性と再婚
1478年4月 パッツィ家の陰謀でジュリアーノ暗殺
同年5月 陰謀に加担した知人の逃亡を助けた罪でピエロ・ヴェスプッチを逮捕・投獄、マルコもフィレンツェを追放
1479年1月 獄中のピエロからロレンツォ豪華王の母ルクレツィア宛てに刑の軽減を求める嘆願書の手紙を送付(ヴェスプッチ家がそれまでにメディチ家に対して多くの貢献をしてきたことを列挙し、その中に上記のシモネッタのドレスと肖像画をジュリアーノへ贈ったことが書かれている。)
1497年6月 マルコ・ヴェスプッチ死去
1500年5月 ヴェスプッチ家が経済的困窮にあることを伺わせる文書(父ピエロの未亡人とマルコの後妻/未亡人及びその息子がピエルフランチェスコ・デ・メディチに借金があることが記載されている)

シモネッタが亡くなってから1~2年の間にシモネッタのドレスと肖像画を手放してジュリアーノに渡すとともに、夫マルコが再婚しているということは、夫婦関係が良好でなかったことを思わせます。今まで夫マルコのことは「図説 ルネサンスに生きた女性たち」(佐藤幸三著 河出書房新社ふくろうの本2000年)に書かれている簡単な記述(虚栄心が強く凡庸な人物で、フィレンツェ共和国のあまり重要でない官職もいくつか務めた)程度だったので、今回の図録で詳しいことが分かってきました。マルコとシモネッタには子供はいませんでしたが、図録解説では「当時、子の生まれないことは離婚の理由となり、深刻な夫婦間の問題を生じ得た」とあります。また、ヴェスプッチ家はメディチ家と経済的に深いつながりがあり、ピエロ・ヴェスプッチはメディチ家が支配するフィレンツェ政府の高官を勤めたのに、何故パッツィ家の陰謀に加担し投獄されることになったのかという疑問が沸きます。これに対して図録解説では「馬上槍試合以降シモネッタにしつこく言い寄ったジュリアーノに対して密かに嫉妬と恨みを抱いていたマルコとその父ピエロがパッツィ家に接近し始め、(中略)複雑な事情もあったようです」としています。この部分は海外の研究書(Farina,2001)からの引用としていますが、「ジュリアーノがシモネッタにしつこく言い寄った」というのが何か記録として残されているのか、あるいはR.Farinaが著書の中で想像で書いたことなのかを知りたいところです。

また、ピエロ・ヴェスプッチがパッツィ家の陰謀に加担し投獄されたということの関連情報があるか、ランドウッチの日記を確認したところ、確かにその記事がありました。1478年5月1日にピエロ・ヴェスプッチが捕まり、それは犯罪者を逃がしたためであること、5月20日には終身刑となったことと逃がした人物の名前フランチェージが書かれています。そして、5月20日の記事の翻訳者注として、「ピエロがフランチェージの逃亡を助けたのはいたわりの情や友情よりも、ジュリアーノに対する憎悪のためであろう。ジュリアーノは息子マルコの妻である美貌のシモネッタの相思相愛の愛人であり、この嫁は絶えず公然とジュリアーノの恋愛詩の対象にされていたからである」とあります。この日記記事と注釈には今まで気がつきませんでした。ランドウッチの日記は同時代人の記録であり、虚偽の記載を残す理由もないので、内容は信頼できるものとされています。翻訳者注の真偽は別として、この日記の記事により今回の図録解説に書かれている夫マルコと義父ピエロに関する馬上槍試合以降の出来事は事実であることが分かります。

歴史研究では書き物の中のどこまでが事実で、どこからが作り話かを見極めることが最も重要なことだと思っています。石鍋氏がカラヴァッジョ神話から脱却して真実を求めようとしていることも、ヴァザーリの列伝の記述で真実と作り話を区別する必要があることも、日本美術で鎌倉時代の彫刻を考える時に吾妻鏡の記載のうち、北条氏が自己の都合がいいような記載をしていることに注意が必要ということも全て同じです。分からない部分を想像することは研究者の楽しみでもあると思いますが、研究論文を読んでいると、「想像をたくましくすると~であるかもしれない」という表現に出合うことが時々あります。このように明記してくれると分かりやすいし、良心的だと思います。また、晩年のボッティチェリを知るためにはサヴォナローラのことを詳しく知る必要がありますが、サヴォナローラの伝記(グアラッツィ著、邦訳1987年中央公論社)を利用する時にどこまでが事実であり、どこからが著者の推定なのかと思うことがあります。伝記というものはそもそもこういうものだと思います(ほとんどの内容は歴史的事実に基づいて書かれているが、不明な部分は著者が推定して創作している)。

ヴァザーリの列伝はかなり事実と異なる話が多いと以前は思っていましたが、ボッティチェリ伝を例に取ると、晩年の困窮という記述について、近年ではボッティチェリ没後に判明した多額の借金により、相続人であるすぐ上の兄シモーネと甥のベニンカーザが相続放棄をしたという記録が発見されたことで、ヴァザーリの列伝中のボッティチェリ晩年の困窮が事実だったことが証明されたので、最近では列伝を少し見直しました。以前ヤマザキマリのリ・アルティジャーニに関するコメント投稿で、ジネヴラ・デ・ベンチとベルナルド・ベンボの恋愛関係のことを書いた時に、シモネッタとジュリアーノの関係を「馬上槍試合という衆人環視の公の場の出来事だから、実際の愛人関係ではないだろう」と書きましたが、(上に書いた夫マルコ・ヴェスプッチのことから)シモネッタに関するヴァザーリの記載「ジュリアーノの愛人(インナモラータ)」も文字通りに読んでもいいかもしれないと思うようになってきました。

ヴァザーリのボッティチェリ伝の原文は下記の1550年版と1568年版があり、ジュリアーノの愛人の記載は1568年版に付け加えられたもので1550年版には書かれていません。両方ともネットで読めます。
トレンティーナ版(1550年) ボッティチェリ伝はP192~194で
https://www.memofonte.jp/home/files/pdf/vasari_vite_torrentiniana.pdf
ジュンティーナ版(1568年) ボッティチェリ伝はP329~332で
https://www.memofonte.jp/home/files/pdf/vasari_vite_giuntina.pdf
(両方とも投稿制限からitをjpに変えてありますのでitに戻してください。)
インナモラータの記述は1568年版P332の7行目で、次の通りです。
una delle quali si dice che fu l’inamorata di Giuliano de’ Medici fratello di Lorenzo
なお、邦訳では内容が多い1568年版が使われています(白水社版は平川祐弘訳、中央公論美術出版版は森田義之訳)。1550年版にあって1568年版で削除された部分については邦訳されていないので、上記の原文から翻訳サイトなどを使って訳をする必要があります。

シモネッタと夫マルコの関係を考えていて思ったことの一つに、バロックの芸術家ベルニーニと愛人コスタンツァのことがあります。(詳しくは石鍋氏の成城大学論文参照。下記URL)ここではベルニーニの弟子が自分の妻を愛人として師のベルニーニに差し出し、更にベルニーニの弟ルイージがコスタンツァと恋愛関係になって、激高したベルニーニがルイージとコスタンツァに対して暴力沙汰を起こすという話ですが、マルコ・ヴェスプッチもメディチ家に取り入るために妻のシモネッタを馬上槍試合の主役として差し出したが、予想以上にジュリアーノがシモネッタに熱を上げたので、嫉妬心が強くなり、それがパッツイ家の陰謀につながったということでしょうか。しかし、シモネッタが亡くなってからすぐに遺品をジュリアーノに渡したり、マルコは再婚しているので、事情はなかなか複雑なようです。
https://seijo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3812&item_no=1&page_id=13&block_id=17

もう一つ思ったのは、ロンドンNGにあるボッティチェリ作のヴィーナスとマルスをどう考えるかです。よく言われているのはヴィーナスのモデルはシモネッタ、マルスのモデルはジュリアーノであり、画面に蜂が飛んでいるのでベスパの連想からヴェスプッチ家が注文した絵であるということです。しかし、神話ではヴィーナスの夫は最も醜い鍛冶の神ウルカヌスであり、マルスはヴィーナスの浮気の相手です。この関係はシモネッタ、ジュリアーノ、マルコ・ヴェスプッチを連想させるのではないか。そんな不名誉とも言える絵をヴェスプッチ家が注文するだろうか、と思います。

今回図録の解説を読んでいて気になったことの一つに、小説などの...
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シモネッタの肖像画 その1 の続き (むろさん)
2023-02-11 16:52:46
前投稿の文章が長かったので、最後の部分が消えてしまったようですから、その部分だけ再度投稿します。その2は後日。

今回図録の解説を読んでいて気になったことの一つに、小説などのフィクションと歴史的事実の記載が紛らわしい部分があるということを感じました。図録では現代まで続くシモネッタ伝説やその影響も記述のテーマとしているので、フィクションの内容を詳しく引用したり紹介したりするのは意味があると思うのですが、歴史的事実でない作家の創作部分とは明確に分けないと誤解を与えると思っています。(辻邦生の春の戴冠ではシモネッタとジュリアーノが同居していたという設定になっています。これはさすがに無理だと思いますが)

また、このこととは逆の話になるのですが、岡田温司氏の著書で興味深いものがありました。「ヴィーナスの誕生 視覚文化への招待」(みすず書房2006年)にシモネッタの肖像画等に向き合う時に心掛けておくべきことが述べられています。この中で著者は「シモネッタ伝説はボッティチェリの芸術を味わおうとするとき、無視できない額縁を提供している」「今日の私たちが学問的な厳格さという名目のもとで、あまりにも厳密に意味や象徴を同定しようとすることは、かえって絵をやせ細らせ、鑑賞体験を貧困なものにしてしまうことになりかねない」として、当時の宮廷愛と騎士道、誌的夢想など(シモネッタ伝説もその一つ)をイメージの源泉としてプリマヴェーラやヴィーナスの誕生ができあがったことを論じています。なかなかに興味深い考え方であり、シモネッタに限らずルネサンス美術に対する態度として心に留めておきたいと考えています。
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むろさんさん (花耀亭)
2023-02-12 02:01:07
近年の研究を踏まえた貴重な情報&ご考察、ありがとうございました!!勉強になりましたです(^^)v
シモネッタとジュリアーの関係が果たしてどうだったのか、はやり想像を掻き立てられますよね。
むろさんさんがベルニーニとコスタンツァの関係を例にあげてますが、メディチ家の元気な若者がプラトニックな恋愛で済むのか、私的にも怪しむところではあります(;'∀')。まぁ、ヴェスプッチ家がパッツィ家事件に関わったのがシモネッタ因縁なのかはわかりませんが、ゴシップ的興味で想像すれば面白いのは確かですよね(^^;。
で、むろさんさんが岡田温司氏の著書から言及されている、学問的な厳格さがかえって絵をやせ細らせているというお話、なるほど!と思いました。シモネッタ伝説があるからこそ、作品に単なる《女性像》を超えるイメージの膨らみを感じます。

蛇足ですが、ご紹介の石鍋先生の論文に、「40歳で寡婦となったコスタンツァは、夫の仕事を受け継いで、今日流にいう画商のビジネスを続けたのだ。プサンやチェルコツィ、スウィーツらの多くの作品を家に飾っていたことは、財産目録からも確認できる。(p50)」とあり、スウィーツってフランドル出身の Michiel Sweerts (1618-1664)じゃないか?と嬉しくなりました。もしかして、コスタンツァと知り合いだったら...と想像すると楽しいです(^^)
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シモネッタの肖像画 その2 (むろさん)
2023-02-24 01:53:48
前投稿の修正及び補足を書きます。

1476年1月 馬上槍試合(フィレンツェ暦では1475年)/1476年4月 シモネッタ死去 と書きましたが、どの本を読んでも「馬上槍試合は1475年1月、シモネッタの死去は翌年の4月」と書かれています。当時のフィレンツェ暦は3/25から次の年になるので、1/1~3/24は引き続き前年の年号が使われているということで、私は馬上槍試合は現代暦では1476年1月と判断したのですが、どちらが正しいのかについて明確に書かれているものはありませんでした。これによって何が違うのかというと、シモネッタの闘病生活が3カ月だったか、1年3カ月かということです。(この年の冬の寒さは厳しくて、シモネッタは馬上槍試合の翌日から病気になり、二度と人々の前に姿を見せることはなかったとのこと。)私は結核で亡くなったシモネッタの闘病生活が1年3カ月では長過ぎると思っています。なお、フィレンツェ暦(受胎告知の日3/25から新年が始まる)については、高階秀爾の「ルネサンスの光と闇」第4章にボッティチェリ作「神秘の降誕」(ロンドンNG)の銘文の関連で解説されています。

次に、ロンドンNGのボッティチェリ作「ヴィーナスとマルス」がヴェスプッチ家の注文であるなら、ピエロとマルコ・ヴェスプッチ父子が不名誉と思われるような絵を注文することがあるのか、という件に関連してヴェスプッチ家のことを少し調べてみました。
この頃のヴェスプッチ家に関連する現存作品で注文者が分かっている絵は ①オニサンティ教会のボッティチェリ作聖アウグスティヌスとギルランダイオ作聖ヒエロニムスが1480年にアメリゴ・ヴェスプッチの父ナスタジオとその弟ジョルジョ・アントニオ・ヴェスプッチの注文 ②アカデミア・カラーラとイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館のボッティチェリ作ウェルギニア、ルクレティアの物語が1499年にグイダントニオ・ヴェスプッチの購入した家のために注文された の2件です。また、注文者不明の作品は ①オニサンティ教会のヴェスプッチ礼拝堂フレスコ画ギルランダイオ作慈悲の聖母とピエタ ②ロンドンNGのボッティチェリ作ヴィーナスとマルス の2件。
ヴェスプッチ一族のことを調べるには個々の人物の人間関係を知る必要があるので、系図があるかを調べたのですが、本(和書・洋書)、ネット情報とも見つけることができませんでした。例えば石鍋氏の「フィレンツェの世紀」にはメディチ家以下いくつかの家の家系図が掲載されていますが、ヴェスプッチ家の系図は出ていません(ヴェスプッチ家は大商人というほどの一族ではなかったのでしょうか)。なお、中公新書の「アメリゴ・ヴェスプッチ」1993年を今取り寄せ中なので、これに出ているかもしれません。清水書院の「アメリゴ・ヴェスプッチ」2012年には系図は出ていませんでした。そして、ライトボーンのボッティチェリ(カタログレゾネ1978年、邦訳なし)の聖アウグスティヌス解説には「three branches of the Vespucci」の誰かがオニサンティ教会ヴェスプッチ礼拝堂のギルランダイオ作フレスコ画を注文したとあるので、この頃のヴェスプッチ一族には3つの系列があり、これは多分ナスタジオとアメリゴ・ヴェスプッチ系列、グイダントニオ・ヴェスプッチ系列(1490年代には反サヴォナローラ派であり、一族で最も出世)、そしてシモネッタ・カッターネオを嫁に迎えた父ピエロとマルコ・ヴェスプッチ系列の3家系だと思います。1478年のパッツィ家の陰謀に関わった罪でピエロ、マルコ系列は失脚していること(後に許されるが遺族が経済的に困窮したことは前コメントで書いた通り)、ナスタジオ、アメリゴ系列は1480年にオニサンティのフレスコ画を注文していること、グイダントニオ系列は1499年に買った家の絵を注文していること、の3点から考えてピエロ、マルコ系列以外の2つの家系は絵の注文ができる程度には豊かだったと思います。ロンドンNGのヴィーナスとマルスはボッティチェリの作風から(パッツイ家陰謀後の)1480年代前半頃と考えられるので、ピエロ、マルコ系列の発注ということは考えられません。ただ、注文を受けたボッティチェリはヴェスプッチ一族からの注文なので、ヴィーナスとマルスにシモネッタとジュリアーノの面影を思い浮かべながら描いたということも考えられます。そしてこの絵はスパリエーラ(羽目板装飾画)かカッソーネ(婚礼用長持)の絵なので、他人の目に触れることはあまりなかったはずですから、注文者がシモネッタとジュリアーノを連想したとしてもピエロ、マルコ父子に対しての遠慮などは考えなかったのではないでしょうか。
なお、今回のことで今までボッティチェリやギルランダイオの絵の発注者が「ヴェスプッチ家」ということは知っていても、誰の注文かまでは考えていませんでしたが、個人名(少なくとも家系の系列)まで確認する必要があることを実感しました。その意味では、オニサンティ教会のヴェスプッチ礼拝堂のギルランダイオ作慈悲の聖母の発注者が誰であるかが判明すると、この中にシモネッタがいるかどうかももう少しはっきりすると思います(向かって右にいる横顔の女性=髪型が一連のシモネッタの絵と近い、または聖母マリアという説がある)。この絵は1472年の注文と考えられるので、シモネッタがヴェスプッチ家に来て3年、19歳頃に相当するので、描かれている可能性は十分あります。

ヒトラー強盗美術館のこと。
今回の展覧会図録で「ヒトラー強盗美術館」(月刊ペン社1968年)という本に第二次大戦中のシモネッタの絵の来歴が書かれていることを知ったので、図書館で借りて今読んでいるところです。この本は1964年発行のThe jackdaw of Linz(リンツの小鴉―ヒトラーの美術品掠奪物語。ヒトラーを盗癖のある小ガラスになぞらえている)という本の邦訳で、戦前の補修前のシモネッタの肖像(現丸紅)の写真とヒトラーが入手した経緯が2ページにわたって書かれています(文章は今回の展覧会図録にも掲載)。本の内容はヒトラーがなぜユダヤ人や占領した国から美術品を略奪し、故郷のリンツに総統美術館を建設する夢を抱いたか、それらをどこに隠し、戦後に連合軍がどのように発見し、返還作業を行ったかなどです。
このシモネッタの絵の戦時中の状況については、集英社リッツォーリ版ボッティチェリの編集者注に「第二次大戦中ナチス政権によって接収され、ヒトラーによって所蔵されたが、戦後ロンドンに渡り、1970年以来、東京の丸紅株式会社の所蔵となっている」と書かれていますが、これ以上詳しい情報は知りませんでした(上記のライトボーンのカタログレゾネや後で述べる芸術新潮1969年12月号にも戦時中の状況はほとんど書かれていません)。ヒトラー強盗美術館によれば「1938年にヒトラーは30万ライヒスマルクでこの絵を買い」「戦前のライヒスマルクの価値は今日(1964年当時)のドイツマルクの約2倍に相当した」とあります。1961年のマルク対米ドル切り上げ時点のレートで1米ドル360円=4マルクとして1マルクは90円なので、30万×2×90=5,400万円となります。芸術新潮1969年12月号によれば、1967年のサザビーでのオークションでは9,500万円、その後1969年の丸紅での真贋騒ぎの報道では1億5,000万円とされています。ヒトラー強盗美術館ではこの当時のヒトラー周辺での美術品購入には巨利を得ようとする美術商が暗躍していたことが書かれていますが、戦前での(戦後換算で)5,400万円と1967年の9,500万円を比べると、それほど安く買いたたいたというようには思えないので、集英社リッツォーリ版の編集者注にある「ナチス政権によって接収され」というのではなく、通常の商取引という気もしますが、一方で、戦後しばらくたって1966年頃にノア博士の遺族に返還されたという事実から考えると、30万ライヒスマルクという価格は不当に安い値段であり、やはり接収に近い入手だったのかとも思います。

この本(邦訳版)が出た1968年はその翌年に丸紅が購入する前であり、当然著者も訳者も日本に来ることは予想もしていません。掲載写真は戦前に撮られた修復前(ネックレスの3番目と4番目の真珠の玉にすき間がある状態)の写真です。この写真はボーデ、ヴェントゥーリ、矢代などのボッティチェリに関する戦前の著書に出ているものと同じであり、日本では1942年に摩寿意善郎が出した日本語で初めてのボッティチェリの本にも掲載されていますが、これらは全て専門書であり、一般向けの日本語で読める本ではヒトラー強盗美術館の写真が初めてだと思います。

この本はナチスドイツによる戦時中の美術品略奪のことを知るのになかなか興味深い本です。なお、この本ではベルギーで略奪されたゲントの神秘の子羊の祭壇画やミケランジェロの聖母子大理石彫刻などが岩塩鉱から発見される様子が出てきますが、以前このブログで話題になったカラヴァッジョの聖マタイと天使の第一バージョンのように、元からドイツにあり戦災で失われた美術品については対象ではないので扱われていません。
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むろさんさん (花耀亭)
2023-02-25 22:36:37
色々と興味深いお話をありがとうございます!!勉強になりました。

>シモネッタの闘病生活が3カ月だったか、1年3カ月ということです。
美人薄命とよく言いますが、もし試合後3カ月だったら、シモネッタが可哀そうですね😢。だからこそ、伝説になったのかも??

>発注者が誰であるか
ヴェスプッチ家といっても、誰が?が問題だとは...。ギルランダイオ《慈悲の聖母》の画像をチェックしましたが、確かに髪型的に似ているようにも思います。シモネッタだったら嬉しいですね。

>「ヒトラー強盗美術館」(月刊ペン社1968年
面白そうですね!!私も探してチェックしたいと思います。

いやぁ、絵画をめぐる履歴や物語って本当に興味が尽きませんね。むろさんさん、貴重なお話、ありがとうございました!!
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シモネッタの肖像画 その2 続き (むろさん)
2023-03-23 14:49:32
中公新書の「アメリゴ・ヴェスプッチ」1993年を取り寄せて確認したところ、ヴェスプッチ家の系図は一応出ていたのですが、前コメントで書いた3つの系統を別々に記載しているだけで、これらの相互関係は分りませんでした。本文を読むと「(アメリゴの)六世代をさかのぼる昔にフィレンツェ郊外のペレトラ村から移ってきて、オニサンティの界隈に住みついた」とあります。何世代前に分かれたのかは分りませんが、これら3系統の関係が分かる系図となると、かなり長期間のものになり、多くの人名を記載しなくてはならないということで、新書版の本程度では無理なようです。この件は今後の宿題ということにしておきます。清水書院の「アメリゴ・ヴェスプッチ」2012年との違いは、同じ新書版の本ですが、中公新書版は当時の歴史的背景やヴェスプッチ一族のことを前半で書き、後半はアメリゴの航海のことを書いているのに対し、清水書院版では(中公新書版の後に出たということもあり)前置きは5分の1ぐらいで、大部分の記載はアメリゴの航海の関係です。私のようにヴェスプッチ家全般のことを知りたい読者にとっては中公新書版の方が役に立ちます。ただ、中公新書版は30年前の出版という古い本なので、ギルランダイオの慈悲の聖母やボッティチェリのプリマヴェーラなど美術作品に関する記述が昔の説に従っていたり、ボッティチェリ工房作とされる男性肖像画をオニサンティ所蔵(実際には個人蔵?)のアメリゴの肖像としていることなど、いくつか気になる点もありました。

シモネッタの夫マルコの父、ピエロ・ヴェスプッチがパッツィ家の陰謀に加担し投獄された理由が「シモネッタの愛人とされるジュリアーノ・デ・メディチへの憎悪のため」という説に対し、今まで確認してきたことから改めて考えてみると、やはりこの説は誤りではないかという気がします。この説を取り上げているもので確認できたものは、①ランドウッチの日記の翻訳者注(近藤出版社1988年、中森義宗訳)、②上記のアメリゴ・ヴェスプッチ(清水書院2012年)、③今回の丸紅シモネッタ展図録解説(Rachele.Farina著Simonetta,2001年からの引用)の3点ですが、これらの元になった資料を読みたいと思っています。
私が考えたのは、
シモネッタとマルコは結婚後1475年の馬上槍試合までの7年間、子供ができなかった(シモネッタの死後再婚したマルコには子供ができた)
シモネッタの死後まもなく、義父ピエロからジュリアーノへシモネッタの遺品と肖像画を贈った
シモネッタの死後まもなくマルコは再婚した
の3点から考えて、①夫マルコは(フィレンツェ一の美女と言われていても)子供ができないシモネッタとは離婚したいと思っていたのではないか、②メディチ家から馬上槍試合のヒロインとしてシモネッタが指名されたので、喜んで協力した(メディチ家に取り入るため、そして経済的利益のため)、③シモネッタの死後1~2年の間にマルコは再婚し、シモネッタの遺品も手放しているが、パッツイ家の陰謀事件はその後と考えられるので、今さらシモネッタとジュリアーノの過去の愛人関係(それが事実なら)を理由にメディチ家に恨みを抱くというのは不自然
これらから考え、夫マルコの父、ピエロがパッツィ家の陰謀容疑者の逃亡を助けた理由は、メディチ家と組んでいるよりも別の家に協力した方が利益になる(メディチ家本家から教皇やパッツィ家へ乗り換え)と考えたためではないかと思います。なお、パッツィ家の陰謀の頃から、ナスタジオ、アメリゴ・ヴェスプッチ系列とグイダントニオ・ヴェスプッチ系列はメディチ家本家ではなく、分家筋のピエルフランチェスコ・デ・メディチの方に協力するようになっています。

余談ですが、馬上槍試合の開催日をシモネッタの誕生日としたのは、それだけロレンツォもジュリアーノもシモネッタを重視していた証拠だと思うし、シモネッタの命日のちょうど2年後の同じ日にジュリアーノが暗殺されたのは、偶然ですがシモネッタ伝説を一層盛り上げることになったと思います。

次にヒトラー強盗美術館の件の続編です。この本ではオーストリア国内のアルト・アウスゼーという岩塩鉱に隠された略奪美術品とその発見、回収の物語を中心に書かれているので、その他の岩塩鉱やノイシュバンシュタイン城などに隠された品物のことは簡単にふれているだけです。(ノイシュバンシュタイン城には足の踏み場もないほどの美術品が積み上げられていたそうです。)

また、略奪のやり方は国ごとに様々だったそうで、オーストリアは同じドイツ語圏の姉妹国として特別で、しかもヒトラーはオーストリアのリンツ出身であるがウィーンの美術アカデミーに入学できなかったことから、ウィーンに対してはかなり複雑な思いを持っていたようです。(先日のBSぶらぶら美術博物館のエゴン・シーレ展特集で、ヒトラーとエゴン・シーレはほぼ同年代であり、ヒトラーはウィーン美術アカデミーを2回受けて2回とも才能がなくて不合格、一方のシーレは才能が有り過ぎるため最年少で合格したが、アカデミーの教育に飽き足らず自主退学。番組ではもしヒトラーにもう少し才能があって合格していたら、あの戦争が起きることはなかったのではないかと言ってました。)

イタリアに対しては、ムッソリーニがいる間は友好国ということで略奪しなかったが、ムッソリーニが失脚した後はドイツが占領し、美術品に対しても略奪方針に変わり、ウフィッツイからも多くの名画が略奪された(アルト・アウスゼー岩塩鉱に隠したのではないので、この本では具体的な作品名は上げていない)。フランスでは公的な美術館からは略奪しない方針だったが、戦争がもう少し長引いていたらルーブルからも略奪されるところだったとのこと。略奪被害が大きかったのはベルギー、オランダや東欧諸国だそうです。ベルギーでも公的な美術館からは略奪しないで、ファンエイクの神秘の子羊の祭壇画やミケランジェロの聖母子彫刻は戦火から守るという名目で接収したとのこと。なお、ドイツ降伏の直前段階では、ベルギーの至宝である神秘の子羊の祭壇画を発見・回収できなかったら、戦後にベルギー国民から非難の嵐が起きることは必至だったので、連合軍側はかなり気を使ったそうです。ヒトラーは最後まで略奪美術品の保管を厳命していた一方で、敵側の手に落ちるなら爆破しろという相反する命令を出していたので、岩塩鉱の管理者はかなり悩んだとのこと。頑丈な岩塩鉱を全て爆破することは不可能ですが、爆破で入口をふさがれ電気が行かなくなると、地下水を汲み出すことができなくなって、結局美術品はダメになってしまう。また、ソ連側に先に占領されてしまうと、逆に美術品を奪われてしまう可能性があるということで、米英軍はかなり大変だったそうです。

具体的な略奪品・接収品の中でシモネッタと並んで特に目に付いたのが、現アムステルダム国立美術館のクリヴェッリ作マグダラのマリアです。この絵はフリッツ・マンハイマーというドイツ生まれのユダヤ人実業家のコレクションの中にあり、ヒトラーが接収したマンハイマーコレクションのうちで絵画としては最高価格だったそうです。マンハイマーはナチスに敵対する人物の大物としてブラックリストに挙げられていて、ドイツ国内でのユダヤ人迫害を逃れるためかオランダ国籍を取得し、オランダの銀行の経営をしていたが、1939年にフランスで不審な死を遂げています。健康上の問題(極度の肥満による心臓発作)も抱えていたので、病死なのか暗殺なのかは不明なようです。1944年に未亡人からヒトラーが購入したマンハイマーコレクションは、まとまったコレクションとしては3番目の規模であり、岩塩鉱に保管されていたが、戦後フランスやオランダに返還され、競売によりアムステルダム国立美術館やメトロポリタン美術館が入手したとのこと。

マグダラのマリアの来歴が気になったので、フリッツ・マンハイマーの英語版ウィキペディアやクリヴェッリのカタログレゾネ(Zampetti及びRizzoli)で確認してみたら、ヒトラー強盗美術館の記載とこれらの本などに書かれている内容に多少の違いがありました。日本語で書かれたものでは、小学館の世界美術大全集13イタリア・ルネサンス3(1994年)のマグダラのマリア解説に「ナポレオンの侵攻とともに行方がわからなくなり、1821年にベルリン、1948年にアムステルダムにあり、1960年に現在の美術館に収まる」とあり、これはZampettiのカタログレゾネ1986年の内容を要約したもののようですが、第二次世界大戦の時の状況は書かれていません。Zampettiのカタログレゾネでは「1935年にベルリンのカイザー・フリードリヒ美術館はこの絵を売却。1948年には、アムステルダムで古美術収集家のフリッツ・マンハイマーの手に渡った。その後、1949年にハーグの散逸した国家コレクションに渡り、1960年に同市の美術館に移された。」とあります。フリッツ・マンハイマーは1939年に死亡しているので、1948年というのは未亡人に返還された年だと思われます。Rizzoli のL’opera completa del Crivelli(1975年)では「1821年にカイザー・フリードリッヒ美術館が購入、第二次世界大戦中に紛失、1949年にアムステルダムのアンティーク市場に再出品、同年、現在の場所に移された。」とあります。また、ウィキペディア英語版のフリッツ・マンハイマーの項目では「マンハイマーの美術品の多くは、ドイツのオランダ侵攻後の1941年にヒトラーによって購入された。コレクションの大部分は、1952年にドイツから返還された際にアムステルダム国立美術館が取得したもので、オランダ大蔵省の命令により、コレクションの半分を売却することになった。」とあります。このように多少の違いはありますが、大筋では 1821年~カイザー・フリードリヒ美術館→1935年フリッツ・マンハイマーが購入→1944年にマンハイマー未亡人からヒトラーが購入(接収)し岩塩鉱へ→1948年(または1952年)未亡人へ返還→1960年にアムステルダム国立美術館が購入し現在に至る ということのようです。

何故来歴にこだわるのかというと、来歴を明らかにすることが絵の真贋や作者・年代判定に大きな影響を与えることがあるからです。シモネッタの絵では戦前の美術書に掲載されている写真と丸紅が日本に持ってきた絵の細部の差(ネックレスの真珠の玉の間隔、その他)が問題視され、真贋騒ぎとなって結局山種美術館は契約をキャンセルし、丸紅が引き取ることになって現在に至っています。この真贋騒ぎの時には、ヒトラーが接収した数年間の来歴が不明だったことが問題視されています(詳細は芸術新潮1969年12月号の「ボッティチェリ騒動の一ヵ月」)。また、石鍋氏はカラヴァッジョの絵を例に、年号や署名などの銘文がない作品であっても、制作当初またはそれに近い時期の信頼できる記録があり、その後の来歴が現在までたどることが出来て、様式・作風からも真筆と判定できるものはその画家の基準作とすることができる、としています。ウフィッツイやボルゲーゼにあるカラヴァッジョの何点かの作品はこれに当たりますが、一方で来歴が不明な作品はカラヴァッジョの真作であることがほぼ確実であっても制作年代については諸説が出される場合があります。ヴァザーリが芸術家列伝に取り上げている作品の場合、ミケランジェロ以降のヴァザーリと同時代人の場合は別ですが、ボッティチェリのように何十年も前の芸術家の作品では、近い時代とは言え全面的には信頼できないことになります(それでも十分有用な情報ですが)。クリヴェッリの絵に関する日本人が書いた論文で上原真依という人が美術史168号、鹿島美術研究年報別冊29号、大阪大学大学院待兼山論叢47号に絵の来歴に注目した論考を書いていますが、美術史論文では現在西美にある聖アウグスティヌスの絵がカ...
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シモネッタの肖像画 その2 続き の後半(消えてしまった部分の再投稿) (むろさん)
2023-03-23 22:23:31
今回も文章が長過ぎて最後の部分が消えてしまったので、その部分を再度投稿します。

クリヴェッリの絵に関する日本人が書いた論文で上原真依という人が美術史168号、鹿島美術研究年報別冊29号、大阪大学大学院待兼山論叢47号に絵の来歴に注目した論考を書いていますが、美術史論文では現在西美にある聖アウグスティヌスの絵がカステルトロジーノ祭壇画の一部であり、像主がアウグスティヌスであることを絵の来歴から論じています。一般の読者には絵の来歴の細かいところはあまり気にする必要はないのですが、このような観点からは重要な情報の一つと言えます。石鍋氏からはカタログレゾネというものは、制作年代、作者判定、注文主等の制作事情、絵の図像解釈、保存状態、関連作品、履歴、参考文献、展覧会出品状況など、その作品に関する全ての情報を網羅したものであるということを聞いています。(その意味ではカラヴァッジョに関するTASCHENの大型本やRizzoli のL’opera completaシリーズは厳密な意味でのカタログレゾネではない。)そして、今回クリヴェッリのカタログレゾネとして最も重要とされるZampettiの本と他の情報を比較することによって、Zampettiのカタログレゾネと言えども来歴の記載事項は完全に正確であるとは言えないことが分かりました。(これはボッティチェリのカタログレゾネとして最重要であるライトボーンの2巻本中のシモネッタの来歴記事でも同様であり、Yamazaki Artgalleryと書かれていますが、山種は契約をキャンセルしていて丸紅の所蔵です。今回の丸紅シモネッタ展図録でも指摘されています。)今後カタログレゾネを読む時には注意しておくつもりです。

なお、ヒトラー強盗美術館には多くの美術作品が岩塩鉱に保管されていたことで破壊を免れたことは歴史の皮肉であるといったことが述べられていますが、アムステルダムのクリヴェッリ作マグダラのマリアがそのままカイザー・フリードリヒ美術館に残っていたら、カラヴァッジョの聖マタイ第一作やルカ・シニョレリのパンの饗宴のように戦火で破壊されていたかもしれません。この点では岩塩鉱に保管されていたことが幸いだったと言えます。(カイザー・フリードリヒ美術館が1935年に売却した理由はよく分りません。戦前にはクリヴェッリの絵はあまり評価されていなかったのかとも思いますが、ヒトラーが接収したマンハイマーコレクションのうちで絵画としては最高価格だったとのことなので、高く評価されていたのは確かだと思います。)
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むろさんさん (花耀亭)
2023-03-25 22:11:58
色々調べて頂きありがとうございました!! 大変勉強になりました(^^)v

☆シモネッタの件、なるほど!で、すっきりしました(^^)/
①夫マルコは子供ができないシモネッタとは離婚したいと思っていたのではないか
②メディチ家から馬上槍試合のヒロインとして指名されたので、喜んで協力した
③シモネッタの死後マルコは再婚し、シモネッタの遺品も手放している
パッツイ家の陰謀事件はその後で、今さら過去の愛人関係(それが事実なら)を理由にメディチ家に恨みを抱くというのは不自然。夫マルコの父、ピエロがパッツィ家の陰謀容疑者の逃亡を助けた理由は、メディチ家と組んでいるよりも別の家に協力した方が利益になる
一部省略してまとめました(すみません)が、私的にすごく納得でした(*^^*)

☆ヒトラー強盗美術館の件の続編
>ベルギーの至宝である神秘の子羊の祭壇画を発見・回収できなかったら、戦後にベルギー国民から非難の嵐が起きることは必至だ
いや、もう世界の美術ファンから非難轟轟だったはずです(>_<)。発見されて本当に良かった!!

☆アムステルダムのクリヴェッリ作マグダラのマリアがそのままカイザー・フリードリヒ美術館に残っていたら、
本当にカラヴァッジョ作品と同じように焼失していたのでしょうねぇ😢。現在、アムステルダム美術館で観ることができるのは幸いなのだなぁと、つくづく思ってしまいました。

むろさんさんのご指摘のように「来歴」は非常に大切な情報でよすね。カタログレゾネも大変参考になるけれど、心して見なければならないと勉強できました。
今回も色々とご教授、ありがとうございました!!
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