花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

宗教音楽

2008-04-28 02:08:56 | 音楽
4月16日付で隣の部署への異動辞令が出て、引継ぎに引越し、新しい仕事の立ち上げ準備やらでバタバタしている。実際の着任は5月の連休明けなのだが、毎日が落ち着かない。こんな時には精神安定剤代わりの音楽を聴くに限る。

ちょうど、okiさんから頂いたチケットで松下電工汐留ミュージアム「ルオーとマチス」展を観て(okiさんに感謝!)、「ミセレーレ」連想から、タリス・スコラーズの「ミゼレーレ」が聴きたくなった。今回はHM/HRでは無かったが、これって歳だということなのか?(笑)

と言うことで、持っていたはずのサンタ・マリア・マッジョーレ教会でのパレストリーナ生誕400年記念ライヴCDを探す。しかし、引越しのドサクサで行方不明になったようで、どうしても見つからない。結局、2005年再録『ミゼレーレ』を購入してしまった。



iPodに入れて毎日聴いているが、究極の癒し系とでも言いたくなる心洗われる音世界が広がる。グレゴリオ・アレグリ(カストラートだったの??)がシスティーナ礼拝堂に捧げた曲であり、私もいつかあのミケランジェロの天井画の下で聴きたいものだと思っている。モーツァルトだって聴いたんだしね(^_-)-☆

ちなみに、メトロポリタン美術館で購入した『イタリア・ルネサンス時代の音楽(Music in the Age of the Italian Renaissance)』にも「ミゼレーレ」が入っているが、こちらはウエストミンスター大聖堂聖歌隊のもので、聴いていて確かに「聖歌」だなぁと思う。



ハイCは少年が歌っているのだろうか?? タリスコは女性ソプラノだから比較は難しいけど、私的には洗練の極致のようなタリスコにどうしても軍配を上げてしまうのだ(^^;;

で、今回、初めて気が付いたことがある。アレグリ(1582-1652)がカラヴァッジョ(1571-1610)と同時代人であり、更に何とコレッジョ(アントニオ・アレグリ)(1490-1534)の一族であったことを!(・・;)

さて、昨日、東京国立博物館「国宝薬師寺展」を観たのだが(こちらもokiさんに感謝!)、イヤホンガイドに薬師寺僧侶たちによる春の式典の声明が入っていた。大勢の僧たちの合唱のような声明に、ソロ独唱のようなパートがあって、声明って音楽なのね!とハタと気が付いた。

コーランの祈りだって朗々とした抑揚は音楽のように聞こえるし、世の東西を問わず宗教儀式は声の持つ力に負う部分が大きいのではないだろうか?ある意味、声とリズムは音楽の原初的なものだと思うし、それだからこそ心を揺り動かすエネルギーにも成り得るのではないか、と、ヴォーカル・フェチの私は思ったのであった(^^;;;

(調べたら藝大の奏楽堂で「薬師寺 1300年の響き」があったようだ。聴きたかった!)

国立西洋美術館「ウルビーノのヴィーナス展」(5)

2008-04-13 01:35:49 | 展覧会
ポツダムのサンスーシ絵画館にあるカラヴァッジョ《聖トマスの不信》を観た時、その黄金に輝く光のオーラに圧倒されてしまったが、同じようにアンニバレ・カラッチ《ヴィーナスとサテュロス、小サテュロス、プットー》も黄金のオーラが立ち込め、観る者は後姿のヴィーナスに魅了されることになる。そこには初期バロックを切り開いた画家たちのビルトゥオーゾが断固存在する。


アンニバレ・カラッチ《ヴィーナスとサテュロス、小サテュロス、プットー》(1588年)→拡大はここ

「パルマ展」の感想でも触れたが、アンニバレ・カラッチはコレッジョとティツィアーノから多くを学んだ。元々カラッチ一族はクレモナ出身だから、父親からロンバルディアの自然主義を受け継いでいたかもしれない。カラッチ一族の中でも抜きん出た才能を見せたアンニバレだが、それを支えたのは画業への情熱と飽くなき研鑽だったと思う。

今回の《ヴィーナスとサテュロス、小サテュロス、プットー》は一昨年のボローニャ「アンニバレ・カラッチ展」でもウフィッツィから出展されていた代表作のひとつである。美しい横顔と結い上げられた黄金の髪(ティツィアーノの影響を見てしまった)、滑らかな背中からふくよかな臀部へ、観る者の目は女神の裸身をうっとりと眺めることになる。輝く裸体を隠す白布と紅色のクッションのコントラストが女神の美しさを華やかな色彩で際立たせ、ああ、アンニバレって器用で上手いなぁと感嘆してしまう。

好色そうなサチュロスから身を守るヴィーナス仕草は「恥じらいのヴィーナス」の系譜を想起させ、危ないところだわ、と、一瞬の緊張感が画面にドラマ性を創出する。男性的見地からするときっとそそられるんだろうなぁ(笑)。この作品が官能的と言われる由縁かも。女神の頭上にいるプットーはサテュロスの角を押さえ、「これこれ、いけませんよ」と何気に牽制し、一方、女神の太ももに抱きつき舌をだしている小サテュロスはお下品(笑)で、両者のいかにもの対比が面白い。

さて、この画面を斜めに横切る構図やヴィーナスの後ろ姿の臀部など、どうしてもコレッジョの影響の大きさを想い出させる。コレッジョ《ユピテルとイオ》をどうしても想起せざるを得ない。それと、今回の展覧会でも出展されていたティツィアーノ《ヴィーナスとアドニス》もだ。


コレッジョ《ユピテルとイオ》(1531-32)


  ティツィアーノ《ヴィーナストアドニス》(1550年ごろ?)

しみじみ、アンニバレ・カラッチがコレッジョやティツィアーノをリスペクトしていることがよくわかるのだよね。

桜と美術の春

2008-04-01 03:48:13 | 展覧会
今年も千鳥ヶ淵の桜を眺めてきた。もちろん、例年の如く山種美術館「桜さくらサクラ・2008」展もセットだ。速水御舟の「春の宵」のはらはらと静かに散り行く花びらに今年も時を忘れさせてもらった。(参照:去年のブログ

ちなみに、今年も千鳥ヶ淵の桜…。去年とあまり違わないかも?(^^;;

 

年年歳歳花相似  年年歳歳 花相似たり
歳歳年年人不同  歳歳年年 人同じからず

あまりにも有名な劉廷芝「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代わる)」(「唐詩選」巻二 七言古詩)の句である。そう言えば私も白髪がめっきり増えたし…(涙)


ついでに、イタリア文化会館で「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公のストゥディオーロ」展も観てしまった。


(入口ではピエロ・デッラ・フランチェスカのウルビーノ公夫妻が出迎えてくれた...)

と、言っても、実は去年NYのピアモント・モーガン・ライブラリーでも観ている。
本物の小書斎はメトロポリタン美術館にあり、展示されている小書斎(ストゥディオーロ)は地元イタリアの職人たちが精魂こめて再現したものだ。
こじんまりとした書斎は見事な埋もれ木細工でできている。遠近法や影を使ったトロンプルイユ的凝った装飾模様は見事だ。入り口天上のウルビーノ公モンテフェルトロ家の紋章を見ると、その後のウルビーノの歴史の変遷に想いを馳せてしまう。あのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトはグッビアのこの書斎で何を考えていたのだろう?

会場ではルネサンス時代のエミーリアやウンブリアの陶器なども展示されていたが、それにもまして興味深かったのはピエロ・デッラ・フランチェスカの手稿のファクシミリ版だ。遠近法の構図と計算が見て取れる。レオナルド・ダ・ヴィンチと比べると真っ当な字を書いているなぁと思った(笑)。ブレラ美術館作品など観ていると時代を超越したかのような現代的感覚を覚える画家である。手稿を見ながらちょっと身近に感じてしまった。あ、やっぱり石鍋氏の本を読まなくちゃいけないかな(^^;;

実は、土曜日に国立西洋美術館でシンポジウム「エロッティック美術―図像と機能―」を聴講しながら、合間に上野の桜も見物してしまった。う~む、桜三昧に美術三昧の春だなぁ…(^^ゞ