遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『モダン The Modern』  原田マハ  文藝春秋

2021-03-04 13:33:38 | レビュー
 本書はニューヨーク近代美術館の所蔵品及びその組織とそこで勤務する人々を題材に取り込んだ美術関連小説の短編集である。この美術館はMoMAという略称で親しまれている。以下ではこの略称で記す。冒頭の本書カバー絵は、ピカソ作「鏡の前の少女」であり、MoMA所蔵である。本書には5つの短編が収録されている。本書の奥書を読むと、著者の経歴の一部に「森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館に勤務後、2002年にフリーのキュレーターとして独立」と記されている。フィクションとしての短編創作に、このMoMAでの勤務経験と体験が確たる基礎となり、記述のリアル感を高める作用を果たしているように思う。序でに、キュレーターとは美術館・博物館などに勤務する「学芸員」のことである。
 ここに収録された短編を通じて、副産物としてMoMAのことを一歩踏み込んで知る機会ともなって楽しめた。できれば一度ニューヨークに行き、MoMAを訪れてみたいと思う。そんな気にさせる。美術好き、展覧会好きの人々は読んでほしい短編集である。そうでない人は、美術や展覧会に目を向ける気にさせる小説と言えるかもしれない。
 収録された短編のそれぞれについて、簡略な読後印象を記し、作品をご紹介したい。

<中断された展覧会の記憶 Christina's Will>
 「ふくしま近代美術館 開館十周年記念 アンドリュー・ワイエスの世界展」という展覧会がやむなく中断される結果となる経緯を展覧会企画担当者側の交流関係として描いた短編である。この展覧会に、MoMAからアンドリュー・ワイエス作の「クリスティーナの世界」が貸し出された。なぜ、展覧会が中断される羽目になったのか?
 この短編はニューヨーク時刻で「2011年3月11日金曜日、午前6時55分。」という一文から始まる。マンハッタンの190丁目にある自宅アパートで、夫のディル・ハワードから杏子が声をかけられる。「キョウコ、ちょっと来てくれ。すごいことになってるよ」と。
そう、東日本大震災が発生したという報道!!
 杏子はMoMAの「展覧会ディレクター」。ふくしま近代美術館での展覧会への作品の貸し出しに関わっていたのだ。先方は学芸員の長谷部伸子が企画を担当し、MoMAへの窓口だった。
 3月14日月曜日、杏子は館長から「クリスティーナの世界」を引き上げることが理事会により決定されたと伝えられる。その時点ではフクシマの原発が爆発したという事実が伝わっていた。杏子は館長からふくしま近代美術館に行って作品を引き上げてくるという業務を指示される。作品の引上げは本来なら学芸員が出向く業務なのだが・・・・。
 展覧会中断に至る状況とそのプロセス、杏子ハワードと長谷部伸子の交流が描かれて行く。そこに、「クリスティーナ」が大きな意味を持っている。
 作品の引き渡しにおける杏子・伸子の交流の中で杏子がささやくように言う。「クリスティーナは、きっと、自分で決めてここへ来たんですよ」と。涙を誘う短編である。
 また、展覧会企画の舞台裏で行われる作品借用交渉などの一端がイメージできる作品でもある。

<ロックフェラー・ギャラリーの幽霊 Ghost in the Blanchette Hooker Rockefeller gallery>
MoMAの展示室内で監視員として勤務するスコット・スミスが主人公である。美術館に来館する人々は美術館にとっては、お客様である。その一面で、作品を傷付けたり盗むという行為を行う対象者かもしれない。美術館における監視員の業務を描きつつ、スコットがスコットが閉館に近い時間帯で見かけるようになった風変わりな青年との出会いのストーリーが紡がれていく。
 スコットがある日、その青年にあと30分で閉館の時刻だとていねいに伝えたとき、彼は「僕は、アルフレッド・バー。アルフレッドと呼んでいただいて結構です、ミスター・スコット」と微笑んで名乗ったのだ。
 スコットが勤務後に立ち寄る酒場「ハリーの店」の常連客から一冊の図録を借りることになる。それがスコットにとって幾度か出会うことになった青年の謎が解明できる契機になる。MoMAと深く関わる人物の幽霊だった・・・・。
 この短編には、モネの「睡蓮」、ジャクソン・ポロックとフェリッス・ゴンザレス=トレスの作品、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」と「鏡の前の少女」が登場する。また、ピカソ作の「ゲルニカ」とMoMAとの関わりのエピソードにも触れられている。興味深い短編。

<私の好きなマシン My favorite machine art>
 この短編を読み、MoMAが設立3年後に建築・デザイン部門を発足させ、1934年春に「デザインを美術館で見せる」、つまり、機械の部品を芸術作品として展示室に並べるという試みを世界で初めて行ったことを知った。「マシン・アート」の展示である。
 シンドラー書店を営む両親に連れられて8歳のジュリアはMoMAに行き「マシン・アート」を見て夢中になってしまう。ジュリアはMoMAの初代館長から語りかけられる。「ここにあるものはね、ジュリア。僕たちが知らないところで、僕たちの生活の役に立っているものなんだ。それでいて、美しい。それって、すごいことだと思わないかい?」
 この言葉がジュリアの中に残る。それがジュリアの人生の方向を決める。ジュリアはインダストリアル・デザイナーを目指す。
 この短編はジュリアと彼女の友・パメラの生き方を語り、この二人を介してMoMA初代館長の人物像を浮き彫りにしている。最後にスティーブ・ジョッブズを登場させるところがおもしろい。
  
<新しい出口 Exit between Matisse and Picasso>
 後で調べると、2003年2月13日~5月19日の会期でMoMAは「マチス・ピカソ展」を開催している。この短編はこの「マチス・ピカソ展」を題材にしている。ストーリーは2001年9月11日から2003年2月13日の期間を扱う。主人公はMoMAの学芸員、ローラ・ハモンド。2001年9月11日、ローラの同僚でライバル、そして唯一無二の友だちセシル・アボットがこの日を境に、この世界から永遠に姿を消した。そう、あのツインタワーでの大参事である。ローラの代わりにセシルがある要件を引き受けてあのビルに行ってのだ。二人は「マチス・ピカソ展」の企画に参画していた。ローラはPTSDに苛まれる。展覧会の企画・会議とその準備作業に携わるローラの心理プロセスを描きつつ、展覧会準備の舞台裏を描く。そして、エンディングで展覧会初日のローラの姿を捕らえていく。
 ここでも、展覧会の鑑賞者には見えない舞台裏の有り様を垣間見せてくれる。展覧会開催までに、どんな周到な準備がなされているかを。そして学芸員の夢と希望と意志の存在を。
 この短編には、「アヴィニョンの娘たち」と「ゲエルニカ」が再登場し、さらに「血入りソーセージのある静物」と「影」に触れられる。一方、マチスの絵として「浴女と亀」「マグノリアのある静物」「窓辺のヴァイオリニスト」が対比的に登場する。
 
<あえてよかった Happy to see you>
 わずか15ページの短編。主人公は日本の私立美術館の学芸員森川麻美。麻美は1年間、研修でMoMAに派遣される。MoMAからみれば麻美は大事な「客」である。研修期間中に麻美の面倒をみてくれた部署のディレクターのアシスタント、パティとの交流を描く。パティは28歳のシングルマザーで、Ph.Dの取得を目指している。
 アメリカの美術界とキャリア形成の実情とを垣間見させながら、麻美のニューヨーク生活を描く。パティとの交流で彼女のサポートが麻美にとってピークとなる日本の箸についてのエピソードが読ませどころになっている。
 この極小短編には、著者のMoMAでの経験が色濃く投影されている気がした。
 麻美が美術館のオフィスを去る日、パティに対するメッセージ、”Happy to see you”をどのように示したかがおもしろい。
 読者の心を暖かくなごませる小品となっている。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。主なものを一覧にしておきたい。
ニューヨーク近代美術館 :ウィキペディア
MoMA 公式サイト(英語版)
MoMAの歴史  :「MoMA Design Store」
Machine Art :「MoMA」
Alfred H. Bar Jr. From Wikipedia, the free encyclopedia
マモ・グイーンズ マチス・ピカソ展 :「NY art」
福島県立美術館 ホームページ
学芸員  :「マナビジョン」(Benesse)
ゲルニカ(絵画)  :ウィキペディア
作品解説「アヴィニョンの娘たち」 :「西洋絵画美術館」
パブロ・ピカソ 影 :「ヤフオク!」
PICASSO 私について語ろう  :「西洋絵画美術館」
【2021年コロナ禍 最新版】完全解説 ピカソ美術館 =バルセロナで一番人気の美術館=  :「バルセロナ ウォーカー」
浴女と亀 アンリ・マティス  :「MUSEY」
マティス「マグノリアのある静物」 :「足立区綾瀬美術館 ANNEX」
7.戦争の暗い影(絵:窓辺のヴァイオリニスト):「絵のある子育て」
ジャクソン・ポロック 基本情報 作品一覧 :「MUSEY」
フェリックス・ゴンザレス=トレス  :「美術手帳」
フェリックス・ゴンザレス=トレスのミニマルアートは実体験だ :「note」
September 11 attacks  From Wikipedia, the free encyclopedia
アメリカ同時多発テロ事件  :ウィキペディア
Crisis Communication: Lessons from 9/11 by Paul A. Argenti
  :「Harvard Business Review」
ジョナサン・アイヴが答えた「アップルのデザイン」:そのルーツからApple Watchに至るまで #WXD  :「WIRED」

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こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『アノニム』  角川書店
『たゆたえども沈まず』  幻冬舎
『風神雷神 Jupiter, Aeolus』上・下  PHP


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