遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『ブラタモリ 16 富士山・三保松原 高野山 宝塚 有馬温泉』  角川書店

2021-03-02 10:26:09 | レビュー
 本シリーズの第16弾。NHK「ブラタモリ」制作班の監修による出版(2018.12)である。長くなるので標題では略し、ここに表記しておきたい。
 「富士山・三保松原」(2018年1月20日放送)は「ブラタモリ×釣瓶の家族に乾杯」という「初夢スペシャル」のコラボ企画だった。この番組と「有馬温泉」(2018年1月13日放送)は視聴した。番組を見てから本書を読んだことになる。本書を読み結構聞き落としているというか、記憶に残っていない部分がある。また、有馬温泉は一泊旅行でも訪れたことがあり、その時気づかなかったこと、知らなかったことをも知ることができた。「高野山」(2017年9月9・16日放送)は番組を見落としていた。京都からの日帰りバスツアーに参加して高野山を訪れたことがあり、本書で復習する機会となった。「宝塚」(2018年1月13日放送)も視聴していないので、本書で初めて具体的な知識を得た。
 いずれにしても、本書は現地に関する基本知識を学び整理するのに役立つ。

 本書の基本構成コンセプトについて繰り返しになるがまずご紹介しておこう。
  *ブラタモリの番組放映のテーマについて、番組の流れに沿って論点を説明。
  *番組では語り尽くせなかった部分の補足説明(番組出演した研究者等のVOICE)
  *番組で採り上げた地域の観光スポットのガイド
  *同行アナウンサーの番組裏話 本書は近江友里恵さんのトーク
である。

 本書から私が学んだ要点を覚書としてまとめてみたい。それが本書を開いてみようという誘いになれば幸いである。
 本書の面白味はこれらの内容がどのようなアプローチで解き明かされていくかにある。語り口調で読みやすい本文の流れと写真やイラスト図によるビジュアルなサポートで放送番組の姿をイメージさせてくれる。そして基本知識を学べる。そこが読ませどころとなっている。

<富士山・三保松原> テーマ「一富士、二鷹、三茄子 ルーツは三保にあり」
*富士山と三保松原はセットで平成25年(2013)に世界遺産に登録された。
 三保と富士山がセットの感覚は平安時代の浄土信仰に始まる。
*「一富士、二鷹、三茄子」のルーツは徳川家康に関係する。
 家康は幼少期(今川家の人質)と晩年を中心に駿府(三保の周辺)で過ごした。
 「一富士」は富士の手前に三保と海があっての景観。三保松原の羽衣公園辺りからの景色
*「二鷹」の「鷹」は富士山の隣りの「足高山」をさし、江戸時代より「愛鷹山」と称す。
 江戸時代の『甲子夜話』に家康が語った言葉が記されている。家康の鷹好きにリンクする
*久能山東照宮のある久能山は有度山の一部。その南側は高さ200m超の断崖が5km続く地形
 有度山が削られてできた砂礫が海流で運ばれ三保半島の地形を生成。
 三保はかつて島だった(「瀬織戸の渡し跡」あり)。三保の黒い砂は泥岩で「三茄子」の因
 三保半島折戸地区は在来種「折戸ナス」の産地。他地域より1~2カ月早く収穫できる。
 「三茄子」は折戸で育つ伝統の茄子で縁起の良い初物として貴重で高価。家康も愛した茄子
*久能山東照宮は作事を務めた側近・中井正清を棟梁に、家康死後の翌月から1年7ヵ月で造営
 久能山の山頂には推古天皇期に補陀落山久能寺が開かれ、後に天台寺院の「久能寺」に。
 武田信玄が山城・久能城を造営。久能寺は北東に移動させられそれが現「鉄舟寺」に。
 この残存する久能城の縄張りを活かし短期間に東照宮が造営され、後のモデルとなる
*三保の地で家康が夢見た平和の楽土が久能山東照宮のコンセプトとして具現化されている。

<高野山> 
テーマ1「高野山は空海テーマパーク?」
*高野山は紀伊山地の標高800m以上の山上に広がる宗教都市。平安時代に空海が開いた聖地
*真言密教の修行の場であり、後継者たちがつくりあげた空海を身近に感じられる場所
*高野七口:町石道、京・大坂道、黒河道、大峰道、熊野道(小辺路)、相ノ浦道、龍神道
*町石道が正式な参詣道。船着き場が起点でかつてはここに「下乗石」があった。
 「下乗石」が俗世間と分離を体感させる最初の仕掛け。現在は断片碑が慈尊院門前に。
 慈尊院境内を通り丹生官省符神社への鳥居手前に「百八町」の古い石塔(=町石)あり。
 上部が五輪塔の形をした町石が大門、中門を経て根本大塔(⇒終点)までに180ある。
 一町ずつカウントダウンしていく。これが高野山に一歩ずつ近づくと体感できる仕掛け
 五輪塔の形をした町石自体が信仰の対象になっている。五輪塔は大日如来のシンボル
 町石建立事業は文永2年(1265)、高野山開創450年の節目に開始された。元寇の国難の頃
*大門から壇上伽藍が始まる。真言密教の世界への総門。テーマパークのメインエントランスに相当
 「高野山」とは山上に広がる町の名称。東西約4km、南北約3kmの盆地状の平坦地
 最盛期には約2000もの寺があり一般民家はない宗教都市。「高野山之図」(江戸時代)
 江戸時代女性は大門まで。大門の段上から先は立入禁止。高野山外周に「女人道」あり。
*大門、中門、壇上伽藍 [金堂、根本大塔、六角経蔵、御影堂]、高野山金剛峯寺
 壇上伽藍の境内地に三鈷の松(三葉の松の葉が含まれる)がある。
 慈尊院から壇上伽藍(根本大塔)までが「胎蔵界」に喩えられる。
*高野山2つめの聖地が「奥之院」。奥之院まで36の町石が続く。根本大塔からカウントアップ
 根本大塔から奥之院までが「金剛界」に喩えられる。
*一の橋から空海の御廟まで約1.5kmの空間に、大名墓をはじめ約30万の墓や供養塔が密集
 敵味方、宗派も関係なくみんなが奥之院に墓を建てた。様々な供養塔が建立されている。
 一般庶民の一石五輪塔も。手のひらサイズの石に4本の線刻だけの一石五輪塔まで。
*御供所から1日2回、御廟に届ける生身供。御供所の隣りに嘗試(あじみ)地蔵がある。
*一の橋、奥之院参道、水向地蔵、御廟橋、灯籠堂、弘法大師御廟

テーマ2「高野山はなぜ”山上の仏教都市”に?」
*高野山の現在人口は2300人。およそ3人に1人はお坊さん。
*金剛峯寺は高野山の総本山。もともと高野山全体の総称でもある。現在、山上の塔頭117
*高野山にはかつて御殿川(現在は暗渠に)が流れ、奇跡的に豊富な水に恵まれた土地
 多くの谷や沢が山の水を中央(内側)に集める谷地形。地質は泥岩。硬く水を遠しにくい。
 泥岩の上に、沢から運ばれてきたやわらかい土砂の層が水を蓄える働きをする。
*江戸時代、高野山は2万1300石の広大な領地(高野山領)を所有。年貢米が確保できた。
 高野山周辺の村々が当番制で山を登り高野山に野菜などの作物を寄進する風習があった。
  ⇒山上の僧侶の食生活を維持確保できる基盤が存在した。高野豆腐(保存食)の発明
*高野山のお寺(塔頭)は、それぞれ各地の大名と専属の宿坊契約を結ぶ。学生も派遣
  ⇒「宿坊証文」が結ばれた(例:連花院と徳川家、蓮華定院と真田家)。宗教学園都市
   宿坊は参拝者が宿泊できるお寺。現在の問い合わせ先は高野山宿坊協会
   お寺に「会下(えか)」と称する長屋建築がある。「寺生」たちの暮らす学生寮
*壇上伽藍は度重なる火災に遭遇:金堂は少なくとも6回、根本大塔も5回燃えている。
 現在は、「ドレンチャー」という画期的な防火システムが導入されている。
  ⇒建物をまるごと水で包む防火システム。高さ約5mの「水の壁」で火の手をブロック
*平成27年(2015)に中門が再建され、172年ぶりに壇上伽藍の諸堂がすべて揃ったという。
  ⇒中門再建にはすべて高野山系の用材(檜)、巨岩を使う。耐候性・耐用年数でベスト
   礎石と柱の接する下端には「光付け」が施された。自然の岩の凹凸に一致させる作業

<宝塚> テーマ「ナゼ宝塚は”娯楽の殿堂”になった?」
*阪急宝塚駅→花の道(全長430m、元は堤防)→宝塚大劇場。年間約119万人が訪れる。
*宝塚は神戸と大阪の両方からほぼ等距離の位置にあり、山際に立地する。
 宝塚は六甲山地と長尾山地の間を流れる武庫川が作った扇状地。武庫川はかつては暴れ川
 現在の宝塚の中心地に人が住み始めたのは今からわずか130年ほど前
*宝塚駅から2kmほど東の高台にある「小浜(こはま)」が江戸時代までの中心地
 有馬街道、京伏見街道、西宮街道が合流する場所で宿場町(小浜宿)。交通の要衝地
 小浜は幕領だった。江戸幕府直轄の領地。西日本の外様大名を牽制する意味合いも。
 それ以前は15世紀末に創建された浄土真宗の「毫摂寺(ごうしょうじ)」の寺内町
*小浜には芝居小屋があり、造り酒屋の名酒とで旅人の身と心を癒やす宿場町だった。
 現在、宝塚市立小浜宿資料館(小浜5-6-9)が開設されている。
*明治17年(1884)武庫川沿いに温泉が見つかり、右岸に「寶塚温泉」ができる。
 明治30年(1897)に阪鶴鉄道(現JR福知山線)、明治43年(1910)に箕面有馬電気軌道(現阪急宝塚線)が開通。宝塚は温泉街として発展(最盛期には70軒近くの旅館あり)。「大人の娯楽の町」に変貌。
最盛期には250人くらいの芸者が居たという。大阪の奥座敷
*武庫川左岸は低湿地帯だった。小林一三がここに目をつけ埋め立て、家族で楽しめる娯楽施設をつくる。明治44年5月1日に現在の宝塚大劇場の位置に宝塚新温泉を開業
*娯楽施設として日本初の室内プールを設けたが運営に失敗。しかしこのことが宝塚大劇場と宝塚歌劇団誕生へとつながる。プールを改修し、劇場に転用した。
*宝塚の「塚」は「盛り土をした墓」の意味で「古墳」。4~7世紀に多くの古墳ができた。
 宝塚には今も200以上の古墳がある。
*漫画家手塚治虫は昭和8年(1933)5歳のころから24歳まで約20年間宝塚の御殿山に居住
 宝塚市立手塚治虫記念館(武庫川町7-65)が開設されている。
 
<有馬温泉> テーマ「有馬温泉人気はなぜ冷めない?」
*歴史は1400年以上。日本三古湯のひとつ。他は草津温泉(群馬県)と道後温泉(愛媛県)
 『日本書紀』に「摂津國有間温泉湯」の文字を確認できる。舒明天皇の時代。初出史料
 神代に大己貴命と少彦名命が湯だまりで傷を癒やす烏を見て泉源を発見という伝説あり。
*行基などが再興。豊臣秀吉が愛した温泉。江戸時代には「有馬千軒」といわれにぎわう。
 極楽寺に隣接する「太閤の湯殿館」で秀吉の岩風呂遺構が見られる。湯船の深さ約65cm  ⇒秀吉は湯山御殿(第二次御殿)の完成を待たずに死去
   秀吉は一度もこの岩風呂に入ることが叶わなかった。
 江戸時代の有馬温泉は立ち湯、風呂に立って入るのが一般的だったという。
  ⇒絵図に描かれている。「合幕男女入込湯之図」(「滑稽有馬紀行」より)
*有馬温泉は自然の谷地形を使い生まれた温泉街。石畳の道の両側に連なる2階建て木造家屋は、1階を店舗、2階を宿にすることで多くの旅館が並んでいた。
*有馬温泉は噴出する泉源で98度もある。温泉の成分は鉄・塩・炭酸でそれらの濃度が高い。
 お湯が赤いのは鉄分が空気に触れ酸化した結果である。
 塩分は肌に保湿効果を高める。塩分は4.6%。海水は3%くらいなので1.5倍以上
 炭酸ガスは湯に溶け込むことで血管を広げ、血行をよくする。
*温泉成分の謎解きは温泉街から東に約3km離れた「白水峡」で熱源を探ることができる。
 そこは天然の渓谷(立入禁止)。白い岩肌の花崗岩が剥き出しで無数のひび割れがある。
 有馬-高槻断層帯。断層の分岐点にあたる場所。温泉の熱源は地球内部にあるマントル
 ⇒地下60kmで熱せられた海水が断層の割れ目を上昇する過程で炭酸ガスや鉄分を溶かし地上に噴出。それが有馬温泉にある7個所の泉源。「金の湯」の泉源は「天神泉源」
*温泉街の東側、六甲川に架かる杖捨橋がかつての表玄関で街道だった。石の道標が残る。
 現在は電車が通る温泉街の西側が表玄関になっている。

 大凡はこんなところか。他にも色々と詳述事項がある。それは本書を開いて読んでいただきたい。私的には、例えば、高野山の大名の墓所がp52-53に掲載されているがツアーで行った折りに見落としている墓所がある。一般庶民の一石五輪塔関連は気づかなかった。
 この本を読んでから行くと、現地の探訪の折に気づきが深まることだろう。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
三保松原 【富士山世界文化遺産構成資産登録】 :「駿府 静岡市」
久能山東照宮  ホームページ
高野山真言宗 総本山金剛峯寺 公式ウエブサイト
高野山のみどころ  :「和歌山県公式観光サイト」
高野山全体図  :「聖山 高野山」(一般社団法人高野山宿坊協会)
宝塚歌劇 公式ホームページ
宝塚大劇場  :ウィキペディア
小林一三について  :「阪急文化財団」
小林一三  :ウィキペディア
有馬温泉 有馬温泉観光協会公式サイト 
  有馬の歴史 
  神戸市立太閤の湯殿館 
太閤豊臣秀吉は如何に有馬温泉を愛したか :「有馬里」
有馬温泉むかしばなし~その浴槽は狭かった?~ :「有馬里」
  「合幕男女入込湯之図」が掲載されている。
銭湯の歴史  :「東京銭湯」

    インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ブラタモリ 3 函館 川越 奈良 仙台』 角川書店
『ブラタモリ 7 京都(嵐山・伏見)志摩 伊勢(伊勢神宮・お伊勢参り)』 角川書店
『ブラタモリ 10 富士の樹海 富士山麓 大阪 大坂城 知床』  角川書店
『ブラタモリ 13  京都(清水寺・祇園) 黒部ダム 立山』  角川書店